八、解けゆく謎:前編
闇の中で声が聞こえる。男と女のものだ。女は抗っているらしい。悲鳴があえぐ息に混じって耳へ届く。何事かと目を凝らすと、パッと視界が開けて裸の男と女がからみ合うさまが飛び込んできた。女はクンドリー姫であった。腕を突っぱねて伸しかかる男へ抵抗しようとしていた彼女も、己が身体に走っためくるめく心地良さには逆らえなかったらしい。悔しさで流した涙は乾き、かわりに歓喜のため口元からよだれを垂らし息をはずませている。それだけでなく、男の腰の動きを味わい尽そうとするかのように首に両手を回し両足をからめてしがみついていった。
あられもないさまで自分を求める女を、男はただ無言で機械的に貪った。鍛え抜かれた男の背中には汗が光っていた。そしてその背中には、斜めにスッと右肩から腰にかけて大きくのびている刀傷があった。
その瞬間、二人の睦み事を目にしていた者は怒りと殺意の入り混じった叫びを発した。
「お、おのれ~、姫様までも手にかけおったか~!許さんぞ、ワルハラ~ッ!」
ガッと手ごたえを感じたと思うやいなや、まぶしさでしばらくは周りの輪郭が摑めなかった。
「き、気がつかれましたか」
光の中でそう話しかけてきたのは聞き覚えのない女の声だった。年のころは三十前後と思われ、気が強そうに目元が鋭い顔立ちの整った美しい女性がそこにいた。
「大変でしたよ、昨夜から熱でだいぶうなされておいででしたから。医者の話では、肺炎にかかっていたら歳が歳だけにまず助からなかっただろうと脅してましたけど。でも、もうじきですよ。熱さえひけば後は少しずつ治っていきますから。では、マリア様少しお待ちください。いま、先生をお呼びしてきますから」
まだ自分の手首を摑んでいるマリア・ウィドウの手を、ゆっくりと離して部屋を出て行こうとした女へ、
「お待ちくだされ、そこの方っ!」
「なにか?」
息せき切って呼び止める老婆に、まだ動いてはいけないと手で制しながら尋ねる。
「失礼ですが、ここはどこですかな。そしてあなた様は……」
「申し遅れました。私はザトペックの家内、エディタといいます。ここはザトペックの家ですので、お気を遣わずにお過ごしください。では、少しお待ちください」
ニコリと笑いかけてドアを閉めていくのを見送りながら、マリアは静かに息を吐いた。ザトペックといえば、たしかあのジーク・フリーズと行動を共にしていた、荒くれ共を束ねている例の男だ。
(その男の家ということは、先生というのはまさか……)
あれこれと思いを巡らせているところへ、再びガチャリという音がしてきた。
「よかったな、オババ殿。どうやら一命は取りとめたようだな」
今度は見覚えのある顔だ。間違いない、ジーク・フリーズである。妙にホッとしたものの、素直になれないのが彼女の性格だ。
「フン、老いぼれがまた死に損なってしもうたわ。まったく長く生きているだけで、なにも良い事などありはせん」
「そんなことはない。百まで生きてきたってことだけでも偉いものさ。オレの故郷である地球なんて、七十、八十までが精一杯だ。百五十や二百まで生きるのだっていることはいるが、そいつらのすべては薬物や機械化された身体で無理矢理引き延ばしてきたにすぎない。その点あんたは生まれた時の身体でここまで頑張ってきたんだ。たいしたものさ」
「女の歓びは男に愛されることよ。この歳ではそれも叶うまいて。それともぬしがわしと連れ添うてくれるかな?」
意外な反撃に、さすがのフリーズも詰まった。気まずい思いをさせまいと返答したが、むろんフォローにはならなかった。
「そ、そうだな、あんたはたしかに魅力的だと思うよ。出来ればあと五、六十年早く巡り会いたかったな……」
「プックククッ!五、六十年早くか……。ぬしは正直じゃの。わしもそれくらい若ければ、死ぬ気でおぬしについていったであろうな。それだけの魅力がぬしにはあるよ。まあ、ままならぬのが人生じゃからの」
「まあ、なんにせよ、しばらくはここで腰を落ち着けることだ。さっきまであんたを世話してくれた親方の女房は気立てのいい人だ。なんでも遠慮なく言ってくれ」
機嫌を直してくれたと安堵したが、やはりマリア・ウィドウ甘くはない。フォッフォッと愉快げに声をたてていたが、すぐにフリーズを見据えて、
「ところで、姫様は救い出せたのか?」
「ん……いや、それは……」
「また、さらわれてしもうたか」
怒鳴りつけられるのを覚悟でうなずくと、老婆は意外にも穏やかでそれでいて寂しげな口調でつぶやいただけだった。
「仕方あるまい。そういうこともあるだろうて……」
「いや、大丈夫だ。姫は必ずオレたちが救い出してみせる!」
「だが、そうしたところでこの先どうするつもりじゃ」
「どうって……」
「ぬしの左目のことは、あの晩ザトペックという男に聞いたよ。その途端、姫様は物も言わずに駆けていったよ。ぬしの元へな」
「その点は黙っていたこちらも悪かった。親方もああなるとは思わずに口走ってしまったんだろう。そのことで彼を責めないでくれ。なにもかもオレが……」
「わしが言っておるのはそのようなことではないっ!」
病に伏している者とは思えないほどの怒声だった。その凛とした響きにフリーズは襟を正される思いとなった。
「姫様は情の深いお方じゃ。幼きころ飼っていた小鳥が死んだ時にも、三日三晩泣き明かして食事さえも摂らなかった。ましてや、自分のために命を賭ける者へ平気な顔をしていられるはずがない。この先、ぬしをボディガードとして雇ったとしたら、姫様は常にお気を遣われるであろう。目の見えぬぬしが、ひょっとしたら刺客に狙われでもしないかと心配ばかりして……。守役としていうならば、そのようにして主人の心を乱すような者など雇いたくはないっ!ましてや助けてもらおうなど言語道断っ!」
深く深く突き刺さる言葉だった。彼女の言う通りだ。むしろ自分の認識が甘かったということを思い知らされずにはいられない。いずれにしろ、拒絶ともいえるマリアの一言に返すべき答えを見出せないでいるフリーズであった。
「失礼しますよ」
ザトペックの妻エディタがノックをして再び戻ってきた時、二人は気まずい沈黙を押し通している最中であった。
「あらあら、どうしたんです。お二人とも深刻な顔をなさって。マリア様、身体に毒ですよ。もう少しリラックスなさってくださいな。温かいココアをお持ちしました。これを飲んで、またグッスリお休みになってください。先生の分も用意してきましたよ」
さりげない気の使いようだった。終始笑みを絶やさず、ベッドの横の小テーブルに湯気の立つティーカップを二つ置いていくと、一礼をして立ち去りかけた。
「そうそう、先生。お相手をなさるのもよろしいですが、ほどほどになさってくださいよ」
背後からのそんな言葉に、フリーズは答えずただ苦笑いを浮かべるばかりである。また二人きりになった時、口火を切ったのはマリアだった。
「すまんのう、怒鳴ったりして。それにしてもあの女房殿はよくできた方じゃのう。女子というのは人の心をなごませる術を心得ておらねばならぬものじゃが、あの御仁はその点よくしたものじゃ。わしのように、年を取りすぎるとつい女としての恥じらいもなにも忘れ果ててしまっている。いかんの、こんなことでは」
老婆の反省に対してフリーズはなにも言おうとはしない。少なくとも彼はこの家の居候として、エディタの表も裏もある程度知っているだけにどこか面映ゆくもあったのだ。まあ、それはそれとして……。
「オババ殿」
最後はグチッぽくなり、また言葉が途切れようとしたマリアへそう呼びかけた。キッと彼女へと視線を向けたが、白い靄がかかっていて表情はまるで読めない。代わりにと、神経を耳元へ集中させて口を継いだ。
「あんたの言う通り、いまのオレが姫の護衛役を買って出るのは正直無謀だと思う。だからこそワルターの誘いも断わったし、この件には最初から関わるつもりなどなかった。だが、事情が変わってきた!ワルターは殺されかけ、姫は再びさらわれた。こうなった以上、オレとしては黙っているわけにはいかない。たとえこの一命を賭けてでも姫を救い出す!」
「命を賭けてもか……。姫様がこの場にいたら涙を流してお喜びになることだろうよ。じゃがのう、しかし……」
口元を歪めてカチャリとティーカップを手にしたと思うや、老婆は突然ギロリと睨みつけ、
「それが思い上がりというものじゃっ!」
突然まだ飲んでないそれを勢いよく投げつけてきた。目がきかぬとはいえ、避けられぬことはなかったはずだった。しかし……。
ガチャンッ
額に見事に当たってティーカップは砕け、火傷しそうなココアの褐色の流れと共に血がそこから滲んできた。
「見いっ、なんというざまじゃっ!武闘の達人ならば、いまの攻撃はよけておらねばならぬところぞ。この老体如きの投げつけてきたティーカップをよけられないで、どうしてハンス・リックから姫様を救い出せよう!」
「いや、そいつは違うなオババ」
「なんじゃと、どう違うと申す!」
「あんたはオレを殺すつもりでそいつを投げつけてきたわけではあるまい。だからよけなかった。同時にいまのは、オレが姫を救いきれなかったことへのささやかな償いのつもりだ」
「なにをたわけたことを……」
バカバカしいとマリアは嘲り笑った。フリーズの物言いが気に食わぬためでもあるが、彼が滴り落ちるココアを拭おうともせず、こぼれてくる液体を舐めながら話しているのに滑稽さを覚えたためでもあった。
「この左目が悪くなってきてからというもの、オレは相手の気配を読み取る訓練をしてきた。むろんこんなことは武術の基本中の基本だが、オレは徹底的に感覚を磨くことに専念してきた。つもりだ。その甲斐があって、少なくともいまは自分に害をなそうと立ち向かってくる者の気配は十分に察知できるようになった。だから勝算は十分にある」
「じゃが、確実ではあるまいっ!」
「いや、絶対に負けはせぬ。それだけの理由があるから」
「なんじゃ、それは」
「オレがジーク・フリーズだからだ」
唖然とした。マリアはどう答えていいかわからなかった。少なくともフリーズの頑固さは、一昨日の件でわかっているつもりであった。しかし、いまの彼のそれはあの時とは質が違うような気がする。
(まさかこやつ、姫様救出にかこつけてハンス・リックと決着をつけたいのでは……)
信じ難いことではある。しかし、そう考えれば、目の前の男の不敵な面構えは説明できる。初めて会った時の、世をすね背を向けていた雰囲気が、いまは微塵も感じられないのだ。
「相手はあのハンス・リックぞ。あやつは勝つためならば、どのような手段でも用いよう。それでも姫様を助け出してみせると?」
「ああ」
もう疑う余地はなかった。ハンス・リックの名を聞いた時、その左目は異様なほどに輝いてきたからだ。態度がその真意を雄弁に物語っていた。
(こやつ、とんだ大たわけじゃ。いまどきこのような男がまだいたとは……)
強い者と闘ってみたいというのは、男の持つ本能そのものなのかもしれない。守役として、女として、王女をダシにしようとすることは許し難かったが……。
「好きにするがよい。おぬしがそこまで言うのならば、あるいは見込みがあるやもしれん。じゃが、これだけは言わしてもらうぞ。万が一おぬしが敗れて屍をさらそうと、わしは一切関知せぬ。よしんば勝ったにしても、姫様を傷つけたり恐れ多くも死なせるようなことがあらば……」
ドンとそばの小テーブルを叩き、ティーカップの中身をこぼれさせ、
「わしはぬしを決して許さぬぞ。いや、その首を叩き落としてくれるっ!」
「承知した」
この瞬間商談は成立した。おかしな男ではある。あえて自分を追い込むに等しい条件にうなずいたのだ。尋常ではない。だが、この男のただならぬさまはこれでは終わらない。
「さて、そういうわけだオババ様。こちらも本気で取り組もうというんだから、そろそろ本当のことを話してもらおうか」
「なんじゃ、本当のことというのは」
「とぼけてもらっては困る。ハンス・リック、いやむしろ奴を動かしていた公爵側が一体どういった目的で姫様をさらおうとするのか、その理由を聞きたい」
マリア・ウィドウはまじまじとフリーズを見た。どうやら核心であったらしい。わざとらしくゴホゴホと咳をたてながら、
「どうもまだ、風邪が治りきってないようじゃの。疲れたのでわしは少し休ませてもらうぞえ」
「オババ殿!」
今度は、フリーズが責め立てる番だった。真っ赤な瞳を向けながら語りかけてくる男を前に、老婆は視線を合わせまいと顔をそむけた。相手には見えてないかもしれないが、彼女の内にあるものがあえてそうさせた。
「そのようなことを聞いてなんとする。ぬしは黙って姫様を救い出す算段でも考えておればよいではないか。なにもかも知った上でなければ、動きようがないというのでもあるまいて」
たいしたことではない。聞くまでもないこと。殊更に、そう強調したげな物言いであった。そしてフリーズのあの燃えるような目を見まいとして、マリアは窓からの景色に見とれるふりをした。庭に幾種類もの彩りの花を植えた花壇がそこにはあった。
「いや、あんたがそうやって隠しているそのことこそが、すべての謎の元となっているんだ。たしかにクンドリー姫は先王の血をひく唯一の生き残りだ。実権を握った公爵派に反発し、あるいは彼女を盛り立てて新しい政治勢力を立てようとする輩もまだパルジには残っているのだろう。そう考えれば公爵派にとっては邪魔になるはずだ。だが、それだけではあるまい。近くにいるならともかく、こんな辺鄙な星まで逃げのびてきた姫をわざわざ捕えようとするのはそれ以上の理由があるはずだ」
「ほう、一体どんな」
「それさ。あんたがさっきから話すまいととぼけているのは。恐らくそれは今後のパルジの運命を握るほどの重要なことなのかもしれない。でなければ、外交問題にも発展しかねないようなことをしでかしてまで奴らが彼女に執着はすまい。だが、しょせん……」
途中まで話していたフリーズはなにを思ったのか不意に立ち上がった。顔には笑みが浮かんでいたが寂しげなものだった。
「あんたの言う通り、しょせんオレは部外者だ。それを知ったところで、どうこう言う筋合いはないわけだ。すまなかったな、無理をいって。ゆっくり休むことだ」
「待てっ!」
背を向けかけた男へマリアの叫びが飛ぶ。フリーズの目には見えなかったが、彼女の表情は真剣なものとなった。そしてその面持ちの意味するものは、閉じられていた一言で証明された。
「よくぞ、そのことに気がつかれたな。ただの武術バカと、侮うておうたわしこそ愚かじゃった。本当にすまぬ。まずは腰掛けられよ」
いまのフリーズにとって、相手の心情の真偽をはかるには聴覚だけが頼りだった。しかし彼にとって幸いなのは、目先だけで見通すのとは違い、下手な先入観に囚われないですむ。話し手の声の高さ低さ、そして一定のリズムがどこで乱れるかどうかで、相手が隠し事をしているか否かわかってくるのだ。少なくともいまのマリア・ウィドウには真実があった。
「オババ殿、これから話すことに偽りはないのだな」
「もちろんじゃ。もはや隠し事をしておる場合でもなかろう。こうなったらすべてをお話ししよう」
そう口を継いだマリアと、向かい合ったフリーズにはもはや一切のごまかしがなかった。この瞬間一人の王女を救う同志として、二人はようやく心を開くことができたのである。とはいえ、話すべきことの重大さに緊張のために冷めたココアで喉をうるおした老女は、静かで淀みのない調子で口を運んだ。
「おぬしの言う通り、公爵側の真の目的は姫様本人にあらず……」




