第5章 蛍のいた街
志乃の店は、看板の電気が半分切れていた。
凛は入口で足を止めた。母の手帳に書かれていた電話番号は、もう使われていなかった。古い知人をたどり、ようやくこの店に行き着いた。会うべきではない、と仕事の自分が言った。会わずには戻れない、と娘の自分が言った。
扉を開けると、白髪を結った人がグラスを磨いていた。
「まだ開けてへんよ」
「神楽由紀子の娘です」
志乃は手を止めた。
凛の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「大きなったなあ」
その言葉で、凛は初めて、自分がこの人に会ったことがあるのだと知った。
「覚えてへんやろ。まだ、こんなんやった」
志乃は床から少し上に手を置いた。
「お母ちゃんの後ろに隠れて、飴だけ受け取ってた」
凛は思い出せなかった。母の人生には、凛の覚えていない人がたくさんいた。その人たちは、母のことだけでなく、凛のことまで知っていた。
志乃は温かい茶を出した。
「由紀ちゃん、亡くなったんやね」
「3年前です」
「知らせ、遅れて届いたわ。最後まで、遠慮する子やった」
凛は写真を出した。
志乃は手に取り、裏を見た。それから表へ戻し、男の顔に指を置いた。
「剛さんや」
「母と、どういう関係やったんですか」
志乃はすぐには答えなかった。
「それ、あんたが聞く日が来るんやね」
凛は茶に手をつけなかった。
「私の父ですか」
「由紀ちゃんが、そう言うたわけやない」
「でも」
「せや。わたしは、そう思うてる」
思っている。証明ではない。その曖昧さが、凛にはかえって重かった。
志乃は母の話をした。店での名前は蛍だったこと。よく笑い、誰かが落ち込むと、自分の失敗談を話したこと。客が帰ったあと、靴を脱いで足を揉んでいたこと。
母は凛の前で、仕事の疲れをあまり見せなかった。凛は母が強い人だと思っていた。見せないようにしていたのだと、今になって分かった。
「由紀ちゃんには、お兄さんがおった」
凛は顔を上げた。
「誠ちゃん。25で亡くなった。薬が原因やった」
母の兄。凛には初めて聞く名前だった。
「母は、何も言いませんでした」
「言えんかったんやろ。自分が止められへんかった、思うてたから」
志乃は写真を机に置いた。
「剛さんには、約束させたんよ。あんたのところでは薬を扱わんといて、って」
凛は料亭の声を思い出した。
わしが生きてるあいだや。
30年前の言葉が、今も剛三の中に残っていた。
「それでも、どうして別れたんですか」
「子どもができたからや」
志乃は凛を見た。
「この子に、説明せなあかん人生を背負わせたない。そう言うてた」
凛は膝の上で手を握った。
説明しなければならない人生。
母は凛を守った。その結果、凛は別の説明を続けてきた。父は死んだ。父は外国にいる。父はいない。
母の選択を責めることはできなかった。責められないことと、痛くないことは違った。
「剛三さんは、子どものことを知ってたんですか」
「最初は知らんかったはずや。由紀ちゃんを何年も探してた」
「会えたんですか」
「そこまでは、わたしも知らん」
志乃は茶を淹れ直した。
「あんた、今、何してるん」
「会社で、経理を」
志乃は凛の手を見た。
「由紀ちゃんも、心配かけんための嘘がうまかった」
凛は返事をしなかった。
「無茶だけは、せんとき」
店を出ると、街の灯りがつき始めていた。母はこの道を何度歩いたのだろう。凛を迎えに行くために、どの角を曲がったのだろう。
母の人生を知るほど、母が遠くなった。
*
志乃は、由紀子の話を1度にはしなかった。
凛が最初に訪ねた日には、店の名前と、兄のことと、剛三との約束を話した。だが、凛が帰ろうとすると、次は昼に来て、と言った。
「夜は、昔の話が大きなる。昼に話したほうが、ちゃんとしたこと思い出せる」
凛は2日後、もう1度店へ行った。窓のない店でも、昼は少し違って見えた。照明を全部つけていないせいで、壁の傷や、椅子の縫い目がよく分かった。志乃は奥から菓子の箱を持ってきた。蓋には、古い店の名前が印刷されていた。
「由紀ちゃんが置いていったもん、少しだけ残ってる」
箱の中には、写真と、店の伝票と、使いかけの便箋があった。志乃は便箋を凛へ渡さず、まず自分で読んだ。
「これは、あんたに見せてええか、迷うな」
「私のことが書いてあるんですか」
「書いてある。せやけど、由紀ちゃんの気持ちも書いてある」
凛は母の手帳のことを思い出した。私が思うてるあんたのことや。あんたのもんとは違う。
「見せてほしいです。でも、母が見せたくなかったなら、無理には」
志乃は凛を見た。
「大人になったんやな」
その言葉が、凛には少し痛かった。母が生きているあいだに、そうなれればよかった。
便箋には、宛名がなかった。途中まで書いて、やめたものだった。子どもが生まれること。仕事を減らすこと。誰にも迷惑をかけずに暮らしたいこと。最後の1行だけ、強く書かれていた。
この子が、自分のことを自分で決められるようにしたい。
凛はその文字を見た。母は凛の人生を決めたかったのではない。凛が決められるように、父を遠ざけた。
「母は、正しかったんでしょうか」
凛は聞いた。
志乃は便箋を机に置いた。
「正しいかどうか、わたしには決められへん。あのとき、由紀ちゃんは、それしかできへん思うてた」
「ほかのやり方も、あったんちゃうかなって」
「あったかもしれん。せやけど、あったかもしれん道は、歩いた道より、いつもきれいに見える」
凛は黙った。
「由紀ちゃんを責めてもええんよ」
志乃は言った。
「死んだ人やから、何もかも正しかったことにせんでええ。好きやったら、腹立つこともある」
凛は顔を上げた。母を責めてはいけないと思っていた。母は1人で育ててくれた。その事実の前では、自分の寂しさを言う資格がないような気がしていた。
「会いたかったんです」
凛は言った。
「父に、会いたかった」
志乃は頷いた。
「それは、由紀ちゃんにも聞かせたかったな」
凛は便箋を返した。志乃は箱へ戻さず、凛の前に置いた。
「持っていき。これは、あんたが聞く話やと思う」
*
志乃は、由紀子が剛三と出会った夜のことを覚えていた。
店が忙しく、由紀子は初めての客の名前を何度も間違えた。剛三は怒らず、最後には自分から名乗り直した。由紀子は、覚えてます、と言い張った。覚えていないことは、誰の目にも明らかだった。
閉店後、由紀子は、あの人、怖い人やね、と言った。志乃が、知ってたんちゃうの、と聞くと、知ってるのと、会うのは違う、と答えた。
それでも、剛三が来ると由紀子はよく話した。相手の機嫌を取る話ではなかった。今日、駅で靴の踵が取れたこと。隣の部屋の子どもが九九を覚えていること。スーパーで買った魚が、思っていたより小さかったこと。
剛三は、その話を聞いた。口数は少なかった。由紀子が話し終えると、それでどうなった、と聞いた。志乃はその言葉を覚えていた。男たちはたいてい、自分の話をするために店へ来た。剛三は、由紀子の話の続きを待った。
「お母ちゃん、よう喋ったんよ」
志乃は凛に言った。
「私の前では、そんなに」
「子どもの前では、母親やったんやろ。ここでは、由紀ちゃんやった」
凛は、母の名前を心の中で呼んだ。由紀子。母と呼ぶより、少し遠く、少し自由な人に思えた。
剛三はある日、店の外で由紀子を待った。食事に誘ったのだという。由紀子は、店の中ではあんなに話すのに、外ではほとんど喋らなかった。後で志乃に、何を話したらええか分からへんかった、と打ち明けた。
「仕事やったら、話せるんですか」
凛が聞くと、志乃は笑った。
「仕事やったら、役目がある。役目がなくなったら、自分で喋らなあかん」
凛は、自分も同じだと思った。刑事としてなら聞けることが、娘としては聞けない。経理としてなら言えることが、神楽凛としては言えない。
母と父が恋人だった時間を、凛は想像しようとした。だが、写真の2人は、どこか遠い人たちだった。
志乃は、桜の写真を撮ったのは自分だと言った。
「2人とも、こっち見てへんかった。由紀ちゃんが何か言うて、剛さんが笑うてた」
「何を言ったんですか」
「忘れた」
志乃はすまなそうに笑った。
「大事なことやったら、覚えてたかもしれん。せやけど、たぶん、どうでもええことやったんよ」
凛は写真を見た。どうでもいい話で笑っている父と母。その時間があったことを知るだけで、胸の中の空白が少し違う形になった。
*
凛は村瀬に、個人的な相談をしたい、と伝えた。
写真を見せると、村瀬は長いあいだ黙っていた。
「可能性がある、ってことですか」
「可能性のままやと、仕事ができへん」
「分かったら、できるんですか」
凛は答えられなかった。
村瀬は机の上の写真を、丁寧に凛へ返した。
「写真だけでは決められません。お母さんが残したものを、もう少し見ませんか。本人に聞くことも含めて」
「もう、苦しい」
言葉が出てから、凛は自分でも驚いた。
村瀬は何も言わなかった。
その沈黙に、凛は救われた。励まされると、励ましに応えるために元気な顔をしなければならない。今は、その力がなかった。
*
数日後、剛三は凛を呼んだ。
「将吾の金、見てくれへんか」
茶の間の机に、会社の書類が置かれていた。
「わしの名前で、必要なものは出させる」
「私に任せてええんですか」
「数字、分かるんやろ」
「数字は、分かります」
「ほな、頼む」
凛は剛三を見た。相手の信頼を利用する。潜入捜査とは、そういう仕事だと知っていた。だが、知っていることと、できることの間には距離があった。
「会長は、私のことを何も知らないですよ」
剛三は書類を揃えた。
「人のこと、全部知ってから飯食うんか」
凛は口を閉じた。
「わしは、あんたに仕事を頼んでる。それだけや」
それだけではない、と凛は思った。そう思いたいだけなのかもしれなかった。
剛三の指示で、凛が見られる資料は増えた。南浪物流の支払いは、将吾が管理する別の会社へつながっていた。SRトレーディング。名義と実際の管理者を結びつける書類が、少しずつ揃った。
その中に、10月31日の予定があった。
第8光洋丸。南港、第3倉庫。
凛はその日付を手帳に書いた。まだ先だったはずの期限が、急に近くなった。
*
剛三に頼まれた帳簿の確認は、思っていたより難しかった。
資料が増えたからといって、答えが増えるわけではなかった。同じ支払いが、違う名前で何度も現れた。実際の仕事があるものと、ないものが混じっていた。凛は1件ずつ、何が確認でき、何がまだ分からないかを分けた。
田辺は黙って手伝った。凛が、ここまで見てもええんですか、と聞くと、会長の指示なら、と答えた。
「田辺さんは、何が出てくると思いますか」
「出てきてほしくないもん」
田辺は紙を揃えた。
「せやけど、出てきたら、見んかったことにはできへん」
凛は田辺を見た。会社で17年働いてきた人間が、その言葉を言うまでに、どれだけ時間がかかったのかと思った。
夕方、田辺は古いファイルを持ってきた。前任者が残したものだった。数字の横に、小さな鉛筆の印があった。凛は印の意味を聞いた。
「分からん、って印やと思う。私も、同じ印つけてる」
「分からんまま、処理したんですか」
「した」
田辺は凛の目を見た。
「それも、私のしたことや」
凛はファイルを受け取った。自分のしたことを、言い訳なしに言う声だった。その声を、後で誰かが聞く必要があると思った。
ファイルの中に、SRトレーディングの名前があった。凛は日付を確かめた。将吾が会社の実務を握り始めた時期と重なっていた。
凛はその夜、村瀬に資料の所在と経緯を伝えた。誰が持っていたか、誰が渡したか、どこまで確認したか。自分の推測より、資料がここに来た道筋を先に話した。
村瀬は、分かりました、と答えた。その声を聞いて、凛は少し落ち着いた。
*
部屋へ帰ると、凛は東京から持ってきた母の手帳を並べた。
1996年のものは、ほかの年より厚かった。病院の領収書と、細かく折った紙が挟まっていた。凛が生まれた月のページには、体重と、授乳の時刻と、短い言葉があった。
剛さんへ、知らせた。元気な女の子。約束どおり、凛。
その下は、強く筆圧がかかっていた。
会いたい。でも、この子を会わせたら、私はまた戻りたくなる。
凛は手帳を机に伏せた。母の選択を知りたいと思っていた。だが、その選択が揺れたことまで読む用意はなかった。
しばらくして、もう1度開いた。
挟まっていた紙は、差出人の住所のない封筒だった。消印は1996年。宛名は神楽由紀子。中の便箋には、角ばった字で、2行だけあった。
凛を頼む。
わしは、そちらへ行かん。
末尾に、龍崎剛三とあった。病院で見た署名と同じだった。
凛は指を離した。数字なら、何度でも計算し直せる。母の書いた名前も、父の書いた名前も、読み直して変わるものではなかった。
電話が鳴った。
長谷部だった。
「父親のことは、分かったか」
凛は手帳を閉じた。
「何の話ですか」
「龍崎剛三だ」
隣の部屋でテレビの音がした。誰かが笑っていた。
「私、その話をあなたにしましたか」
長谷部は答えなかった。
「明日、会おう」
凛は電話を持ったまま、机の上の2つの名前を見ていた。




