第一部 第八章 白鯨
東京湾沿いではいくつもの釣り場があり、本来なら釣好きの輩や家族連れなどでにぎわっているはずだった。 その日は例の公園のように次第にいろいろな着のみ着ままのいろいろな人がぽつりぽつりと現れ始め、そしてお昼過ぎにはその巨木を眺める人たちでいっぱいになっていた。 やはりどの人も同じように羨望の目を持って眺めているだけだった。
同じ頃、船着き場で夜中の二時過ぎころからその日の沖釣りの準備を始めていた釣屋の人々はその奇妙な人の群れと巨木に挟まれたようになってなんとも居心地が悪い思いだった。 その日に予定した客は現れず、その代わりにパジャマ姿の主婦や裸の男女やスーツ姿のサラリーマンやらが別段何をするわけでもなく、船着き場を埋め尽くし始めていたからだ。
早朝から来ていた釣屋達はそばの何人にかに声をかけてみたが、返事はなかった。 自分たちもその巨木には興味というか驚愕していたのは事実だったが、それをずっと眺めていようとは思わなかった。
その中にもう船着き場で仕事をして半世紀になろうという老人、ハブという人物がいた。
若い時に沖縄からやってきたとかで、今でも沖縄産のハブ酒ばかり飲んでることからハブさんとあだ名がついて、本名は誰も知らないし聞いたこともなかった。 そのハブさん、仕事ぶりはというといい加減と言うよりは気まま営業で本当に釣り好きの人の予約しか入れないし、第一ほかの人から見ればただの酔っ払いにしか見えないから、知らない人は近づかなかった。
今起きている奇妙な事件の前の晩は、昔から付き合いのある有名な会社の社長から予約が入り、しばらくぶりの出港だと気合を入れ、ハブ酒も一口にせず、掃除やら船の整備やらに忙しくしていた。
それがである。 夜中過ぎに準備が終わって、客の来る未明まで一寝入りしようとしていたところ、何やら胸騒ぎがした。 胸騒ぎなどするのは高校生の頃の初恋以来だったので、胸騒ぎでなく胸焼けかなと思い、寝つけの一杯をやめておこうと、いくつもあるハブ酒を船の中の自分の寝床のそばにある物置にしまった。
寝床と言っても古い船なので最近のような寝床ではなく、空いてる場所に自分で適当にマットレスを重ねただけのものだったが、ハブさんにはそれで十分だった。 晴れの日には日干しもした。
そこで横になったものの胸騒ぎのおかげで、寝つけなかった。 小一時間ばかり、右にごろごろ、左にごろごろとマットレスの上でしていたが、ようやく観念して起き上がり、物置からハブ酒のボトルを取り出して、ポンと口でふたを開け、一口、二口と飲んだ。
「やっぱ、これをやらんと・・・」
はあっと息を吐いて、もう一口飲もうとした瞬間、さっと当たりが暗くなった。 もちろん夜の夜中に暗いのは当たり前だったのだが、東京湾沿いの建物や公園やいろいろな明かりで真っ暗になるということは消してなかった。
暗闇とともに真の静けさが訪れた。 波の音が普段ならうるさいくらいなのにそれが聞こえなくなった。 ただハブさんも年が年なだけに時折めまいが起こったりすると、お迎えかななどと思ったりもしたので、その時もそんな風に自分の終わりが来たのではと勘違いした。
頭を軽く振ると、どうやら意識はしっかりしているし、どこも悪くないようだと感じてハブさんはそのまま立ち上がり、枕元にあった懐中電灯をつかみ、デッキに出た。
外に出ると、誰かが、まあ、恐らく同業者だろうと思ったが、スマフォの明かりで足元を照らしたり、あたりを見渡したりしているのが見えた。 そして、その同業者の方へ懐中電灯を揺らして、
「停電かい?」
と聞いた。
「いや、そうでしょうけど、はっきりとはわかんねっす。」
ああ、あの新米だな、とその返事で分かった。
「発電機は使えるんだろう?」
「いや、そうっすけど・・・」
「お前んとこの親方、今頃母ちゃんとよろしくしてるんじゃねえか。 あいつ最近十も年下のかかあもらって毎日がパラダイスなんて言ってたじゃねえか。」
「そうっすか? 困ったな。」
「困ることはねえ、さっさと掃除でも始めたらどうだ。」
「いえ、自分そのやっぱこの仕事に向いてないと思って、最後の給料をもらいに・・・」
「ったく、辞めるのは好き勝手だけどよ、なんで夜の夜中に・・・」
「いえ、その今日これから友達と釣りなんで。」
「あいつが来たら言っとくから、給料はまた後で取りに来い。 な、そうしろ。」
「でも、ガソリン代もバカにならなくて。」
どっちがバカだかと言いかけて、懐の財布を取り出し、五千円をつまみ、やっぱりと思って一万円札を渡した。
「わかったから、これ、餞別代りにとっとけ。 その代わりちゃんとした仕事見つけるんだぞ。」
「あ、すみません。 あの、餞別って返さなきゃならないんですか?」
「餞別っていうのはだな、うん、返さなくていい金なの。」
「そうなんすか? あの、すみません。」
「さっさと行け。」
「すんません。」
その新米は何度も頭を下げ、暗闇に消えた。
ハブさんはふうっと深くため息をついた。
今はあんな連中ばっかりになっちまったんかな? 別に昔がよかったとは言わねえが、俺にとっちゃあ世知辛い世の中になったな。
そう心に思って、ハブさんは目を閉じ、今度はゆっくりと鼻から息を吸い込んだ。 デッキに立って潮の香りを鼻の穴から肺の奥までその匂いを味わうように吸い込む。 舌に唾液がたまり、自分の味覚が洗練されていくような気がする。
さて、今日はあの社長と何を釣り上げてやろうかな? アジ、サワラ、それともシーバスなんてのも悪くないが、腰が持たねえな。 さっきの隣の新米にでも頼めばよかったか? どうせ、釣りやるならうちの船で、なんて言ったら隣の禿が怒るかも。 まあ、でも新しい母ちゃんもらったおかげで、あんまり怒って顔を真っ赤にすることも最近ねえな。
そういった割とどうでもいいことを考えつつ、鼻から大きく息を吸ったり吐いたりしているうちに、ハブさんはようやく落ち着いて、胸騒ぎもなくなった。
やっぱ、一杯かっくらって寝ないとな。
そう思って船室に戻ろうと思った時である。
潮の香りの中にこっそりと何かが忍び込むように隠れているような気がした。 それは昆布の青さの匂いではなく、何か違ったもっと洗練された青さの匂いだった。 毎日、その場で海の匂いを嗅いできたが、その匂いは初めてだった。 かと言って嗅いだことのない匂いでもなかった。 ただ、それは普段海から醸し出されてくる匂いとは違っていた。
ハブさんは目を開け、深く鼻から息を吸い込んだ。 鼻腔の壁でその匂いを味わうようにして。 その匂いはかすかながら鼻、喉、そして肺へ入った。 一度その匂いが通るとそこの内壁の表面にぴったりとくっついてそのまま体の一部になっていくような、そんな感覚だった。
今度は口からもっと大きく息を呑んでその張り付いた匂いをはがそうとしてみた。 が、かえってそれは逆効果だったようで、唇の端から口の中全体に張り付いてしまった。 まるでスプーン一杯のピーナツバターを何も考えずに口の中に放り込んでしまった時のように。 何度も飲み込もうとしたり、吐き出そうとしてみてもそこにくっついてしまった感覚ははがれなかった。 こうなったらと思い、指でかきだそうともしてみたが、そこにかきだせるものはなかった。 だからいくら指を口の中にいれてかき回しても何もかきだすことなどなかった。
あまり何度も指を口の中をいじくりまわしたせいで、ハブさんは吐き気を催し、そのまま吐いてしまった。 夕食に食べたおにぎりがそのままデッキの上に飛び出た。
いったいどうしたっていうんだ・・・
胃液の残った口の中やら気管の壁が焼けるように痛い。 頭の方は自分の身に起こっていることを理解できずにくぐもった感じだ。 不安が足元から体中を駆け上っていくようだった。 ハブさんはいつの間にか肩を震わせて泣いていた。
いったいぜんたいどうしちまったんだ・・・
それ以上の疑問がハブさん自身にわいてこなかった。 それ以上何を問いただせばいいのかわからなかった。
ハブさんは海の方を見つめた。 東京湾の中心に何かが起こっている。 実際、何も見えないのだが、本来はいろいろな明かりが見えるのに、それが一切消え去ってしまっていた。
「もういいかい?」
心の底から不安になるときは何度もあった。 そのたびにハブ酒を飲み、バカみたいに笑ったりしたが、それでも心の中では思い起こすのは彼が若いころに死んだ妻のことだった。 一生大事にするって小さな神社で二人きりの式を挙げ、写真だけでもいい写真をと知り合いのコネで帝国ホテルの庭で写真を撮り、それを小さなアパートの壁に宝物のようにかざり毎日を二人で生きていた。
それがである。 結婚して三年目の夏の夕方、妻がパートの仕事を終え、自転車の籠一杯に食料品を詰めてアパートに帰る途中、一台の暴走車が突然現れて、ハブさんの妻とその近くにいた数人をひき殺してしまった。 その車の主は酔っぱらった上に薬物を使用していたと一週間後に捕まった時に警察が言っていた。 そのおかげで尊い命があっと言う間に亡くなった。
そのころは監視カメラやスマフォもなく、その犯人を見つけるのに時間がかかった。 実際、誰もその瞬間を見た人間がおらず、見た人間は死んでしまっていた。 その犯人は事故のあと、すぐに町はずれの車の修理屋に塗装作業を頼んでいた。 そこのオーナーが怪しんで警察に連絡して、それで少し残っていた血痕が見つかり、それでお縄になったわけだ。
もっともそんなことはハブさんにはどうでもよかった。 棺に静かに横たわった妻を目の前になぜか涙が出なかった。 幸か不幸か顔にはまったく傷がなく、本当に寝ているだけのように見えた。
「リツコ・・・」
そう呼んでも妻は瞬きもしなかったし、よしんば返事もしなかった。 口元をにこりともさせなかった。
それ以来もう五十年近くなる。
五十年たつのにそれがまるで昨日のことのように心に突き刺さる。
「もういいかい?」
子供がかくれんぼをするときに周りを呼ぶように、ハブさんも眠れない夜などそう妻に向かって口にした。
もちろん返事など帰ってくるわけはなかった。
ただ、その時は違った。
「もういいよ。」
そう答えが心の中に響いた。 あたりを見渡したが誰もいなかった。




