第7章 父と呼べない人
病院の廊下で、松井は凛に何も聞かなかった。
処置室の前の椅子に並んで座り、扉が開くのを待った。凛は両手を膝に置いていた。剛三を支えたときの重さが、まだ腕に残っていた。
医師が出てきて、今は落ち着いている、と告げた。松井は深く頭を下げた。凛も立ち上がったが、膝に力が入らなかった。
医師が去ったあと、松井は自動販売機へ行った。戻ってきた手には、水のボトルが2本あった。
「飲み」
凛は受け取った。蓋を開けると、指が震えていることが分かった。
「さっきの言葉やけど」
松井は自分のボトルを開けなかった。
凛は鞄から写真を出した。
松井は写真を見た瞬間、口を閉じた。
「蛍ちゃん」
小さな声だった。
「神楽由紀子は、私の母です」
松井は椅子に座り直した。写真を両手で持ち、母の顔を見ていた。
「そうか」
松井は何度も頷いた。
「そうやったんか」
「会長には、言わないでください」
松井が顔を上げた。
「なんでや」
「まだ、言えません」
「会長は、喜ぶ」
「喜んでもらうために、来たんやないんです」
言ってから、凛は唇を噛んだ。松井はその言葉を、すぐには理解しなかった。やがて、凛の顔を見たまま動かなくなった。
「篠原いう名前も、違うんか」
凛は頷いた。
松井は写真を返した。
「何をしてる人間かは、今は聞かん」
「松井さん」
「聞いたら、わしも決めなあかんことが増える」
松井はボトルの蓋を開けた。
「けど、蛍ちゃんの娘や。それは、変わらん」
凛は目を伏せた。
翌朝、剛三は目を覚ました。
凛は病室の椅子で、ほとんど眠らずに夜を過ごしていた。剛三が目を開けたとき、すぐに立ち上がった。
「会長」
その呼び方が、昨夜より苦しかった。
「夢、見てた」
剛三は天井を見た。
「昔の声が聞こえた」
凛はベッドの横に立ったまま、何も言えなかった。
「ええ夢やった」
剛三は凛を見た。
「あんた、寝てへんのか」
「少し寝ました」
「嘘つくん、下手やな」
凛は笑おうとした。うまく笑えなかった。
剛三は窓の外へ視線を戻した。
「将吾のこと、どこまで分かった」
「金の流れは、かなり見えました」
「無理はすな」
凛は頷いた。
無理をするなと言う人間と、必要な対応をすると言う人間。どちらを信じるべきか、仕事の規則は教えてくれなかった。
*
松井は、病院から戻った翌日、凛を古い喫茶店へ連れていった。
店には新聞が何紙も置かれ、壁の時計は5分進んでいた。松井はいつもの席らしい奥の椅子に座った。凛が向かいに座ると、しばらくメニューを見ていた。話すことを決めるために、時間を使っているのだと分かった。
「蛍ちゃんの娘やと、会長に言わん理由は聞かん」
松井は言った。
「せやけど、会長がどんな人間かは、知っといたほうがええ」
凛は頷いた。
松井は、剛三が若いころの話をした。気が短く、負けず嫌いで、人に頭を下げるのが苦手だった。人情のある会長という言葉で、今は説明されることが多い。だが、人情のあることと、怖いことは両立した。誰かを助けた同じ日に、別の誰かを追い詰めたこともある。
「会長を、ええ人やと思うための話は、せえへん」
松井はコーヒーに手をつけなかった。
「蛍ちゃんのことを大事に思うてた。それは、ほんまや。せやけど、それで全部ええことにはならん」
「分かってます」
「分かってる言うのは、簡単や」
松井の声が少し強くなった。凛は顔を上げた。
「わしも、会長に助けてもろた。せやから、会長のしたことを、見んで済ませた。恩があるいうのは、便利なんや」
凛は松井を見た。松井は自分の話をしている。だが、凛への警告でもあった。
「私は、見ます」
凛は言った。
「父やから、見んで済ませることはしません」
松井は目を閉じた。
「そうか」
それから、冷めかけたコーヒーを飲んだ。
「ほな、会長は、娘に恵まれたな」
凛は首を振った。
「恵まれたかどうかは、父が決めることです」
松井は少し笑った。
「ほんまに、蛍ちゃんに似てる」
凛はその言葉を、初めて素直に受け取れた気がした。母に似ていると言われることが、母の代わりになることではない。自分の中に、母から受け取ったものがあるということだった。
*
料亭の予約表の写しは、将吾の机の資料にあった。10月18日、黒田宗一郎、2名。凛は松井へ相談した。
「将吾さんに、私の顔を見られたら終わりです」
「隣の部屋までは、わしの知り合いに頼める。会話が聞こえるかは分からん」
店主は、顔なじみの松井にも簡単には頷かなかった。店で争いを起こさないこと。従業員を使わないこと。危険を感じたら、その場で終えること。凛は条件を聞き、断ってもらっても構わないと伝えた。
「松井さんの顔を潰すとは、思わんでください」
「そんなん、こっちが決める」
店主は少し怒った声で言い、奥の小部屋を指した。
*
約束の日、凛は客として先に店へ入った。
松井は別の場所で待った。凛は薄い襖を背に、机の上の茶へ手を伸ばした。隣の部屋に将吾が入る音がした。黒田はすでに来ていたらしい。
「31日の件、変わりはないな」
「ありません」
「親父さんは」
「寝てます」
将吾は短く答えた。
「余計なことを言わせるなよ」
凛は茶を持ち上げなかった。器が触れる音まで、こちらの気配になりそうだった。
「警察のほうは」
「Hさんが見てくれてます。先月のぶんも、弁護士を通して」
「荷が抜けたら、会長の帳簿を渡す。それで済むんやな」
「話はついてます」
黒田が何か続けた。廊下を歩く足音に重なり、凛には聞き取れなかった。
将吾が席を立った。襖が開く音。凛は自分の部屋の入口を見た。廊下の先に厠がある。将吾が戻るとき、こちらを覗くかもしれない。
凛は湯呑みを口へ運んだ。冷たい茶だった。
足音は、部屋の前を通り過ぎた。
2人が店を出てから、凛は手帳へ言葉を書いた。聞き取れなかった部分には、空白を残した。
翌日、村瀬へ話すと、彼はHの文字を見た。
「長谷部のHなら」
「名前だけでは決めへん。弁護士を通した金を追って」
村瀬は手帳を閉じた。
*
文江は、凛に古い食器棚の整理を頼んだ。
剛三が退院してから、台所の動線を変えることになった。重い皿を高いところへ置かず、普段使うものを取りやすくする。文江は、会長が自分で取ろうとするから、と言った。
棚の奥から、小さな茶碗が出てきた。子ども用だった。縁に青い線があり、底に少し欠けがあった。凛が手に取ると、文江は、将吾さんの、と言った。
「ここに来たころ、使うてた」
「15歳ですよね」
「小さかったんよ。最初は、あんまり食べへんかったし」
凛は茶碗を見た。将吾が一膳を何度に分けて食べたのか、想像しようとした。
「捨てますか」
凛が聞くと、文江は首を振った。
「本人が決めたらええ。私が捨てるもんやない」
凛は茶碗を洗い、低い棚へ戻した。将吾が来れば目に入る場所だった。
その日の夕方、将吾が屋敷へ来た。剛三は休んでいた。文江は茶を出し、凛は書類を片づけた。将吾は棚の茶碗に気づいた。
「まだ、あったんか」
声が少し変わった。
「捨ててへんよ」
文江は答えた。
「もう使わんやろ」
「使わんもの、全部捨てたら、家なんか空っぽになる」
将吾は茶碗を持ち上げた。指が、欠けたところに触れた。凛は見ていないふりをした。
「これ、俺が落としたんや」
将吾は言った。
「会長に怒られる思うて、隠した。文江さんが見つけた」
「怒られへんかったやろ」
「怒られた。隠したことを」
将吾は少し笑った。
凛はその笑い方を覚えた。会社で見る笑い方とは違った。人を試すためでも、自分を強く見せるためでもない。昔の自分を、少し離れたところから見ている顔だった。
剛三が起きてきた。将吾は茶碗を棚へ戻し、仕事の話を始めた。空気が変わった。凛は書類を持って席を外した。
廊下で文江が、小さいころのものは、捨てにくいな、と言った。凛は頷いた。
「会長が残してたんですか」
「誰が残したか、もう分からん。捨てへんかった人が、何人もおるんやろ」
*
将吾が帰ったあと、剛三は凛へ、あいつ何か言うてたか、と聞いた。
「茶碗の話を」
凛は答えた。
剛三は棚を見た。茶碗は、少し斜めに置かれていた。
「あいつ、まだ持ってたんか」
「ここにありました」
「そうか」
剛三は手を伸ばしかけ、やめた。
「将吾さんと、仕事以外の話、しはるんですか」
凛は聞いた。
「昔は、した」
「今は」
「何を話したらええか、分からん」
凛は父を見た。自分が父と話せないのと、似ていた。長く一緒にいたから話せるわけではない。時間が積もるほど、言えなくなることもある。
「茶碗の話でも、ええんちゃいますか」
剛三は少し笑った。
「そんな話、今さら」
「今さらやから、ええこともあると思います」
剛三は黙った。凛は言いすぎたと思った。自分は娘だと名乗れずにいる。その自分が、父と将吾の関係に口を出している。
だが、父は怒らなかった。
「そうやな」
小さく言った。
その夜、剛三は将吾へ電話した。凛は内容を聞かなかった。聞こえたのは、仕事の話やない、という言葉だけだった。
電話は短かった。剛三は受話器を置き、しばらく机を見ていた。凛は何も尋ねなかった。
後で将吾がその電話をどう受け取ったかを知ることは、できなかった。だが、父が1度は仕事以外の話をしようとしたことを、凛は覚えていた。
*
村瀬は、長谷部への疑いを誰に話すべきか迷っていた。
直属の上司を疑うということは、その上司が作った説明の外へ出ることだった。誰かに話せば、まず、なぜそう思うのかを聞かれる。凛が感情的になっているからではないか、と言われるかもしれない。村瀬自身が、凛に近づきすぎていると見られるかもしれない。
村瀬は、かつて研修で世話になった古川という職員に連絡した。古川は今、監察に関わる部署にいた。久しぶりの電話に、古川は、飲みの誘いか、と笑った。村瀬は、仕事の相談です、と答えた。
会うと、古川は最初に、結論から話すな、と言った。
「誰が悪いと思うかじゃなくて、何があったかを話せ」
村瀬は頷き、凛から受け取った事実を順に話した。自分が見たことと、凛が見たことを分けた。資料があるものと、まだないものも分けた。
古川は途中で何度も止めた。いつの話か。誰が聞いたのか。元の記録はどこか。村瀬は答えられない箇所に印をつけた。疑っていることを分かってもらうための話ではなく、確かめてもらうための話に変わっていった。
「危険はあるか」
古川は最後に聞いた。
「あります。現場の捜査員と、協力者に」
「今、どこにいる」
村瀬は答えられる範囲を話した。古川は、ここから先は、自分だけで判断するな、と言った。
「正しいと思って動く人間も、間違える。だから、記録と確認がいる」
村瀬はその言葉を、凛にも伝えようと思った。だが、まず自分が守らなければならない。
帰り道、村瀬は凛に短い連絡を送った。相談できる相手を探しています。まだ、安全だと言い切れる段階ではありません。
凛からは、ありがとう、とだけ返ってきた。
村瀬はその文字を見て、ようやく、少しだけ前へ進んだ気がした。
*
古川は、村瀬から受け取った資料をすぐには事件の形にしなかった。
まず、資料の出どころを確かめた。凛がどの立場で見たのか。原本はどこにあるのか。話した人は、正式に説明する意思があるのか。村瀬は何度も連絡を取り、答えを揃えた。
凛はその遅さに苛立った。危険が近づいているのに、確認ばかりしている。だが、古川は、急ぐことと飛ばすことは違う、と言った。
「君を守るためにも、君の話を疑う」
初めて電話で話したとき、古川はそう言った。
凛は、守るという言葉に身構えた。長谷部も、必要な対応をすると言った。だが、古川は続けた。
「君が正しいと決めてから集めた資料は、後で崩れる。崩れたら、君だけでなく、話した人も困る」
凛は頷いた。父のために急いでいる部分がある。それを、自分では完全に外せない。
「私が間違ってたら、そう言うてください」
「言う。その代わり、分からないことを分かったふりはしない」
凛はその言葉を、少し信じた。
古川は、久保と話すことを求めた。久保は最初、断った。会社を辞めて、ようやく眠れるようになったところだった。凛は説得しなかった。断ったことも含めて、古川へ伝えた。
2日後、久保から連絡があった。話す、と言った。
「田辺さんが、まだ働いてるんです。私だけ、もう関係ないとは、言えんと思うて」
凛は、無理をしないでください、と言った。久保は、無理をせえへんように、何を話すか自分で決めます、と答えた。
その返事を聞いて、凛は少し安心した。誰かのために動くことが、自分を全部差し出すことにならなくてもいい。
久保が話したあと、古川から凛へ連絡があった。確認できた部分が増えた、と言った。詳しい内容はまだ話せない。凛は、分かりました、と答えた。
長谷部と同じように、話せないと言われている。だが、何を確認しているか、どこまで進んだか、次にいつ連絡するかは示された。知らされないことの中にも、扱い方の違いがある。
村瀬は、古川が動いていることを、長谷部に隠していた。そのことが怖いと言った。凛は、怖くないふりをせんでええ、と答えた。
「私も、怖い」
凛は言った。
「せやけど、怖いからって、長谷部の言うとおりに戻るんは、もっと怖い」
村瀬は少し笑った。
「神楽さん、怖いって言うようになりましたね」
「前から怖かったよ」
「知ってます。でも、言わなかった」
凛は黙った。言える相手ができたのかもしれなかった。あるいは、言わずに続けられるほど強くないと、ようやく認めたのかもしれない。
電話を切ったあと、凛は会社の窓から街を見た。何も変わっていないように見えた。だが、会社の外で、少しずつ人が動いていた。自分だけが抱えているわけではない。そのことを、忘れずにいようと思った。
*
10月24日、退院した剛三は幹部会に出た。
松井に支えられ、ゆっくり部屋へ入ってきた。全員が立ち上がった。将吾も立った。凛はその顔を見た。驚きはなかった。剛三が来ることを、知っていたようだった。
「31日の荷は、止める」
剛三は座る前に言った。
将吾は黙っていた。
「わしが知らんと思うてたか」
「親父」
「止めるんや」
剛三は椅子に座った。息を整えるまで、少し時間がかかった。
「看板を守るいうんは、金を増やすことだけやない」
将吾は下を向いた。
「承知しました」
凛はその言葉を聞いた。
返事は、命令を聞いた証拠にはなる。従う証拠にはならない。
会議が終わると、将吾は凛のそばを通った。
「よう調べたな」
凛は何も言わなかった。
「親父は、あんたに何をくれるんやろな」
将吾は歩き去った。
その背中に、凛は初めて、怒りだけではないものを見た。奪われることへの恐れだった。自分が娘だと知らない将吾は、それでも、父のそばの場所が狭くなったことを感じていた。
凛は将吾を気の毒だと思いかけた。
その瞬間、健太のマグカップを思い出した。
気の毒だと思うことは、したことを消す理由にはならない。
*
幹部会が終わると、将吾は1人で事務所に残った。
机の上には、社員の給与の一覧があった。将吾は数字を見た。これだけの人間を食わせている。その事実を、何度も自分に言い聞かせてきた。だが、その金がどこから来たかを問われると、別の言葉が必要になる。
剛三は、縮めたらええと言った。将吾には、その言葉が無責任に聞こえた。大きくしろと言われたから大きくしたのではない。自分で大きくした。だが、大きくなった組を見て、剛三が誇らしそうにしたことはあった。その顔を、将吾は忘れていなかった。
認めたのに、今さら止める。
将吾はそう思った。認められたと思いたかっただけかもしれない、という考えは、すぐに押し戻した。
坂口が入ってきた。将吾は給与の紙を伏せた。
「篠原のこと、まだ調べてるんか」
「はい」
「何か出たか」
「まだ、はっきりしたものは」
将吾は頷いた。疑いは、確かめるためにあるはずだった。だが、今は、篠原が裏切り者であってほしいと思っていた。そうなら、父が自分より篠原を信じた理由を、相手の嘘のせいにできる。
坂口が出ていくと、将吾は引き出しから古い写真を出した。15歳の自分が、剛三の隣で笑っていた。笑い方が、今とは違った。何も持っていないのに、失うことを恐れていない顔だった。
将吾は写真を戻した。
*
10月27日の午後、将吾の机に封筒が届いた。
凛はそれを知らなかった。
封筒の中には、警察学校の卒業写真があった。制服姿の神楽凛。今より少し若く、まだ、自分の仕事を疑ったことのない顔だった。
将吾は写真を見て、長いあいだ動かなかった。
写真の下に、短い紙があった。
離脱前に処理しろ。会長の身柄は31日朝、こちらで引き取る。
将吾は紙を丸めた。こちらで引き取る。その言い方が気に入らなかった。親父を処分するのも、助けるのも、最後まで自分以外の人間が決める。
受話器へ手を伸ばした。
「坂口。予定、早める」
将吾は写真を机に伏せた。
「親父の家や」




