第6章 駒の名前
長谷部は、凛の写真を見ても驚かなかった。
ホテルの小さな会議室だった。長谷部は窓側に座り、凛は入口に近い椅子を選んだ。逃げるためではない、と自分に言った。だが、出口を確かめる癖は、もう体に染みついていた。
「いつから知ってたんですか」
長谷部は写真を机に置いた。
「確証があったわけではない」
「私を選ぶ前から、疑ってた」
「そうだ」
凛は椅子の背に触れた。座ったままでいるために、何かを掴む必要があった。
「母のことも、知ってたんですね」
「大阪の新人だったころ、情報をもらった。連絡先を変えるときも、私が窓口になった」
協力。凛はその言葉を繰り返した。
「母は、何をしたんですか」
「薬の流れに関する情報をくれた。兄を亡くしたことが理由だった」
「それで、あなたが母を逃がしたんですか」
「離れる判断をしたのは、彼女だ」
「あなたは、何をしたんですか」
長谷部は凛を見た。
「連絡先を変える手助けをした。生活が落ち着くまで、必要な支援もした」
母が長谷部のことを話さなかった理由は、感謝だったのか。恐れだったのか。凛には分からなかった。
「母が亡くなったとき、あなたは何も言わなかった」
「君の負担になると思った」
「今は、負担になってもええんですね」
長谷部は目を伏せた。
「作戦の必要があった」
凛は写真を引き寄せた。
「娘やから、選んだ」
「剛三は、病状が進んでいる」
長谷部は声を変えずに続けた。
「人間は、失うものが見えたときに動く。組より娘を守ろうとするかもしれない。その可能性は、ほかの捜査員にはない」
凛は写真の母を見た。母は笑っていた。その笑顔まで、作戦の材料にされた気がした。
「私が、父を揺さぶるための駒やったんですね」
「捜査員は全員、役割を持つ」
「駒にも名前があります」
長谷部は黙った。
「健太くんにも、名前がありました」
凛は立ち上がった。
「あなたは、誰かが困る人間やったら、使わなかったんですか」
「神楽」
「私に身寄りがないって言いましたね。父がおると知ってて」
長谷部は椅子から動かなかった。
「降りることはできる」
「私が降りたら、父はどうなりますか」
「作戦は続く」
凛は頷いた。予想していた答えだった。予想していたことが、痛みを減らしてくれるわけではなかった。
「私は、事実を調べます」
凛は写真を鞄にしまった。
「あなたの予定どおりにするためやなくて」
会議室を出ると、廊下の鏡に自分が映った。篠原凛の服を着た、神楽凛だった。どちらの名前も、今は自分を守ってくれなかった。
*
長谷部と会ったあと、凛は駅のトイレで顔を洗った。
鏡の前に立つと、何も変わっていなかった。自分の人生の一部が、誰かの計画の中に置かれていたと知っても、顔は同じだった。隣では、知らない人が口紅を直していた。凛は水を止め、紙で手を拭いた。
長谷部を信じていたことが、恥ずかしかった。だが、信じた自分だけを責めれば、信じさせた側の責任が見えなくなる。凛はそのことを、被害の相談に来る人には何度も言ってきた。自分に言うのは、難しかった。
駅のベンチで、母の便箋を読んだ。この子が、自分のことを自分で決められるようにしたい。母はそのために、長谷部を頼ったのかもしれない。頼った相手が、30年後に娘を使うことなど、想像しなかっただろう。
凛は便箋を畳んだ。
携帯電話に、村瀬から短い連絡が入った。会えますか。凛は、今日は無理、と打ちかけて、消した。無理ではない。人に会いたくないだけだった。
会える、と返した。
村瀬は駅の外で待っていた。何も聞かず、温かい飲み物を渡した。凛は受け取り、蓋を開けた。甘い匂いがした。
「コーヒーじゃないんや」
「飲めないかと思って」
健太の缶コーヒーのことを、村瀬は覚えていた。
凛は飲み物をひと口飲んだ。甘かった。甘いものを飲む余裕があることが、少し不思議だった。
「長谷部を、疑う」
凛は言った。
村瀬は頷いた。
「私が腹立ててるから、疑うんやない。何を知ってて、何を隠したかを、調べる」
「はい」
「私の言うことも、全部そのまま信じんといて」
村瀬は凛を見た。
「分かりました」
その返事に、凛は少し安心した。信じてほしいと言うより、確かめてほしいと言える相手がいる。そのことが、今は大きかった。
*
村瀬に母の手帳のことを話すと、彼は黙ってページを見た。
「長谷部は、私が調べる前から知ってた」
「なぜ、今になって言ったんでしょう」
「私が知ったあとも、続けるかどうか見たいんやろ」
凛は母の手帳を鞄へ戻した。
凛は紙コップの茶を飲んだ。熱すぎて、少し舌が痛んだ。
「龍崎剛三が父親やった」
初めて、はっきり声にした。
村瀬は頷いた。
「これから、どうするんですか」
「仕事は続ける」
「お父さんを、捕まえるんですか」
凛は紙コップを置いた。
「何をしたか、調べる。捕まえるために罪を探すんやなくて、したことに応じて、決める」
村瀬は少し考えた。
「俺も、そのやり方がいいです」
「上司に逆らうことになるで」
「上司より先に、仕事の意味があると思います」
凛は村瀬を見た。27歳の後輩は、いつのまにか、自分が思っていたより遠くまで来ていた。
「アホやな」
「よく言われます」
凛は、久しぶりに少し笑った。
翌日、将吾は凛に新しい仕事を持ちかけた。
若頭室の窓から、川が見えた。将吾は立ったまま、外を見ていた。
「親父に頼まれて、俺の金を見てるんやろ」
凛は返事をしなかった。
「隠さんでええ。親父は分かりやすい」
将吾は振り返った。
「俺についてくれへんか」
「経理の仕事は、してます」
「そういう話やない」
将吾は机の上の封筒を押した。
「親父に見せる帳簿と、ほんまの帳簿を分けてほしい」
「会長を騙すんですか」
「安心させるんや」
凛は封筒を見た。
安心させるための嘘。母も使った。長谷部も使った。今、自分も使っている。
「報酬は」
凛は聞いた。
将吾の目が少し緩んだ。
「借金は、全部なくなる」
「それだけですか」
将吾は笑った。
「欲があるんやな」
「借金がある人間は、欲がなかったら返せません」
凛は封筒を受け取った。
将吾の信頼を得るために、父を裏切るふりをする。父の信頼を得るために、将吾を調べる。長谷部の命令に従うふりをして、長谷部を疑う。
どこかに本当の自分を置いておかなければ、戻れなくなる。
その夜、凛は母の写真を机に立てた。
将吾から渡された資料には、Hという記号があった。毎月10日、500万円。現金での支払いを示す記載だった。
Kの次はH。
人間の名前が、帳簿では文字に縮められている。
凛は手帳に、Hは誰か、と書いた。
*
将吾の部屋で仕事をするようになると、凛は、将吾が夜遅くまで会社にいることを知った。
会食や外出の多い人間だと思っていた。実際には、戻ってから書類を読んでいた。社員が帰ったあとの机で、見積書を確かめ、取引先の予定を調整し、資金繰りの表を直した。自分が会社を動かしているという自負には、根拠があった。
ある夜、凛が資料を届けると、将吾は古い写真を見ていた。机の上に伏せるまでに、凛は少しだけ見た。若い将吾と、今より元気な剛三が写っていた。
「昔の写真ですか」
「20年前や」
「若いですね」
「15やからな」
将吾は写真を引き出しへ入れた。
「親父に拾われたころや」
凛は黙った。将吾が自分から過去を話すのは初めてだった。
「拾われたいうても、犬や猫みたいなもんや。飯食わせてもろて、寝るとこもろて。最初は、それだけで十分やった」
「それだけでは、なくなったんですか」
「人間は、腹が満ちたら、別のもん欲しなる」
将吾は窓の外を見た。
「役に立ちたかった。親父が、ようやったって言うたら、それで何日も頑張れた」
凛は父の顔を思い出した。自分も、同じ言葉を待っているのかもしれなかった。父だと知っただけで、認めてもらいたい気持ちが生まれる。そのことを、凛は認めたくなかった。
「今は、言うてくれへんのですか」
「言うで。せやけど、昔と同じ意味では聞こえへん」
将吾は椅子に座った。
「子どもに言う、ようできました、みたいに聞こえる」
「そういう意味やないかもしれません」
「そういう意味やなくても、そう聞こえるんや」
将吾は笑った。笑い方に、疲れがあった。
凛は、将吾が父を憎んでいるのではないと思った。父から離れられない自分を、憎んでいるのかもしれなかった。
凛は資料を机に置いた。
「この支払い、確認が必要です」
将吾は仕事の顔に戻った。凛も、経理の顔に戻った。2人の間に、紙が置かれた。
*
将吾は、凛に社員の給与計算を任せた。
田辺が長く担当していた仕事だった。引き継ぎの席で、田辺は不満を言わず、注意点を1つずつ説明した。家族手当、通勤費、途中で勤務が変わった人。凛は名前と数字を照合した。
一覧の中に、健太の名前が残っていた。支給停止の印がついていた。凛は指を止めた。田辺も気づいた。
「消すの、まだやってん」
田辺は言った。
「消したほうがええんでしょうけど」
凛は首を振った。
「在籍の扱い、確認してからにしましょう」
経理としての答えだった。だが、本当は、名前を残したかった。田辺は頷き、その頁を閉じた。
午後、将吾が計算結果を見た。健太の欄に気づき、まだ残ってるんか、と言った。凛は、手続きが確認できていません、と答えた。
「辞めた言うたやろ」
「退職の書類がありません」
「書類がなかったら、辞めたことにならんのか」
「処理の根拠が要ります」
将吾は凛を見た。凛は紙を押さえた。名前を守るために、書類を盾にしている。将吾も、それを感じたのかもしれなかった。
「ほな、保留でええ」
将吾は言った。
「篠原さんは、保留が好きやな」
「決める材料がないので」
「材料が全部揃うことなんか、ないで」
凛は頷いた。
「せやから、足りへんものは足りへんって、残します」
将吾は笑った。面白がっているのか、苛立っているのか、分からなかった。
その夜、凛は村瀬に、健太の在籍記録が残っていることを伝えた。村瀬は、本人の所在を示すものではない、と言った。凛は、分かってる、と答えた。
「でも、消えてへん」
声に出すと、涙が出そうになった。生きている証拠ではない。だが、いなかったことにはなっていない。その小さな違いに、凛はすがっていた。
*
翌日、将吾は凛を昼食に誘った。
高い店ではなかった。会社から少し歩いたところのうどん屋だった。将吾は、昔ここで働いていた人に世話になったと言った。店主は将吾を名前で呼び、いつもの、と聞いた。将吾は頷いた。
凛はきつねうどんを頼んだ。将吾は卵の入ったうどんだった。湯気の向こうで、少し若く見えた。
「借金、何に使うたん」
将吾は聞いた。
凛は用意した過去を話した。生活費と、誰かの保証と、返すための借金。細部を話しすぎないようにした。将吾は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「自分のために使うてへんのやな」
「自分で決めたことです」
凛は答えた。偽物の話の中で、その言葉だけは本当だった。
「人のためにしたことでも、自分で決めたら、自分のことやと思います」
将吾は箸を止めた。
「親父みたいなこと言うな」
凛は顔を上げた。
「会長も、そう言うんですか」
「言う。せやけど、自分のことになると、違う」
将吾はうどんを見た。
「誰かのためや言うて、何でも決める。こっちが何を思うかは、聞かへん」
凛は、父を知らない自分と、父のそばにいた将吾の距離を感じた。自分は父の沈黙を、優しさだと思い始めている。将吾は同じ沈黙を、拒絶として受け取ってきたのかもしれない。
「聞いてほしいって、言うたら」
「言える関係やったら、苦労せえへん」
将吾は笑った。
凛はそれ以上言わなかった。自分も、父に話せばいいと言われて、できなかった。
店を出ると、将吾は代金を払った。凛が自分のぶんを出そうとすると、今日は俺が誘うたから、と言った。
「次は、篠原さんが払うて」
次という言葉が、凛には重かった。将吾には、凛と仕事を続ける未来がある。凛は、その未来を壊すためにここにいる。
会社へ戻る途中、将吾は川を見た。
「親父が死んだら、ここ、全部変わる」
凛は返事をしなかった。
「変えなあかんのや」
将吾は言い直した。
誰に向けた言葉なのか、凛には分からなかった。自分自身に言っているようにも聞こえた。
*
Hの支払いを追うには、記号の意味を知るだけでは足りなかった。
凛は同じ日付の資料を並べ、誰が会社に来たか、誰が外出したかを照合した。分かることは少なかった。予定表は、実際の行動を全部残すものではない。人に見せるための予定と、実際の予定が違うことは、凛自身がよく知っていた。
村瀬は東京で、長谷部の過去の担当を調べた。正面から聞けることと、聞けば疑われることがあった。村瀬は、別の案件の確認という名目で古い資料を見た。そこで、由紀子の名前が正式にはほとんど残っていないことを知った。
協力者として使われ、記録の上では薄くなっている。凛と同じだった。
村瀬はそのことを、すぐには凛に言えなかった。言えば傷つくと思った。だが、傷つけないために隠すことを、長谷部もしていたのではないかと思い直した。
電話で伝えると、凛はしばらく黙った。
「教えてくれて、ありがとう」
声は静かだった。
「母が何をしたか、残ってへんのやね」
「残っている部分もあります。ただ、誰の情報か分からない形になってます」
「分かった。ほな、母が話した人を探す」
凛は言った。
村瀬は、その声を聞いて少し安心した。
凛は志乃に連絡した。由紀子が警察に協力していたことを知っているか、と聞いた。志乃は、知っていた、と答えた。
「止めたんですか」
「止めた。危ないから、やめときって」
「母は、何て」
「兄ちゃんが死んだことを、何にも使わんままにしたない、って」
凛は目を閉じた。母の兄は、凛にとっては知らない人だった。だが、母にとっては、人生を変えるほど大きな人だった。
「由紀ちゃんは、助けてもらうだけの人やなかった」
志乃は言った。
「自分で決めて、動いた人や。それも、忘れんといて」
凛は頷いた。
*
田辺は、凛が将吾の部屋へ出入りするようになったことを心配した。
「会長の仕事と、若頭の仕事、両方してるん」
「経理なので」
「便利な言葉やな」
田辺は言った。凛は少し笑った。
「田辺さんも、使いますか」
「使うよ。経理やから、って言うたら、聞かんで済むことがある」
「私は、聞くために使ってます」
言ってから、凛は口を閉じた。田辺は凛を見たが、何も聞かなかった。
その日の帰り、田辺は凛を喫茶店へ誘った。会社の人と外で会うのは避けるべきだと思ったが、断る理由がなかった。田辺は窓際に座り、ミルクティーを頼んだ。
「息子が就職するんよ」
「おめでとうございます」
「ありがとう。会社のこと、まだ言うてへん」
凛は顔を上げた。
「お母さん、どこで働いてるん、って、小さいころは聞かれた。商社みたいなもん、って答えた。それで、ずっと来てしもうた」
田辺はカップの取っ手に触れた。
「言うたら、軽蔑されるかな」
凛はすぐに答えられなかった。大丈夫です、と言うことは簡単だった。だが、息子がどう思うかを、凛は知らない。
「分かりません。でも、田辺さんが何をしてきたかは、田辺さんから聞いたほうがええと思います」
「そうやな」
「ほかの人から聞くより」
田辺は頷いた。凛は自分の言葉が、自分にも向いていることを感じた。父のことを、父から聞きたい。母のことを、母から聞きたかった。だが、聞く前に、他人の説明がいくつも積み重なっている。
田辺は、篠原さんは家族に何か隠してる、と聞いた。凛はカップを持ち上げた。
「もう、話せる家族がおらへんので」
嘘だった。父がいる。だが、家族と呼べるかは、まだ分からなかった。
田辺は謝らなかった。ただ、そう、と言い、話題を変えた。その配慮が、凛にはありがたく、苦しかった。
*
前任の経理担当者は、久保真一という人だった。
田辺から名前を聞いたとき、凛は、なぜ辞めたのかを尋ねた。田辺は、体調を崩した、と答えた。それ以上は知らないと言ったが、知らないという声ではなかった。
凛は久保が残したファイルを読み直した。鉛筆の印は、同じ取引先に集中していた。分からないという印だと田辺は言った。だが、日付を追うと、分からないまま放置したのではなく、何度も確認を試みていたことが分かった。問い合わせの控えが、薄い紙に残っていた。
久保は、南浪物流への支払いについて、業務内容の確認を求めていた。返事は短かった。従来どおり。代表確認済み。問題なし。誰が何を確認したのかは、書かれていなかった。
凛は田辺へ、久保に連絡できるかと聞いた。田辺はしばらく黙り、本人に聞く、と答えた。
「こっちから連絡先渡すんは、違うから」
「分かりました」
翌日、田辺は紙を1枚渡した。久保が会ってもいいと言った場所と時間だった。会社の外だった。凛は将吾に、過去の処理の確認をしたいと伝えた。将吾は、今さら何が分かる、と言ったが、止めなかった。
久保は、駅から離れた図書館の休憩室にいた。50代半ばに見えた。眼鏡の奥の目は疲れていたが、凛が名乗ると、まっすぐ顔を見た。
「今、あそこにおるんですか」
「はい」
「長いこと、おらんほうがええ」
最初の言葉が、それだった。
凛はファイルの写しを見せた。久保は手を伸ばさず、机の上の紙を見た。
「残ってたんですね」
「田辺さんが保管していました」
「捨ててええって、言うたんですけど」
久保は小さく笑った。笑ったあと、目を伏せた。
「捨ててほしかったんか、残してほしかったんか、自分でも分かりません」
凛は待った。久保は紙の角を指で押さえた。
久保は、最初から不正を知っていたわけではなかった。取引が増え、支払いの説明が短くなり、確認を求めると嫌な顔をされるようになった。数字を合わせることと、内容を確かめることが、別の仕事になっていった。
「会計の仕事は、合うてたらええんやろって、言われたんです」
「誰に」
「将吾さんです」
久保は答えた。
「合うてる数字が、何を隠してるかまで見るんが、仕事やと思うてました。せやけど、そう言えるほど、私は強うなかった」
凛は手帳を開いた。記録してもいいかと聞くと、久保は頷いた。
「ただ、私が言うたことと、紙にあることは、分けてください」
「分けます」
久保は、会社を辞める前に、剛三へ直接話そうとしたことがあると言った。だが、面会は実現しなかった。松井に伝言を頼んだが、そのころ剛三は病院へ通うことが増えていた。久保は、自分のために騒ぎを起こすのが怖くなり、辞めた。
「会長が知ってたかどうかは、私には分かりません。知らんかったことにしたい気持ちは、あります。でも、分からんことは分からんです」
凛は頷いた。その言葉を、父のために都合よく使ってはいけないと思った。
久保は最後に、別の紙を出した。自分が会社へ確認を求めた日付の一覧だった。持ち出した資料ではなく、自分の手帳から書き起こしたものだと言った。
「田辺さんから連絡もろて、思い出せるうちに書いとこうと思うたんです」
「お預かりしても、ええですか」
「ええです。ただ、私が全部知ってるみたいには、せんといてください」
凛は約束した。
帰り際、久保は、あなたは何で調べてるんですか、と聞いた。凛はすぐに答えられなかった。
「仕事です」
久保は凛を見た。
「仕事やから、だけで続けられることと、続けたらあかんことがあると思います」
凛は頷いた。久保は自分に言っているのだと分かった。
図書館を出ると、雨が降り始めていた。凛は傘を開き、村瀬へ連絡した。久保が自分の意思で話したこと、まだ正式な説明を求められる準備があるかは分からないことを伝えた。
「勝手に協力者として扱わんといて」
凛は言った。
村瀬は、本人の意思を確認します、と答えた。
凛は傘の縁から落ちる水を見た。
*
会社へ戻ると、将吾が待っていた。
「久保さん、元気やった?」
「はい」
「何言うてた」
凛は、過去の確認の経緯を話したと答えた。将吾は机に肘をついた。
「あの人、真面目すぎるんや。真面目なんはええけど、全部自分で抱える」
「抱えさせた部分も、あるんちゃいますか」
凛は言った。将吾の目が細くなった。
「篠原さんは、誰の仕事してるん」
「会社の経理です」
「ほな、会社が困ることは、せんといて」
「困る数字を、そのままにしとくほうが、後で困ります」
将吾はしばらく黙り、それから笑った。
「ほんま、親父に気に入られるわけや」
凛は書類を持ち直した。父の名前が出るたび、自分の顔が変わっていないかを意識した。将吾はその変化を探しているのかもしれなかった。
席へ戻ると、田辺が小さく、会えた、と聞いた。凛は頷いた。
「元気そうでした」
「そう」
田辺はそれだけ言い、伝票へ戻った。だが、肩の力が少し抜けたように見えた。久保が辞めたあとも、田辺は心配していたのだろう。連絡しなかったのは、忘れたからではない。会社の話を持ち込むことが、久保をまた苦しめるかもしれなかったからだ。
凛は久保の一覧を、ほかの資料と分けて保管した。紙が増えるほど、事件の輪郭ははっきりした。だが、輪郭の内側には、ますます多くの人がいた。
*
久保の残した一覧に、三輪製作所という会社名があった。
南浪物流とは別の帳簿だった。6年前から、毎月同じ額が入っている。備考は相談料。凛は田辺へ、契約書を見たいと言った。
「松井さんに聞いて」
田辺は、それだけ答えた。
松井が出したファイルには、契約書がなかった。代わりに、小さな工場の土地についての書類があった。剛三の名前で買い取られ、別の会社へ移っている。凛が登記の写しを重ねると、松井は手を引いた。
「それは、将吾の仕事やない」
凛は顔を上げた。
「会長のですか」
「せや」
松井は机の傷を見ていた。
「土地を売る話で揉めた。会長が相手に会うた。そのあと、ここへ金が入るようになった」
「相手は、売りたかったんですか」
松井は答えなかった。
「松井さん」
「わしも、ついていった」
紙の上で、売買の代金はすでに払われていた。三輪製作所からの振り込みだけが、先月まで続いていた。
「この相談料は、何の相談ですか」
「何もしてへん」
凛は金額を手帳へ写した。最初の2桁を逆に書いた。線を引いて、直した。
剛三の薬を買いに行く約束をしていた。壁の時計を見ると、もう出なければ間に合わなかった。
「コピー、取ります」
松井は頷いた。
凛は複合機へ向かった。紙が出てくるあいだ、自分が父を調べているのだと、初めて分かった気がした。将吾の仕事でないと確かめるためではない。
その夜、村瀬へ写しを渡した。三輪製作所の人には、接触する前に安全を確かめてほしいと頼んだ。
「神楽さんからは、話さないんですか」
「私が会ったら、何を聞きたくなるか、分からへん」
凛は鞄の口を閉じた。中には、剛三の薬が入っていた。
屋敷へ行くと、剛三は縁側に座っていた。薬を渡す凛の手を見て、寒かったか、と聞いた。
「少し」
剛三は松井に、暖房を強くしろと言った。凛は礼を言い、座った。
話したいことは、いくつもあった。何も聞かずに、茶を飲んだ。
*
龍崎邸の縁側で、剛三と松井が将棋を指していた。
凛が茶を運ぶと、松井は盤面を指した。
「会長、無理に攻めすぎです」
「待ってたら、終わる」
「将棋は待つのも仕事です」
剛三は駒を持ったまま、凛を見た。
「あんた、どう思う」
「将棋、分かりません」
「ほな、松井が間違うてる」
松井が笑った。凛も笑った。
こんな時間があることを、凛は長谷部に報告できなかった。報告書には、対象の行動、接触相手、発言を書ける。3人で笑ったことを、どう書けばいいのか分からなかった。
夕食の卵焼きは、少し焦げていた。
「昔な」
剛三は箸を止めた。
「真っ黒の卵焼き、食わされたことがある」
「おいしかったんですか」
「苦かった」
凛は笑った。
「でも、うまい言うて食うた」
「嘘やないですか」
「そう言われた」
剛三は卵焼きを見た。
「嘘つき、言うて、泣きよった」
凛は母を思い出した。由紀子は嬉しいとき、怒ったような顔をすることがあった。照れるのが苦手だったのだ。
目が熱くなった。
凛は茶を飲むふりをした。
「どないした」
「何でもありません」
剛三は何か言いかけたが、その前に咳が出た。
湯呑みが倒れた。
凛は立ち上がった。剛三の体が傾き、机に手をついた。その手が、滑った。
「会長」
凛はそばへ行った。松井が台所から走ってきた。
剛三は目を閉じていた。
凛は名前を呼ぼうとした。龍崎剛三。会長。どちらも遠すぎた。
「お父さん」
声が出た。
凛は自分の声に驚いた。
松井が、凛を見た。
倒れた湯呑みから、茶が畳へ染みていた。凛は剛三の手を握ったまま、その染みが広がっていくのを見ていた。




