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潜入先は、父の組  作者: ぽむぽむ


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8/10

第8章 海辺の生存者

10月27日の朝、撤退命令が届いた。

48時間以内に離脱。10月31日、午前5時、一斉捜索予定。

凛は画面を読んだあと、剛三の部屋を見た。襖の向こうで、剛三が松井と話していた。将棋の話らしかった。松井が笑い、剛三が何か言い返した。

この家を出れば、自分は安全になるかもしれない。

この家に残れば、仕事を失うかもしれない。

どちらにも、父がどうなるかという答えはなかった。

凛は剛三に、家を離れて休んでほしい、と頼んだ。

「将吾さんが、素直に止めるとは思えません」

剛三は布団の上で体を起こした。

「あいつは、わしが育てた」

「育てたからこそ、分からんこともあるんちゃいますか」

剛三は凛を見た。

言いすぎた、と凛は思った。だが、取り消すことはできなかった。

「そうかもしれんな」

剛三は言った。

「親いうんは、都合のええとこだけ覚えてるんかもしれん」

凛は胸が痛んだ。

親という言葉が、将吾に向けられている。

自分はその外側にいる。血がつながっていると分かっても、30年の時間は、すぐには埋まらない。

「せやけど、ここを出るんは、あいつから逃げることになる」

「逃げてもええんです」

「凛」

剛三は静かに言った。

「あんた、なんでそこまで心配する」

凛は答えられなかった。

刑事だから。娘だから。どちらも本当だった。どちらを言っても、もう片方を隠すことになる。

*

撤退命令を受け取った日の昼、凛は田辺と最後になるかもしれない食事をした。

いつもの弁当屋は混んでいた。2人は少し離れた食堂へ入り、日替わりを頼んだ。田辺は箸袋を折り、凛の顔を見た。

「辞めるん」

凛は驚いた。

「何でですか」

「机、片づけてたから」

凛は黙った。資料を整理しただけだった。だが、残すものと持っていくものを分ける手つきは、見ている人には分かるのだろう。

「まだ、決めてません」

「決められるうちに、決めたほうがええよ」

田辺は言った。

「私は、決めへんまま17年やった」

「後悔してますか」

「してることもある。してへんこともある。子どもが育ったんは、この給料のおかげやし」

料理が来た。田辺は礼を言い、味噌汁を飲んだ。

「せやけど、おかげ、だけで終わらせたらあかんのやろな」

凛は箸を持ったまま、田辺を見た。

「何かあったら、話を聞いてくれる人に相談してください」

「誰に」

凛は答えられなかった。自分だと言いたかった。だが、今は名乗れない。

「会社の外の人です」

「篠原さんも、外の人なんやろな」

田辺は静かに言った。

凛は顔を上げた。田辺はそれ以上聞かなかった。味噌汁の椀を置き、焼き魚の骨を外した。

「私、知らんほうがええことは、聞かんようにしてきた。せやけど、知っといたほうがええことまで、聞かんようになってたんかもしれん」

凛は、すみません、と言いかけた。田辺は首を振った。

「謝らんといて。謝られたら、何か聞かなあかん」

2人は黙って食べた。食事が終わると、田辺は自分のぶんを払った。凛がまとめて払おうとすると、最後みたいなことせんといて、と笑った。

会社へ戻る道で、凛は田辺の歩幅に合わせた。短い道だった。もう少し長ければいいと思った。

*

27日の深夜、屋敷の明かりが消えた。

停電だと思ったのは、ほんの一瞬だった。すぐに、ガラスの割れる音がした。松井の声が廊下に響いた。

「会長の部屋へ行け」

凛は走った。

暗い廊下の向こうに、人影がいくつもあった。誰かが凛の名前を呼んだ。篠原ではなかった。

「神楽」

坂口の声だった。

正体が知られている。

凛は剛三の部屋へ入った。剛三は起き上がろうとしていた。

「立てますか」

「ああ」

凛は剛三を支えた。廊下で物が倒れる音がした。松井がこちらへ来た。脇腹に押し当てた手の下で、シャツの色が変わっていた。

「裏の車や」

「松井さんも」

「先に行け。会長を頼む」

凛は動けなかった。

松井は凛の肩を押した。

「頼むいうてるやろ」

その声で、凛は剛三を支えて歩き出した。

裏口から外へ出た。夜の空気が冷たかった。剛三の体は重く、足取りは遅かった。凛は何度も松井を振り返った。

「松井は」

剛三が聞いた。

「来ます」

凛は答え、父を車へ乗せた。運転席へ滑り込むと、携帯電話を取り出した。緊急の通報先には住所と負傷者がいることを告げ、村瀬へも屋敷が襲われたと短く送った。車の位置は、まだ知らせなかった。

後ろから声がした。何を言っているのかは聞き取れなかった。

凛は車を出した。

門を離れたあとも、しばらく手が震えていた。剛三は後部座席で息をしていた。その音を聞きながら、凛は道を選んだ。

「どこへ行く」

剛三が聞いた。

「分かりません」

「泉佐野や」

剛三はゆっくり言った。

「海のそばに、小屋がある」

凛は頷いた。

そこが安全なのか、凛には分からなかった。だが、今は剛三の言葉を信じるしかなかった。

小屋に着いたのは、夜が明けるころだった。

戸が内側から開いた。

健太が立っていた。

凛は、車から降りたまま動けなくなった。

「篠原さん」

健太は剛三を見て、すぐに駆け寄った。

「会長、どうしたんですか」

凛は健太の声を聞いていた。記憶の中の声ではない。目の前で、生きている人間の声だった。

「健太くん」

それ以上、言葉が出なかった。

健太は剛三を支え、小屋へ入った。凛は後ろを歩いた。

小屋の中には、古い机と布団、鍋があった。健太が生活していた痕跡が、そこにあった。乾いた洗濯物。読みかけの雑誌。妹から届いたらしい手紙。

剛三を寝かせたあと、健太は凛に茶を出した。

「あの夜、松井さんが来てくれたんです」

健太は湯呑みを両手で持った。

「会長の命令や、言うて。俺を逃がしてくれました」

「車は」

「もう戻らんことにしたほうがええって。若頭には、死んだと思わせたほうがええって」

凛は剛三を見た。剛三は目を閉じていた。

「妹さんは」

「病院にいます。会長が、必要な金を出してくれました」

凛は湯呑みを置いた。

警察が守れなかった人間を、組の会長が守っていた。

その事実を、凛はどう扱えばいいのか分からなかった。

「私、何もできへんかった」

凛は言った。

健太は首を振った。

「缶コーヒー、受け取ってくれたじゃないですか」

「そんなこと」

「俺の話、聞いてくれた」

凛は目を伏せた。

それだけで許されてはいけないと思った。それでも、健太がそう言ってくれたことを、忘れたくなかった。

*

28日の昼、剛三は縁側へ出た。

海は穏やかだった。凛は隣に座った。健太は買い物に出ていた。

「あんた、警察なんやな」

剛三は海を見たまま言った。

「はい」

「そうか」

それだけだった。

「怒らないんですか」

「怒ったら、何か変わるか」

「私は、会長を逮捕するために来ました」

「今、聞いた」

剛三は少し笑った。

凛は膝の上の手を見た。

「騙してました」

「仕事やろ」

「仕事なら、何をしてもええわけやないです」

剛三は凛を見た。

「そう思うんやったら、忘れんとき」

凛は頷いた。

夕方、村瀬に連絡した。電話の向こうの声は、怒っているようにも、泣きそうなようにも聞こえた。

「何回かけたと思ってるんですか」

「ごめん」

「松井さんは病院です。命は助かってます。でも、まだ会えません」

凛は目を閉じた。

「ありがとう」

「管理官は、剛三の居場所を報告しろって。現場は身内の争いとして処理すると言ってます」

凛は小屋を振り返った。健太が鍋を火にかけていた。剛三が、味を見すぎるな、と言っていた。

「今は、言えへん」

「神楽さん」

「父を逃がしたいからやない。ここにいる人を、誰に渡したら安全か、分からへんから」

村瀬は黙った。

「古川さんに、私から連絡したい。長谷部を通さへん窓口に、今いる場所を渡す」

「つなぎます。ただ、引き継ぎには確認が要ります」

「その間は、ここに残る」

凛は言った。

「その代わり、全部記録する。私が何をしたかも、隠さへん」

その夜、古川と電話がつながった。凛は小屋の位置を伝えた。古川は、引き継ぐ班を決めるまで時間が必要だと言った。周囲の確認を頼める者は出す、とも言った。

「私の父です。そばに置きたい気持ちもあります」

凛は、言いづらいほうから話した。

「保護に移るときは、本人と健太くんに説明してください」

古川は引き受けた。いつまで待てるかを問われ、凛は、31日の捜索より前に、と答えた。

電話を切ったあと、凛は手帳を開いた。

10月28日。龍崎剛三と同行。所在の報告を保留。

自分の名前を、その下に書いた。

篠原ではなく、神楽凛と書いた。

*

海辺の小屋には、健太が作った小さな棚があった。

板の端が少し曲がっていた。釘の位置も揃っていなかった。だが、上には茶碗と湯呑みがきちんと並んでいた。凛が見ていると、健太は、ここ、何も置くとこなかったんで、と言った。

「図面、使ったん?」

凛が聞くと、健太は笑った。

「使いました。篠原さんがくれたノート」

凛は棚に触れた。健太が消えたあと、凛はノートを探した。ここで、形になっていた。生きている人間が、時間を使って作ったものだった。

健太はノートを出した。最初のページには、妹の病室に置く棚の図があった。その次に、この小屋の棚が描かれていた。寸法の横に、やり直し、と書いてあった。

「1回、倒れたんです」

「大丈夫やったん」

「何も載せる前やったんで」

健太は笑った。凛はその笑い声を聞き、ようやく、健太が生きていることを実感した。目の前にいるだけでは、まだ夢のようだった。失敗して、直して、笑う。その時間があったことが、凛を現実へ戻した。

「妹さんには、連絡してる?」

「松井さんを通して。俺からは、まだ」

「心配してるやろ」

「してると思います」

健太はノートを閉じた。

「でも、声聞いたら、帰りたなるんで」

凛は頷いた。帰りたい場所があることが、人を危険へ戻すこともある。守るために離れることと、離れたせいで傷つけることは、同時に起きる。

健太は台所へ行き、米を研いだ。凛も手伝おうとしたが、座っててください、と言われた。

「今日は、俺がやります。神楽さん、寝てへんでしょ」

初めて、本当の名字で呼ばれた。

凛は健太を見た。

「知ってたん?」

「会長から、警察の人やって。名前は、さっき電話で聞こえました」

「怖くない?」

健太は少し考えた。

「怖いです。でも、篠原さんも神楽さんも、俺の話、聞いてくれた人なんで」

凛は何も言えなかった。

*

剛三が眠ったあと、健太は凛に、逃がされた夜のことを話した。

坂口に連れていかれたあと、健太は、もう戻れないと思ったという。妹のことばかり考えた。病院へ連絡が行くのか。自分が何をしていたか、妹に知られるのか。怖かったのは、自分のことだけではなかった。

松井が来たのは、夜が更けてからだった。会長の命令だと言い、健太を連れ出した。健太は最初、別の場所へ連れていかれるだけだと思った。だが、車の中で松井が、腹減ったか、と聞いた。

「それで、助かるんやって、思いました」

健太は言った。

「腹減ったか、って、これからの話やから」

凛はその言葉を覚えた。

小屋へ着くと、剛三がいた。健太は謝った。警察に話したことも、妹のためだったことも、全部話した。剛三は最後まで聞き、そうか、と言った。

「怒られへんかったん?」

「怒られました。自分の命を、安く使うなって」

凛は目を伏せた。長谷部が健太に何を約束したのか、まだ全部は分からない。だが、命を安く使うなと言ったのは、警察ではなく剛三だった。

「会長は、俺に、ここで考えろって言いました。何をしたいか、誰に何を話すか、自分で決めろって」

「決めた?」

「まだ、全部は」

健太は首を振った。

「でも、妹には、俺から話したいです。ほかの人に言われる前に」

凛は頷いた。田辺も同じことを考えていた。自分の人生を、自分の言葉で説明する。その当たり前のことが、この事件では何度も奪われていた。

*

その夜、凛は短い夢を見た。

子どものころの台所で、母が卵を割っていた。凛は宿題をしていた。玄関が開き、誰かが帰ってきた。母は振り返らず、おかえり、と言った。

凛も顔を上げた。そこに立っている人の顔は、見えなかった。だが、知らない人ではなかった。夢の中では、その人が帰ってくることを、凛は当たり前だと思っていた。

目を覚ますと、小屋の天井だった。隣の部屋で、剛三が咳をした。健太が水を持っていく音がした。

凛は起き上がった。夢で見た生活は、現実にはなかった。父が帰り、母が迎え、娘が宿題を続ける。その普通の場面を、凛は30歳になってから初めて夢に見た。

泣くほどのことではないと思った。実際に失った記憶ではない。なかったものを、欲しがっているだけだ。

それでも、胸が痛かった。

凛は台所へ行き、湯呑みを洗った。水の音で、考えを止めたかった。剛三が戸の向こうから、起こしたか、と聞いた。

「起きてました」

凛は答えた。

「眠れへんのか」

「少し、夢見ただけです」

「ええ夢か」

凛は手を止めた。

「分かりません」

剛三は何も言わなかった。凛も夢の内容を話さなかった。父を責めるための夢ではなかった。だが、話せば、父は責められたと思うかもしれない。

湯呑みを伏せ、凛は布団へ戻った。眠る前に、明日は父へ1つだけ、自分の子どものころの話をしようと思った。父が知らない30年を、全部ではなく、1つずつ渡してみようと思った。

*

夢から覚めたあと、凛は小屋の外へ出た。

海は暗く、波の音だけがした。街の音と違い、誰かの意図を探さなくてよかった。波は、凛が何者かを知らない。篠原でも神楽でも、同じ音を立てた。

村瀬から電話が来た。松井の容体について、確認できた範囲を話してくれた。命は助かった。だが、まだ安心できる状態ではない。凛は礼を言った。

「管理官は、神楽さんが剛三に取り込まれたと言ってます」

村瀬は言った。

凛は海を見た。

「そう見えるやろな」

「俺は、そう思ってません」

「思わへんでくれるんは、ありがたい。でも、私のしたことは、調べて」

村瀬は黙った。

「父やから、判断が変わった部分はある。ないとは言えへん」

「それでも、危険があったのは事実です」

「両方、残して」

凛は言った。

電話を切ったあと、凛は手帳を開いた。小屋の明かりが、戸の隙間から漏れていた。その光を頼りに、今日の行動を書いた。剛三を連れ出したこと。健太と再会したこと。居場所の報告を保留したこと。

最後に、父と書いた。

すぐに、龍崎剛三と書き直した。仕事の記録では、そう書くべきだった。だが、消した文字の跡は残った。

凛はその跡を、消しきらなかった。


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