第一部 第九章 マネシツグミを殺すこと 前
第九章と第十章は海上保安庁のホームページ及び動画を参考にさせていただきました。 調べてもよくわからなかったところは作者の想像力で書いておりますので、もしリアリティにかけていたり、事実と相反することがあった場合はすべてわたくしの稚拙な文章力のせいでありますので、どうかご了承ください。
東京湾の異常事態にいち早く気づいてそれに直面したのは海上保安庁の巡視船「あさかぜ」の船長以下乗組員だった。 巨大な木が突如現れる数時間前、「あさかぜ」は夕方の巡視勤務を終え、港に戻り、緊急時に備えて船員は船内で待機していた。 大きな船舶の行き来は夜中にはなかったが、それでも小型船舶や観覧フェリー関連の緊急連絡もセンターから時折ある。 もちろん連絡が来れば、夜中でも駆けつける。 スマフォを水に落としたとか燃料切れで帰れなくなったとかのケースが多かったが、それでも時折は緊急を要する人身事故もあるので船員が待機している意味は十二分にあった。
その夜も主計科職員の準備したおいしい夕食を取り、そしてそれぞれが早朝の任務に備えて自分の床に入った。
海は凪いで、心地よいゆりかごほどの揺れしかその晩は感じなかった。
船長の潮見夏子は操舵室で一人夜景を眺めていた。 船長を務めてもう三年近くになるが、待機中は常に何かが起こるのではと気になってしまう。 もっとも眠れないわけではなかった。 横になればすっと必要なだけ眠れるようにも訓練してある。
だが、その夜だけは特別な感覚が訪れていた。 凪の静けさがどうにも気になって仕方がなかった。 海面が何かに押しつぶされて波が起こらないようにしているような気がした。 もっとも、その何かが夏子にはわからなかった。 ただそんな気がしていた。
そんな変な気分になるのも結婚の話のせいだと自分に言い聞かせて、遠く東京湾を眺めていた。
夏子の子供のころの父親との記憶と言えばこの東京湾だけだった。 休みごとに海岸沿いの公園で遊んだり、月に一度は船釣りに出たり、何かあれば父親は彼女を海に連れて行った。 夏子が高校に入った頃、父親が胃がんの手術をして体力が落ちてからは海に行く回数は減ったが、それでも父親や特に夏子の海に対する興味は失われなかった。
ある日、父親と横浜港に海上保安庁の巡視船の見学に行った。 夏子はその時の興奮を今でも忘れない。 港についてそこに停泊していた巡視船は白くきらりと輝きそして力強かった。 ボディにかかれたジャパンコーストガードの英字が目に焼き付いた。
丁寧な保安庁の方に案内され、夏子と父は巡視船に上がった。 船に足を踏み入れた瞬間から夏子は父親のことなど忘れてしまっていた。 時々、ねえすごいねと振り向くことはあってもそれは自身の興奮を抑えるためであって、父に同意を求めていたわけではなかった。 その時の父は顔では笑っていたが、半分は何だか困ったような顔をしていた。 あとでわかったのだが、父親はただ暇つぶしくらいの感覚で巡視船見学に行こうと言ったのだが、夏子にとってはまさに天の思し召しのような体験になってしまったのだ。
そうそして夏子が船橋に足を踏み入れた途端、彼女の体にビビっとイナヅマのような感覚が走り抜けた。 操舵席に近づき、そこから見た外の風景、それは彼女にとってまさに完ぺきだった。
これだ!とその瞬間夏子は思った。
隣にすっと白い制服をした保安庁の方が現れた。 夏子は勘違いして、
「お母さん?」
そう言ってその方の方へ振り向いた。
そこには母親のような優しい笑顔の女性がいた。 姿勢は今まで見た誰よりもきりっとしていて、目は夏子の目の奥まで見透かしていそうなほど深かった。
その女性はふふっと笑って、
「そうね、私は船のお母さんみたいな立場かもね。」
夏子はその人の笑顔に見つめられて、何も言えなかった。
「私はこの巡視船の船長の水谷です。」
女の人が船長? 夏子の頭はこんがらかってしまい、ただただ彼女の顔を見つめていた。 それを察して、水谷さんは夏子にいろいろ教えてくれた。 その場で何を教わったのかは何も覚えていなかった。 夏子は船長の話を聞く代わりに、自分も船長になると考えてワクワクし始めてしまったからだった。
そうやって夏子は風邪をこじらせたかのように夢をこじらせて、高校卒業後、海上保安大学校に進学、もちろん第一群(航海)を選び、がむしゃらに勉強や訓練に励み、そしていくつかの任務を担当したのち、晴れて巡視船「あさかぜ」の船長になったのだ。 なんて言うとすべてが順風満帆のように聞こえるが、もちろん山あり谷あり、嵐のような出来事もあったし、実際の嵐も含めて通り抜けた。
何も後悔はないと言いたいが、唯一船長になる直前に父親が別のガンで亡くなり、この姿を見せられなかったことは残念だと今でも思う。
ああ、一人になるとまた同じことを考えてしまう。
夏子は大きく息を吸って、目を閉じる。
瞼の奥には優しかった父の笑顔が浮かぶ。
「お父さん・・・」
ふと声に出てしまった。
「船長も眠れんのですか?」
少し南の方の訛りのある野太い声が後ろから聞こえた。
「まあね。」
と夏子が振り向くと、そこに主計科職員の原田が立っていた。
原田は年のせいか主計科の主な仕事である調理のせいか、最近とみにお腹の周りが目立って丸くなってきていた。 本人も気にしているらしく、味見を別の人にしてもらったり、自身はサラダ、みそ汁の専門になり、メインディッシュの調理をあまりしないようにしていた。 そうすることで自身の誘惑に勝てるかと思ったが、仲間の作るイタ飯や季節の野菜や魚の揚げ物などを見ると自分が作るものよりも余計おいしく見えて、結局のところいつもと同じくらい食べてしまうのであった。
「この時間になるとどうも小腹がすいてしまって。 でも、もう一杯食べましたけん。」
夏子はいったいこの人は何が言いたいのだろうと思ってつい笑ってしまった。
原田も申し訳なさそうに笑った。
夏子は原田が父親と同じくらいの年であることを普段は意識しなかったが、こういうときはどうしても何か相談してしまいたくなった。
「あの、原田さんはどう思います?」
「何がですか?」
「何だか今日は海がやけに静かすぎませんか?」
「そうですか? そうかもしれませんな。 ま、静かな方がええとは思いますけど。」
「そうですね。 私の気にしすぎでしょうね。」
「カップヌードルでも作りましょうか?」
「いえ、大丈夫です。 もうそろそろ寝ないと。」
「ああ、そういえば、おめでとうございます。」
「何がですか?」
「あなたのお婿さんになられる方はどこのラッキーボーイですか?」
「ラッキーボーイ?」
夏子はまたそのフレーズで笑ってしまった。 原田の方は相変わらず真顔で、何やら本当に知りたがっているような気もする。
「ラッキーボーイはですね、中学校で数学を教えている方で。」
「えらいまじめな方なんですか?」
「そうですね、まあ、まじめなのかな? どうなんだろう。 まだよくわかりません。」
「じゃあラッキーボーイじゃなくてどこぞのボンボンなんでっか?」
夏子は原田の心遣いはわかっていたが、もうその手には乗るまいと原田をにらんだ。 原田は相変わらず表情を変えず、
「失礼なことを言いました。 それじゃ、お幸せに。」
そう言って、彼は夏子に敬礼をしてその場を去ろうとした。
夏子も、原田に敬礼を返し、自分も部屋に戻ろうと思った。
その時、センターからの電話が鳴った。
夏子の表情が一瞬にして仕事人の顔に変わった。 その場を立ち去ろうとしていた原田もきゅっとお腹を引き締め、夏子を見た。 表情は変わっていないように見えたが、彼の目は真剣な面持ちになっていた。
「こちらあさかぜ船長、潮見、どうぞ。」
「こちら、東京マーチス、コードブルー、コードブルー、竹芝桟橋付近でトラブル発生。 直ちに急行願います。 どうぞ。」
「コードブルー了解、直ちに出港します。 どうぞ。」
「詳細は逐次ご報告します。 どうぞ。」
潮見、原田の方へ振り返り、うなずく。 それは少し微笑んでいるようにも見えた。 緊張時に見せる笑みだった。
「全乗組員に告ぐ、コードブルー、コードブルー、大至急出港の準備。」
船内全体に潮見の言葉が響き渡り終わるころにはすべての船員が持ち場に就いて、出船の準備にかかっていた。
「こちらあさかぜ、コードブルーの内容をお願いします。 どうぞ。」
なぜか返事がなかった。
「こちらあさかぜ、コードブルーの内容をお願いします。 どうぞ。」
隣で忙しく準備をしていた主任航海士の波田はふと手をとめ、夏子を見た。
「つながらないんですか?」
「何だろう、たった今連絡が入ったばかりなのに。」
「誰かのいたずらでしょうか?」
「ハッカー? もしかしたらそんないたずらをできる連中も世の中にはいるのかもしれないけど、今のは聞いたことのある声だった。 名前は今ちょっと思い出せないけど。」
「どうしますか?」
「出港します。 間違いやいたずらならそれに越したことはないわ。 それを確認するだけでもいいから。」
「了解。 出港準備よーし。」
「出港用意。」
夏子がそう言って、あさかぜは竹芝桟橋に向かった。
桟橋に向かう途中、何度も管制センターに連絡を取ったが、やはり返答がなかった。 地元警察に協力要請も試みたが、無線の具合が悪いのか、どこにも連絡ができなかった。 心の中に悪夢でも見た時のような嫌な気分が広まっていった。 隣の波田もそんな顔をしていた。
およそ三十分後、竹芝桟橋手前にあるレインボーブリッジの南約五百メートル地点にたどり着いた。 本来なら橋と埠頭のきらびやかな明かりのお出迎えがあるところなのだが、その時はあたり一面真っ暗だった。 遠くに見える高層ビルからもちらちら光る様子が見えたが、船上では手を伸ばすと指の先が見えなくなるほどだった。
「こちらあさかぜ、東京マーチス、応答願います。 どうぞ。」
夏子は念のためにもう一度センターに呼びかけてみたが、やはり何も応答はなかった。
「愛宕署も返答なしですし、やはり何かの間違いでは・・・」
波田はそう夏子に聞いた。
「速度減速、甲板長、サーチライトであたりを照らしてください。」
十秒も立たないうちの甲板からライトが照らされた。
「桟橋一帯をゆっくりと右に左にとお願いします。」
指示通りにサーチライトは桟橋の西の端からゆっくりと東の方へ海面をなめるように照らし出した。
夏子のすぐ横で航海士補の深水がサーチライトを追うように双眼鏡で海面を見ていた。 夏子自身も肉眼で見える範囲を目を凝らしながら見つめていた。
「桟橋までおよそ六百メートル。」
「甲板長、サーチライト切ってください。 船橋のサーマルモニターに切り替えます。 波田主任、エンジンを止めて。 甲板長、外からの音を聞いてください。」
夏子の目の前のスクリーンがぼやっとした赤外線のイメージを映し出した。
「深水補佐、サーマルカメラの操縦をお願いします。」
「了解。」
あさかぜがゆっくりとやってきた勢いで海上を滑るように走る。 モニター上にはぼんやりと波が優しく揺れる映像しか見えない。
やはり何かの間違い、それとも誰かのいたずら?
徐々にあさかぜが桟橋に近づく中、夏子の頭には奇妙な恐怖と馬鹿らしいと思えるほどの好奇心で一杯になっていた。
「止まりますか?」
波田は夏子に聞く。
夏子、じっと波ばかりのモニターを見つめ、うなずく。
「船舶停止。」
その言葉に合わせて、波田があさかぜにブレーキをかける。
「船舶停止。」
あさかぜが逆回転するプロペラの動きに反応し、それまでの勢いがじょじょに消え、そしてほとんど止まりかけた。
「船長!」
船内スピーカーから甲板長の声が聞こえた。
「どうしました?」
「十三時方面、赤ん坊の泣き声が聞こえます。」
「泣き声? 深水補佐!」
そう夏子がいうやいなや赤外線モニターはゴムボートとそれに乗っている人影を映し出していた。
「二人、いや三人? 三班、救命ボートにて救助活動を行ってください。 甲板長、サーチライトでゴムボート領域を照らしてください。」
まぶしいばかりの光がゴムボートを照らし出した。 深水、双眼鏡を覗き、
「ゴムボート確認しました。 乗っているのは、大人二人、その一人が赤ん坊を胸に抱きかかえているようです。 一人がボートを漕いでいます。 大人は二人とも女性のようです。」
「わかりました。 三班、ボートに乗っている方々を救命ボートに救助、ゴムボートは牽引お願いします。 肉眼で見る限り生命に危険が差し迫っているようには見えませんが、慎重に判断して行動してください。」
三班の救命ボートが大きな光の筋の中を通って、その行き先にあるゴムボートにゆっくりと近づいて行った。 軽い水しぶきは立っていたものの波の静かな海だった。
隣の深水と同じように夏子も自分の双眼鏡でゴムボートの様子をうかがっていた。 何やらそのゴムボートは陸に向かっているのではなく、東京湾の中心に向かっているようだった。
深水もそれをおかしく思ったのか、夏子が彼の方を振り向くと同時に双眼鏡を目から外し、
「真夜中の散歩っていう訳じゃあないですよね。」
「間違って流されたとか言うようにも見えないわね。」
「あれやないですか。 家出。」
あくびをかみ殺して波田がそう言った。 普段は関西弁を出さないようにしているらしいが時折出てしまうのだ。
「家出ねえ。」
深水も夏子もまた双眼鏡を覗く。
相変わらずゴムボートの一人はオールを漕いでいた。 もう一人は母乳を赤ん坊にあげているように見えた。
「母親っていうのは大変ですね。」
ぼそっと深水が言う。
夏子、それには答えず、自身ももしかしたらすぐにでも母親になるのかなと考えてしまった。
三班の操作する救命ボートはゴムボートの手前二十メートルぐらいでエンジンを切り、三班の皆オールを器用に使って、目標に近づいた。
三班の隊長、沼袋は見かけこそいかつかったが、乗務員の中では人一番繊細な男だった。 特にその声はごつい体からは想像できないくらいにきれいで伸びがあった。 まるでオペラのテナー歌手のように言葉が響いた。 そういうこともあってか、こういった緊急時の救助活動には一番の適役だった。
「こんばんは。 海上保安庁の沼袋と申します。 どちらまで行かれますか?」
そう声をかけた。 オールを持って必死に漕いでいる女性の手が一瞬止まった。 その女性は六十過ぎだろうか、特におかしな挙動や身なりをしていたわけではなかったが、薄手のブラウスにひざ下までのスカート、近所に買い物に行くには最適な服装だろうが、夜の夜中にボートを漕ぐというような様子ではなかった。
「どこかお怪我等はありませんか?」
そう沼袋は聞いてみたが、その女性は何でそんなことを聞くのだろうと合点がいかないような顔をしていた。 そして、またオールを握りしめ漕ぎ始めた。
その女性の後ろで乳飲み子を抱えた三十代前半の女性がいた。 この女性にしても、やはり普段着でボートに乗っていた。 ただ、赤ん坊は夜風に当たらないようにしっかりと毛布にくるまっていた。
「赤ちゃん大丈夫ですか?」
そう声をかけられた若い方の女性は何と言っていいかわからず、口をもごもごさせていた。
「とりあえずですね、念のために救命道具をご着用ください。 こちらに用意してありますから。 ゆっくりと近づきますよ。 ボートが当たると軽い衝撃がありますので、立ち上がらないようにお願いします。」
三班の乗務員は極力衝撃がないようゆっくりと救命ボートを近づける。 沼袋は手にロープを持って待ち構えていた。 救命ボートはゴムボートの行く手を遮るように近づいて行った。
「邪魔しないで!」
年配の女性はそう言うなり、ボートの上に立ち上がり、水の中に飛び込んだかと思うと今度は必死に泳ぎ始めた。
「お母さん!」
そう若い女性は叫んだが、赤ん坊を胸に抱えて動けない。
沼袋はすっと水の中に入り、その年配の女性を取り込める位置に動いた。 救命ボートから浮き輪が女性の目の前に投げ込まれる。 沼袋が彼女の体を後ろから支えるように抱きしめる。
「浮き輪に捕まってください!」
沼袋の必死の声も女性には聞こえない。 女性も必死に手や足を動かして、沼袋の手を振り払おうとしている。
「俺事引っ張れ!」
沼袋が叫ぶ。 救命ボート上の三班の二人は沼袋の体につながったロープをつかみ、ぐいぐい救命ボートの方に引き寄せる。
「お母さん!」
若い女性が叫ぶ。
年配の女性、疲れてきて、腕の動きも弱まってくる。
沼袋の手にずっしりとその体重を押しかけてくる。
ばん!
女性の最後の一撃が沼袋の顔を打つ。 鼻柱を打ち、沼袋一瞬くらっとする。
「女性、引き揚げます!」
三班の二人は年配の女性を救命ボートの上に引き揚げ、横にする。
哲夫・・・
それは一瞬の事ではあったのだが、鼻先を思いっきり打たれた沼袋の頭に彼の名を呼ぶ声が響いた。 それは昔に聞いた懐かしい声だった。
「じっちゃん?」
沼袋はその瞬間光に包まれたような感覚に陥り、目の前にその懐かしい人物の人影を見たような気がした。
待たせたな
次の瞬間、どたんとしりもちをつくように救命ボートに体を引き揚げられ、沼袋は正気を取りもどした。 もうその人影も見えなかったし、自分の祖父の声も聞こえなかった。
「班長、大丈夫ですか?」
「鼻から血が・・・」
「大丈夫だ、何でもない。 それよりさっきの女性は?」
「疲労しているようですが、意識はしっかりしています。」
「もう一人は?」
「赤ちゃんがいるので、このままゆっくりと母船まで牽引します。 一応、毛布と救命道具を渡しました。」
「ご苦労、二人とも心配させないように話しかけて。 船長に連絡は?」
「しました。 もう着きます。」
年配の女性がつぶやいている。
「あなた、あなた、あなた・・・」
沼袋、その年配の女性を見つめる。




