七、進みゆく企み:前編
消毒液の匂いが目まいを覚えるほどに充満している。上半身裸となったフリーズは、寝台に横たえさせられ先程から医者の診察を受けていた。三十前後の眼鏡をかけた痩せぎすの医者は、妙にいかめしい顔で胸から腹にかけて指でフリーズの身体を叩いていた。
「ここは痛くない?うん。じゃ、ここは?そうか、よし。はい、じゃあ結構です」
医者が机に向かって診断書を書きつけている間、フリーズが起き上がり軽くため息をついていると、
「全身疲労からきた痛みのようですね。何をやったかは知らないが、疲労困憊になるほど身体を動かしたものだから、その影響で右目の古傷が痛み出したんでしょう。栄養剤を一本打っておきますから、今夜はゆっくりと休むことです。オイ、キミGIA3を頼む」
傍らの看護婦が注射を用意するため場を離れると、医者は椅子を回転させて向き直った。
「ところでジーク・フリーズさん、左目の調子はどうなんです」
「え、まあまずまずです」
「私が思うに疲労の原因の一つは、その片目にあるのじゃないかと思うんです。本来二つある目で見るべきところをあなたはその左目だけに頼っている。それだけでも神経をすり減らすには十分だ。そこへ加えてあなたの場合……」
「やめろっ!」
フリーズの大声に戻ってきた看護婦が思わずビクッとした。その拍子に注射器を載せた盆を取り落してしまった。
「もう少し落ち着いて持ってきなさい。片づけるのは後でいい。早く代わりを」
ミスをして泣きそうになった看護婦に、医者は穏やかに諭した。すいませんとつぶやいて、また奥へ引っ込んだ彼女の後ろ姿を確かめてから、
「いや、すいません。怒鳴ったりして。元々こうなったのは私自身の責任なんです。たとえこれで残った目が完全に見えなくなったとしても仕方のないことですから」
うなだれながら話すフリーズに医者はただ深く息をついて、
「あなた自身の身体のことですから、医者とはいえ私が一から十まで指図するわけにはいかないでしょう。ただ、これだけは言わせてください」
眼鏡を押し上げながら、この若い医者はずいと顔を寄せてきた。
「もしもあなたが本気で目を両方とも治したいと考えるのなら、地球へ行くことを是非ともお勧めします。辺鄙なこことは違って、地球の医学ははるかに進歩しています。見えにくくなっている左目だけでなく、既にない右目のほうも眼球移植で回復させられるそうです。ただしこちらは体の拒否反応もありますので、成功率は五十パーセントらしいですが。いずれにしろ、座して待つよりはいいと思います」
「金がかかるでしょうね、地球へ行くまでにしても」
「まあ、そうですね」
チラリと、ザトペック親方の顔が思い浮かんできた。彼なら旅費はおろか、手術のための費用も工面してくれるだろう。たとえ借金をしてでも。しかし……。
「考えてみます」
数分後診察室を出ると、ザトペックが不安げな面持ちで待ち構えていた。先程まで彼はソファーに座ったり立ち上がってウロウロしていたのだが、フリーズの姿を認めるとはじかれたように寄っていった。
「どうでした、先生具合のほうは」
「大丈夫だ、単なる疲労に過ぎなかった。一晩よく眠ればいいらしい」
「そいつあ、よかった。あっしはてっきり先生の左目がどうにかなったんじゃねえかと心配でした」
ようやくホッとしたらしく、親方は顔をクシャクシャにして喜んだ。だが、フリーズの目にはその表情は見えなかった。白い靄みたいなものが視界を遮っていたため、声の調子で相手の機嫌のほどを探るしか術がないのだ。むろん、口には出せないことだが。
「まあ、なんにしても目のことで金がいるようでしたら、いつでもあっしに言いつけてくだせえ。元を正せば、あっしのせいで先生の目が……」
「もういい、済んだ話だ」
大体の見当でポンとザトペックの肩を叩いた。鼻をグズグズいわせているところをみると泣いているらしい。まさか、昼間の時みたいに突然土下座をしたりするまいなとフリーズは思った。考えてみれば、あの時の光景は決していいものではなかった。
ガシャーンッ……
まるで見当違いの方向へ伸ばされたフリーズの右手は空を摑み、酒瓶は無残に地に砕け散ってしまった。
「せ、先生……」
傍らで土下座をしていたワルターは、自分が目の当たりにしたありさまをまだ信じられないでいた。茫然としているワルターとは対照的に、酒瓶を放った連中はこの意外な失敗にケラケラと笑いこけた。
「しっかりしてくだせえよ、先生、らしくねえなあ」
「目が片っぽしかねえもんだから、物がよお見えねえんですかい」
「ちげえねえ、ちげえねえ」
「なにがちげえねえって」
すっかりできあがっていた荒くれ三人組であったが、背後からの野太い声にサーッと血の気がひいた。親方が二人分の弁当を下げて戻ってきたのだ。
「お、親方……」
「仕事場じゃ、社長って呼べって言ってあるだろ。それよりなんだてめえら。早めに飯にしてるだけでもあれなのに、事かいて酒をかっくらってるてのはどういう料簡なんでいっ!」
「で、ですが親…いや社長だって若いころは仕事中に瓶の二、三本は軽く空けていたって自慢してたじゃありやせんか」
なまじ言い訳じみたことを口にしたのがいけなかった。朱に染まっていたザトペックの顔から、ポーッと湯気のような息が吐き出されるないなや、ポカリ、またポカリと三人とも頭が割れると思うほどのゲンコツを頂戴してしまった。
「バカヤロウ、オレらの若い時分は酒は飲んでも呑まれるなといってな、いくらあおろうが仕事のほうはガンガンとやってきたんだ。てめえらみてえに、ロクスッポ働きもしねえで酔いつぶれてるのと一緒にすんじゃねえ!わかってんか、おらあ!」
しまいには足蹴にしてあわや三人とも半殺しかと思われたが、さすがにそこまでは熱くなっていなかった。
「目障りだ、よそで食ってこい!」
まだ怒りが収まらない様子でザトペックが丸太のような腕を振り上げると、子分たちは命からがら弁当や酒もそのままに立ち去っていった。忌々しげにドンと足を踏み鳴らした親方は振り返ると頭を下げ、
「申し訳ありやせん、お見苦しい所をお見せしやして」
「いえ、それはいいです。それより先生、まさかその左目……」
「実はな……」
「本当に申し訳ありやせんっ!なにもかもあっしのせいなんです!」
突然そう叫ぶと土下座を始めたザトペックに、ワルターは更に困惑するしかなかった。しかし、頭を地べたにこすりつけるようにして話した彼の話を聞くうちにすべてを理解していった。
事の発端は半年前だった。その頃タンホイザーに行き着いてから間もなかったフリーズは、食べていくために親方の下で働くことにした。武者修行で身体を鍛え上げてきたとはいえ、初めてやる土木作業は彼にとっては決して楽なものではなかった。
「オラ、片目ェなにチンタラやってんだ!そんなへっぴり腰じゃ、かえって腰ィ悪くするぞっ!腰だけで持とうとするな、身体全体で運ぶつもりでやれっ!」
ザトペック親方の指導はとても厳しいものだった。だが、その辛辣な態度や言動とは裏腹に温かさも備えていた。行くあてのないというフリーズを自分の家に無償で下宿させてやったりと、面倒見のいい一面をも見せ、フリーズは彼の人となりに好感を抱くようになった。同じことはザトペックにもいえた。殆どが流れ者で、仕事にしても食べていくため適当にしかこなさない連中が多いなかで、ひたむきというより憑かれたように働くフリーズの姿に、いつしか心を打たれるものさえ感じたのである。事件が起こったのは、ちょうどそんな矢先のことだった。
ゴゴゴゴゴ……
それはまるで地鳴りのようであったと当時の関係者は語っている。他の土木業会社と連携して岩山の発破工事を行っていたザトペックは、業者との連絡ミスが元でその事故に出くわした。彼と何人かの部下がほら穴に爆弾を仕掛け、あと少しで外へ出ようとしたその時、この世の終わりとも思える爆発音と同時に地鳴りがして、彼らの上から何トン、何十トンもの土砂が崩れ落ちてきたのだ。
「うっうあああああああっ!」
驚きと恐れの叫びがそれぞれの口から発せられていった。ザトペックにとって幸いだったのは、傍らにフリーズがいたことだった。中肉中背の身体でよくぞと思わんばかりに、二回り三回りは大きい親方を抱えて彼は襲いかかってくる土砂の津波から逃れるために駆けに駆けた。
まったくギリギリのタイミングであった。彼ら二人が命からがら穴から抜け出すが早いか、濛々とした土煙をたててそこは埋め尽くされてしまった。後に三名の死体がそこから掘り出された時、よくぞ生き延びたものよとザトペックは身震いしたという。
「た、助かったぞ。あ、ありがとう、フリー……」
動悸がおさまらず、大きく息をしていたザトペックは振り返ってギョッとした。そこにはフリーズが頭から血を流して横たわっていたのだ。
「駄目だ、おい死んだらいかん!命の恩人を死なせるなんてことは……。このザトペックの男の意地にかけても助けて見せる。誰か、医者だ、医者を呼べっ!」
この人によって命を助けられた。生来感激屋であるだけに、ザトペックはこの日を境にフリーズを自らの師と崇め一目も二目も置くようになった。フリーズは絶大な信頼を彼から受けるようになった。だが、そのために支払った代償はあまりにも大きかった。




