第9章 父の食卓
10月29日の朝、凛は卵を割った。
小屋の台所には、古い四角いフライパンがあった。健太が使った跡が、底に残っていた。凛は洗い直し、布で拭いた。
砂糖を入れた。母がどれくらい入れていたか、正確には覚えていなかった。料理を教わる機会は、何度もあったはずだった。そのたび、凛は忙しいと言った。次に教わればいいと思っていた。
次という時間が、誰にでもあるわけではない。
卵を巻くと、端が少し焦げた。
凛は皿に移した。焦げた面を下にしようとして、やめた。母も、焦げたことを隠しきれなかった。隠せないものを、隠そうとする手つきまで覚えていた。
食卓には、剛三と健太が座っていた。
「卵焼きです」
凛は皿を置いた。
剛三は箸でひと切れ取り、口に入れた。
ゆっくり噛んだ。
凛は自分の茶碗を見ていた。感想を待っていることを、知られたくなかった。
「甘いな」
剛三は言った。
「砂糖、多かったですか」
「いや」
剛三はもうひと切れ取った。
「うまい」
声が少し掠れていた。
健太が立ち上がった。
「ちょっと、外の洗濯物見てきます」
洗濯物はまだ干していなかった。凛は気づいたが、何も言わなかった。
剛三は卵焼きを食べ続けた。
「焦げたとこも、食べるんですか」
「そこが、ええんや」
凛は箸を持った。母の卵焼きは、もっと甘かった気がした。あるいは、子どもの舌には、何もかも甘く感じられたのかもしれない。
食後、剛三は海を見ていた。
凛は隣に座った。
「昔の人、探したんですか」
剛三は頷いた。
「何年も探した」
「見つかったんですか」
「見つかった」
凛は息を止めた。
「10年くらい経ってからや。商店街で、女の子の手ぇ引いてた」
凛は自分のランドセルを思い出した。赤い色。肩の革が硬くて、最初のころは痛かった。
「声、かけたんですか」
「かけられへんかった」
剛三は海を見たまま続けた。
「わしが近づいたら、その子は、わしの子になる。あいつは、それが嫌で離れたんや」
「離れた理由、聞いてへんのに」
「聞かんでも分かることはある」
凛は首を振った。
「聞かな分からんことも、あります」
剛三は凛を見た。
「せやな」
しばらくして、剛三は小さく笑った。
「わしは、都合のええ答えを選んだんかもしれん。近づかんのが、あの子のためや、って」
凛は手を握った。
父に会いたかった。母が困ると思って、言わなくなっただけだった。誰も困らせないために黙っていた子どもは、黙っていることを望んでいたわけではない。
「その女の子は」
凛は言った。
「会いたかったかもしれません」
剛三は頷いた。
「そうかもしれんな」
その返事に、凛は腹が立った。今さら認めても、時間は戻らない。だが、否定されたら、もっと腹が立っただろう。
父との会話は、凛が想像していたより難しかった。
「アホですね」
凛は言った。
「ああ」
剛三は答えた。
凛は海を見た。言いたい言葉は、喉のすぐ近くにあった。
お父さん。
言えば、2人の時間が始まる。
始まった時間が、すぐに終わることを、凛は恐れていた。
*
小屋での2日目、凛は剛三の上着のボタンをつけ直した。
取れかけていることに気づいたのは、朝の片づけをしているときだった。剛三は、まだついとる、と言った。凛は、取れてからでは遅い、と答えた。健太が裁縫道具を探し、古い缶を持ってきた。
針に糸を通すのに、時間がかかった。村瀬ならすぐにできるのに、と思った。剛三は黙って見ていた。
「見られてたら、やりにくいです」
「見てへん」
「見てます」
剛三は海へ視線を移した。凛は少し笑い、ようやく糸を通した。
上着を膝に置くと、父の匂いがした。薬の匂いと、古い布の匂い。煙草の匂いはしなかった。ライターを持っていることを、凛はまだ知らなかった。
「昔は、煙草吸うてたんですか」
「吸うてた」
「やめたんですね」
「やめろ言われたからな」
「誰に」
剛三は答えなかった。凛も、それ以上聞かなかった。母だろうと思った。思うだけで、胸が少し温かくなった。その温かさに、頼りすぎてはいけないとも思った。
ボタンをつけ終えると、凛は糸を切った。少し斜めになっていた。剛三は上着を受け取り、指で触れた。
「上等や」
「斜めです」
「ついてたら、ええ」
凛は裁縫道具を缶へ戻した。
*
昼、健太は買い物から帰り、袋の中身を机に並べた。
豆腐、葱、魚、安い蜜柑。剛三は蜜柑を見て、まだ酸っぱいやろ、と言った。健太は、安かったんで、と答えた。
「安いもんには、理由がある」
「高いもんにも、理由ありますよ」
健太が言うと、剛三は少し笑った。
「言うようになったな」
凛はそのやり取りを聞きながら、蜜柑を剥いた。薄い皮が、途中で切れた。母は皮を長くつなげて剥くのがうまかった。凛が子どものころ、それを蛇のように見せて笑わせた。
剛三は凛の手を見た。
「皮、よう切るな」
「食べるとこは同じです」
「せやな」
凛はひと房食べた。酸っぱかった。顔をしかめると、健太が笑った。剛三もひと房食べ、同じ顔をした。
3人で笑った。
凛はその瞬間、怖くなった。この時間が好きになっている。父を逃がすためではないと言いながら、終わらせたくないと思っている。その気持ちを、自分から隠してはいけなかった。
食後、凛は外へ出て、村瀬に連絡した。確認できた資料と、まだ確かめていない話を伝えた。小屋で笑ったことは言わなかった。だが、父への感情が判断に影響している可能性は、はっきり伝えた。
「自分で言えるなら、まだ大丈夫だと思います」
村瀬は言った。
「大丈夫って、簡単に言わんといて」
「すみません。じゃあ、確認しながら進めましょう」
凛は頷いた。その言い方のほうがよかった。
*
剛三は、将吾を引き取った日のことを話した。
15歳の将吾は、誰にも頭を下げなかった。腹が減っていても、食べたいと言わなかった。剛三が飯を出すと、しばらく睨み、それから一気に食べた。食べ終わっても、礼を言わなかった。
「腹立ちませんでしたか」
凛が聞くと、剛三は首を振った。
「礼を言うたら、借りができると思うてたんやろ」
「分かったんですか」
「わしも、そうやったからな」
剛三は海を見た。
将吾はしばらく、夜になると靴を枕元へ置いて寝た。いつでも出ていけるようにしていた。剛三は何も言わなかった。ある朝、靴が玄関に置かれていた。それだけで、少し嬉しかったという。
凛はその話を聞き、将吾の部屋の写真を思い出した。15歳の顔。何も持っていないのに、笑っていた顔。
「学校は、行かせへんかったんですか」
凛は聞いた。
剛三は目を伏せた。
「行かせるべきやった」
「本人が嫌がったんですか」
「嫌がった。せやけど、嫌がったからで済ませたんは、わしや」
凛は黙った。
「組の中で役に立ったら、あいつは嬉しそうにした。わしも、嬉しかった。外へ出すより、そばに置いた」
剛三は手を膝に置いた。
「親やいうて、わしのほうが、あいつに頼ってたんかもしれん」
凛は父を見た。
「それ、将吾さんに言うたことありますか」
「ない」
「言うたほうが、ええと思います」
剛三は頷いた。
「間に合うやろか」
凛は答えなかった。間に合うと約束することは、できなかった。
*
健太は、自分が知っていることを紙に書き始めた。
凛は、書き方を決めつけないようにした。何をしたか、何を見たか、誰から聞いたか。分からないところは分からないままでいいと伝えた。健太は最初、きれいな字で書こうとして何度も消した。
「読めたら、ええよ」
「後で、間違いって言われたら嫌なんで」
「間違いに気づいたら、直したらええ。最初から全部正しく書ける人は、おらへん」
健太は頷いた。
紙の上に、会社の名前と日付が並んだ。凛が知らない話もあった。将吾が誰と会ったか。坂口が何を運ぶよう言ったか。健太は自分が関わった部分を、避けずに書いた。
「俺も、捕まるんですか」
健太は途中で聞いた。
凛は紙から顔を上げた。
「私には、今ここで決められへん」
「会長は、話したらええって」
「話すことは大事やと思う。でも、話したら何もなくなる、とは言えへん」
健太は頷いた。少し顔色が悪くなった。
凛は、怖いよね、と言いかけた。健太はしばらく黙り、それから、怖いです、と言った。
「うん」
凛は答えた。
「でも、妹に嘘つき続けるんも、怖いです」
健太はまた書き始めた。凛は隣で、自分の記録を書いた。2人の紙は別だった。互いの文章を、都合よく揃えないためでもあった。
剛三は少し離れた場所で見ていた。何も口を挟まなかった。その沈黙を、凛はありがたいと思った。
*
凛は、運動会の話をした。
小学3年のとき、徒競走で転んだ。膝を擦りむき、泣きそうになった。母は観客席から、立て、と叫んだ。凛は腹が立った。痛いのに、どうして心配してくれないのかと思った。
走り終わると、母が来た。凛は怒って、もう見に来んといて、と言った。母は、そう、と答えた。だが、翌年も来た。小さな弁当箱を2つ持って、校庭の端に座った。
剛三は黙って聞いた。凛が話し終えると、膝は、と聞いた。
「今も、少し跡あります」
「そうか」
「そんなことより、母が怒らへんかったん、不思議やったんです」
「怒ってたかもしれんで」
凛は父を見た。
「顔に出さんかっただけかもしれん」
剛三は言った。
凛は少し考えた。母は傷つかなかったのではない。傷ついても、翌年また来たのかもしれない。
「会長やったら、どうしてました」
凛は箸を置いた。剛三が答えるのを待った。
「分からん」
正直な答えだった。
「わしは、子どもが転んだとき、どこまで待ったらええか、知らん」
「将吾さんがおったでしょ」
「将吾には、待たんかった。立つ前に、手ぇ出した。立てるようになってからも、出した」
凛は父の手を見た。
父は、凛が何を好きだったかを聞いた。凛は、図書室、と答えた。雨の日は外で遊べない子が来るので、晴れの日のほうが好きだった。母が帰るまで、静かな場所で本を読めた。
「寂しかったか」
剛三は聞いた。
凛はすぐに、大丈夫だった、と答えそうになった。母を困らせないために、何度も使った言葉だった。
「寂しい日も、ありました」
凛は言った。
剛三は頷いた。
「でも、楽しい日もありました。母と2人で、よう笑いました」
「そうか」
父の声が少し低くなった。
凛は、父がいなかった人生を、全部不幸にしたくなかった。父に会いたかったことと、母との生活が大切だったことは、同時に言ってよかった。
健太が外から戻り、魚屋が休みだったと言った。話はそこで終わった。凛は少し残念で、少しほっとした。子どものころの話をするだけで、こんなに疲れるとは思わなかった。
その日の午後、剛三は凛に、好きな本の名前を紙に書いてくれと言った。凛は、何で、と聞いた。
「読めるうちに、読んどく」
凛は笑った。父が読むには、子ども向けすぎる本だった。だが、紙に書いた。父は丁寧に折り、上着の内側へ入れた。
凛はその仕草を見て、初めて、自分の話が父の荷物になったと思った。
*
30日の夕方、古川への連絡を経て、村瀬が小屋から離れた待ち合わせ場所へ来た。
村瀬は資料を持ってきた。長谷部と将吾の顧問弁護士が会っていた記録。金の受け渡しを疑わせる日付。将吾側の資料に残っていた連絡の痕跡。
「まだ、全部つながったわけじゃありません」
村瀬は言った。
「監察と、別の捜査班が確認を始めています。長谷部の報告した取引時刻だけ、実際の出入港記録とずれてます」
凛は紙を見た。
Hは長谷部。
頭の中で結論ができかけた。凛はそれを止めた。
「私の正体を流したことも、確認して」
「はい」
「会長を優先して捕まえようとする理由も」
村瀬は頷いた。
「神楽さんは、戻ってきてください」
凛は資料を閉じた。
「もう少しだけ」
「その、もう少しが危ないんです」
「分かってる」
「分かってるって言う人が、いちばん聞いてくれない」
凛は村瀬を見た。
「私が戻ったら、父は誰に渡されるん」
村瀬は答えられなかった。
「古川さんから、保護の担当者を決めて。父も健太くんも、何を話すかを決めてから出たいと言うてる」
「今夜、最終の確認を取ります」
村瀬は言った。
「だから、1人で決めないでください」
凛は頷いた。
小屋へ戻ると、剛三は健太と話していた。凛が入ると、2人とも口を閉じた。
「何の話ですか」
「飯の話や」
剛三は答えた。
凛は机の上を見た。封筒があった。剛三はそれを膝の上へ移した。
聞くべきだった。だが、凛は聞かなかった。
父にも、話したくないことがある。そう思った。自分が話せないことを抱えているから、相手の沈黙にも遠慮した。
その遠慮が、翌朝には後悔になった。
*
10月30日の夜、健太の電話が鳴った。
健太は画面を見て、剛三へ渡した。
将吾だった。
「親父、松井のおっさん、こっちにおる」
剛三の顔が変わった。
「病院におるはずや」
「転院の車、こっちで用意した。おっさん、親父の名前が出たら疑わへんのやな」
凛は立ち上がった。
「何をしたんですか」
将吾は凛の声を聞いて、笑った。
「あんたもおるんか」
剛三は凛に手を上げた。
「松井を返せ」
「31日、午前4時。第3倉庫。親父だけで来て」
「将吾」
「最後くらい、俺の言うこと聞いてくれや」
電話が切れた。
凛はすぐに村瀬へ連絡した。病院の確認を頼み、松井の保護を求めた。村瀬は、松井が夕方に病院を出た記録を確かめたうえで、別の捜査班へ緊急の対応を求めると言った。
剛三は机の前に座っていた。
「行かせません」
凛は言った。
「分かってる」
「分かってるなら、行かないでください」
剛三は凛を見た。
「松井を、置いていかれへん」
「私たちが動きます」
「わしが来んかったら、話にならん」
凛は机に手をついた。
「死ぬつもりですか」
剛三は首を振った。
「終わらせるつもりや」
「同じです」
「違う」
剛三は静かに言った。
「わしが始めたことは、わしが終わらせなあかん」
凛はその言葉を嫌だと思った。自分の責任を果たすために、残される人間の時間を使っている。
「残る人のことも、考えてください」
剛三は目を伏せた。
古川から、夜明けまでに保護の担当者が来ると連絡があった。小屋の位置は、その担当者へ伝えた。凛は玄関の鍵を確かめ、村瀬と連絡を続けた。
午前1時を過ぎ、健太が、交代で休みましょうと言った。剛三は布団の中で目を閉じていた。凛は、2時に起こして、と頼んだ。
健太は台所に座った。凛は壁へもたれた。
剛三は、凛が眠ったあとで立ち上がった。
机に向かい、便箋を広げた。手が震え、字が思うように書けなかった。何度も止まり、そのたびに書き続けた。
封筒に入れたあと、銀色のライターを上に置いた。
蛍。
側面の文字を、親指でなぞった。
剛三は凛のそばへ行った。眠っている顔を見た。30年前、まだ見たことのない娘を想像した夜があった。その想像より、娘はずっと強く、ずっと頑固だった。
「大きなったなあ」
声は、ほとんど息だった。
剛三は台所へ行った。健太が顔を上げた。
「わしがここにおる限り、松井は戻らん」
「神楽さんを起こします」
「頼む。10分だけ待ってくれ。松井に、迎えが来ると伝えてからにしたい」
健太は戸口へ立った。剛三は肩に手を置いた。
「お前を逃がしたこと、後悔してへん」
健太が俯いた。そのあいだに、剛三は戸を開けた。
外には、松井が小屋に置いていた古い軽自動車があった。剛三は鍵を持っていた。
健太が凛を起こしたのは、午前1時半だった。
「すみません。止められませんでした」
凛は玄関へ走った。車はなかった。すぐに村瀬へ連絡し、車種と色を伝えた。
部屋へ戻ると、封筒が目に入った。
剛三の布団は空だった。
机に封筒があった。
由紀子の娘、凛へ。
凛はその文字を見て、動けなくなった。
凛、と呼び捨てにした文字だった。
凛は封筒を裏返した。剛三の名前があった。
ライターを手に取った。冷たかった。30年分の時間が、こんな小さなものに収まっているはずはない。それでも、凛は握りしめた。




