第4章 箱を開ける夜
9月下旬、凛は森下の会社を訪ねた。経理の確認という名目だった。支払いの書類に不備があり、原本を見せてもらう必要があった。
事務所は倉庫の2階にあった。階段の手すりが錆び、入口のマットは中央だけ色が薄かった。森下は凛を見ると、先日はどうも、と頭を下げた。凛は、支払うべきものを支払っただけです、と答えた。
「そう言うてくれる人、あんまりおらんので」
森下は書類を出した。机の端に、子どもの描いたトラックの絵が貼ってあった。窓の外では、運転手が車を洗っていた。
凛は契約書を見た。会社にあったものと同じだった。だが、添付の覚書があった。森下が出してきたのは、何度も折り畳んだ紙だった。
「これ、控えです。原本は、そちらに」
凛は覚書を読んだ。協力金の額が書かれていた。運送量が増えるほど、会社に残る金が減る仕組みになっていた。森下が了承した署名もあった。
「どうして、この条件で」
凛は聞いてしまった。森下は紙を見た。
「仕事がなくなるより、ましやと思うたんです」
「今は」
「今も、仕事がなくなるよりは、ましです」
同じ言葉なのに、意味が違った。最初は選択だった。今は、ほかの選択肢がなくなっていた。
凛は覚書の内容を確認し、必要な箇所を記録した。森下は、会社に何か言うんですか、と聞いた。
「確認します」
「うちが文句言うたことには、せんといてください」
凛は顔を上げた。
「文句やないです。契約の確認です」
「向こうが、そう思うてくれたらええんですけど」
凛は返事ができなかった。正しい言葉で説明しても、相手の不安は消えない。森下は、凛がどちらの側にいる人間かを知っている。会社の名刺を持ち、会社の金を確認しに来た人間だった。
*
森下の事務所を出る前に、凛は壁の予定表を見た。
月末までの配送が、色の違うペンで書かれていた。龍星興産の仕事は赤だった。赤い文字が、ほかの色より多かった。森下は凛の視線に気づき、予定表の前へ立った。
「今月は、よう仕事もろてるんです」
凛は頷いた。仕事をもらっているという言い方の中に、逃げられない理由があった。
入口で、森下の妻とすれ違った。書類の束を抱え、凛の名刺を見て、いつもお世話になっていますと言った。凛も同じ言葉を返した。どちらも、世話になっているという言葉では説明できない関係を知っていた。
階段を降りたところで、妻が追ってきた。
「少しだけ、ええですか」
凛は立ち止まった。
「主人が、何か言いましたか」
「契約の確認をしました」
「困ってるとか、言うてませんでしたか」
凛は相手の顔を見た。心配しているのは夫なのか、会社なのか、それとも凛が何を持ち帰るかだったのか。全部なのだろうと思った。
「確認したことは、書類の内容です」
凛は答えた。
妻は少し息を吐いた。それから、すみません、と言った。
「うち、去年、仕事が減って。そちらに助けてもろたんです。助けてもろたんは、ほんまなんです」
凛は黙って聞いた。
「でも、助けてもろたことがあるからって、ずっと何も言われへんのは、違うんちゃうかって」
妻は書類を抱え直した。紙の端が少し曲がった。
「そんなこと、そちらの人に言うても、しょうがないですね」
「しょうがなくないです」
凛は言った。言ってから、自分が会社の人間として立っていることを思い出した。
「聞いたことは、忘れません」
約束できるのは、それだけだった。妻は凛を見て、何か言いかけ、やめた。
会社へ戻ると、将吾が森下の件を聞いた。凛は書類の不備を説明した。妻の話は、必要な形に整えるまで報告しなかった。守るために隠すことと、情報を自分で抱え込むことの違いを、考えなければならなかった。
夜、村瀬へは話した。相手の言葉を、できるだけそのまま伝えた。村瀬は、相談として扱うには本人の意思を確認する必要がある、と言った。凛は分かっていると答えた。
「今すぐ何かできると言わんといて。言うなら、できることを確かめてからにして」
村瀬は、はい、と答えた。
凛は電話を切り、机に手を置いた。助けてほしいと言われていない人を助ける難しさと、助けてほしいと言えない人を見つける難しさは、別のものだった。
*
数日後、森下から会社へ追加の書類が届いた。
封筒には、凛の名前が書かれていた。篠原様。丁寧な字だった。中には、過去の支払いの一覧が入っていた。頼んだ範囲より広かった。凛は1枚ずつ確認し、森下へ電話した。
「これ、全部確認してもええんですか」
森下は、少し黙った。
「妻が、送ったほうがええって」
「奥さんが」
「うちが何を払うてきたか、せめて誰かに分かっといてほしいって」
凛は封筒を見た。相談ではない。告発という言葉も、本人は使わない。
「受け取りました。確認します」
凛は言った。
電話を切ると、田辺が横から封筒を見た。
「重いもん、預かったな」
「紙だけです」
「紙やから、重いんや」
田辺は自分の机へ戻った。凛は封筒を開け直した。数字が並んでいた。その数字を払うために、誰かが何時に起き、何を諦めたのかは書かれていない。だが、書かれていないことを、忘れずに読むことはできる。
凛は一覧の上に、受領した日付を書いた。森下夫妻が、自分で渡すと決めた日だった。
*
料亭の廊下には、庭の水音が聞こえていた。
凛は封筒を持ち、案内された部屋へ向かった。剛三の署名が必要な書類だった。松井が来られなくなり、代わりに頼まれた。
襖の手前で、声が聞こえた。
「薬だけはあかん」
剛三だった。
凛は足を止めた。
「何べん言うたら分かるんや」
「もう、止められへん」
将吾の声が続いた。
「親父がどう言うても、あの金で会社が回ってる」
「回らんのやったら、縮めたらええ」
「何人、食えんようになると思ってる」
「薬で食うて、何人食えんようにしてるんや」
凛は封筒を握った。
剛三が薬に反対している。資料にあった組織の図は、頂点に剛三、その下に将吾という単純なものだった。図では、上の人間が下の人間を動かしている。実際には、そうではなかった。
「昔の約束やろ」
将吾が言った。
「いつまで守るんや」
「わしが生きてるあいだや」
沈黙があった。
凛は後ろへ下がった。これ以上聞けば、戻れなくなる気がした。だが、すでに聞いたことは、聞かなかったことにはできない。
翌朝、凛は村瀬に話した。
「標的が違うかもしれへん」
「会長じゃないんですか」
「薬を動かしてるのは将吾。会長は止めようとしてる」
村瀬は手帳を閉じた。
「でも、組の責任はありますよね」
「ある。そこは変わらへん」
凛は頷いた。
「せやけど、誰が何をしたかは、分けなあかん」
その言葉を、自分にも言い聞かせた。
長谷部は報告を聞いたあと、方針は変えない、と言った。
「龍崎会の頂点は剛三だ」
「将吾の独断の可能性があります」
「君は剛三に近づきすぎている」
凛は口を閉じた。
「対象に同情することと、事実を見極めることは違う」
「事実を報告しています」
「なら、証拠を出せ」
通話のあと、凛は手帳にその言葉を書いた。証拠を出せ。
*
病院の書類を読んでほしい、と松井に頼まれたのは、その日の午後だった。
「わし、こういう字は苦手でな」
松井は説明書を広げた。折り目が何度も重なっていた。
「会長は、どこが悪いんですか」
「肝臓や」
松井はそれ以上言わなかった。凛は書類を見た。剛三の名前の下に、いくつもの難しい言葉が並んでいる。人の命が、書類の上では項目に分けられていた。
病室の剛三は、窓の外を見ていた。
「来てもろて悪いな」
「松井さんに頼まれました」
「字が細かいんや」
剛三は眼鏡を指で押し上げた。眼鏡をかけると、急に年齢相応の男に見えた。
凛は書類を読み、剛三が分からないと言った箇所を説明した。治療についての判断は医師に確認するよう伝えた。剛三は頷き、最後に署名した。
「字、きれいですね」
「昔、下手や言われてな」
「誰にですか」
剛三はペンを置いた。
「昔の人や」
凛は書類を揃えた。病室の静けさは、会社の静けさとは違った。ここでは、誰も強い声を出さない。剛三も、強く見せようとはしていなかった。
「あんたのおかん、元気か」
凛は手を止めた。
「亡くなりました」
剛三は窓の外を見たままだった。
「3年前です」
「そうか」
剛三は、長い時間をかけて息を吐いた。
「苦しまんかったか」
凛は母の最後の部屋を思い出した。カーテンが揺れていた。母は外を見て、きれいやなあ、と言った。何を見ていたのか、凛には分からなかった。窓の向こうにあったのは、いつもと同じ街だった。
「最後は、笑ってました」
剛三は目を閉じた。
「ほんなら、ええ」
よくはない、と凛は思った。母はまだ生きていてほしかった。笑って死んだことが、死んだことの埋め合わせにはならない。
だが、剛三の顔を見て、その言葉を飲み込んだ。
会ったこともないはずの母のために、どうしてこの人は、こんな顔をするのだろう。
病院を出ると、松井が自動販売機の前で待っていた。缶コーヒーを2本持っている。
凛は健太を思い出した。
「会長、昔から薬を嫌ってはるんですか」
「昔からや」
「どうして」
松井は缶を渡した。
「嫌う理由なんか、なくてもええやろ」
「約束って、言うてはりました」
松井は目を伏せた。
「人には、触らんほうがええ場所がある」
凛は缶を受け取った。
触らないほうがいい場所を、仕事として探している。そのことを、松井には言えなかった。
*
病院の待合室で、凛は剛三の診察が終わるのを待った。
松井は受付で何か確認していた。凛の隣には、紙袋を抱えた高齢の人が座っていた。袋の中から、着替えらしい布が見えた。人は病院へ来るときにも、生活を持ってくるのだと思った。
母の入院中、凛は毎回、必要以上に大きな鞄を持っていった。何が必要になるか分からなかったからだ。母は鞄を見て、旅行みたいやな、と笑った。凛は笑えなかった。笑えば、病気を軽く扱うことになるような気がした。
今なら、笑えばよかったと思う。母が作った小さな逃げ道を、自分は真面目な顔で塞いでいた。
診察室から出てきた剛三は、凛を見ると、待たせたな、と言った。凛は立ち上がった。
「長かったですね」
「同じこと、何べんも聞かれる」
「大事なことなんやと思います」
「大事なんは、分かっとる」
剛三は椅子に座り、杖を膝に置いた。松井が会計を待つあいだ、凛は隣に座った。
「会長は、怖くないんですか」
聞いてから、凛は後悔した。何を、と聞き返されると思った。剛三は聞き返さなかった。
「怖いで」
凛は剛三を見た。
「怖い言うたら、何か変わるんかと思うて、言わんかった。せやけど、言わんでも怖いもんは怖い」
剛三は杖の柄を撫でた。
「痛いんも嫌やし、1人なんも嫌や。みっともないやろ」
「みっともなくないです」
凛はすぐに言った。声が少し大きくなり、周囲を見た。誰もこちらを気にしていなかった。
「母も、怖かったと思います」
「言わんかったんか」
「言いませんでした。私が、聞かへんかったので」
剛三は頷いた。
「聞けんこともある」
「でも、聞けばよかった」
剛三はしばらく黙り、やがて、そうやな、と言った。慰めではなかった。そのことが、凛にはありがたかった。後悔を、すぐに軽くしようとされると、母との時間まで軽くされるような気がした。
松井が戻ってきた。剛三は立ち上がり、いつもの顔に戻った。凛はその変化を見た。強い人間なのではない。強い顔をすることを、長く続けてきた人間なのだ。
*
東京へ戻る前夜、凛は母の手帳を思い出そうとした。
由紀子は毎年、同じ大きさの手帳を使っていた。表紙の色だけが変わった。仕事の予定と、凛の学校の行事が、同じページに書かれていた。凛が高校生のころ、勝手に見て怒られたことがある。
「見たらあかんこと、書いてあるん」
凛は反発した。母は手帳を閉じ、あんたのことも書いてある、と答えた。
「私のことなら、見てもええやん」
「私が思うてるあんたのことや。あんたのもんとは違う」
そのときは、変な理屈だと思った。今なら、少し分かる。人の人生に登場していることと、その人の人生を所有することは違う。
母の箱を開けることは、母が思っていた自分に会うことでもあった。凛はそれが怖かった。母が失望していたら。寂しいと思っていたら。娘に言えなかったことが、紙の上には書いてあったら。
それでも、開けなければならないと思った。剛三のことを確かめるためだけではない。母を、母という役割のまま閉じ込めておくことを、やめるためだった。
新幹線の切符を買い、部屋の戸締まりをした。管理人が廊下で会い、出張か、と聞いた。凛は、少し実家へ、と答えた。東京の部屋を実家と呼んだことに、自分で驚いた。母がいた場所は大阪だった。だが、母の箱がある場所が、今の凛には実家なのかもしれなかった。
*
東京の部屋の段ボールは、出ていったときと同じ場所にあった。
凛は床に座った。ガムテープの端を探し、爪をかけた。剥がす音が、静かな部屋に大きく響いた。
いちばん上には、母のカーディガンがあった。
凛は持ち上げた。匂いは、もうほとんどなかった。母の匂いを忘れていることに気づいて、胸が詰まった。忘れないために開けなかったのに、開けないあいだに忘れていた。
化粧道具。古い手帳。着物の帯。凛の小学校の通知表。
母は、こんなものまで取っておいたのか。
通知表の保護者欄には、毎回同じ字で、神楽由紀子、と書いてあった。凛の名前より大きかった。
母子手帳の父親欄は空白だった。
凛はその空白を指でなぞった。名前が書かれていないことと、存在しなかったことは違う。30年も経ってから、そんな当たり前のことに気づいた。
アルバムを開いた。
若い由紀子が笑っていた。凛の知らない髪形。凛の知らない服。母になる前の母が、そこにいた。
*
箱の中には、凛が知らない母の失敗も残っていた。
家計簿の計算が、何か月も続けて間違っていた。合計欄に赤い線が引かれ、その横に、また違う、と書いてあった。凛は笑った。数字に強い自分が、母に似ていると思ったことはなかった。母は金の計算をするとき、いつも電卓を何度も叩いていた。
だが、家計簿の細かな記載は、驚くほど正確だった。凛の上履き。遠足の積立。風邪薬。自転車の修理。凛の生活が、金額と日付で残っていた。
その中に、同じ店で買ったケーキの記録があった。毎年、凛の誕生日の前日だった。値段は少しずつ上がっていた。母は自分の服を買う回数を減らしながら、ケーキだけは同じ店で買い続けた。
凛は家計簿を閉じた。金額を見て泣くとは思わなかった。母が何を我慢したかを知りたくて開けたのではない。それでも、数字の中に、母の選択が残っていた。
古い封筒から、凛の作文が出てきた。将来の夢という題だった。警察官になりたい、と書いてあった。理由は、悪い人を捕まえたいから、ではなかった。困っている人の話を、最後まで聞く人になりたい、と書いていた。
凛は自分の字を見た。子どものころのほうが、今より大きなことを考えていたのかもしれない。今は、話を最後まで聞く前に、何が証拠になるかを考えてしまう。
作文の裏に、母の字があった。
凛が話を聞いてくれる人になったら、お母さんも聞いてもらおう。
日付はなかった。母がいつ書いたのか、凛には分からなかった。聞いてもらいたかった話が何だったのかも、分からなかった。
凛は紙を膝に置いた。母は、話そうとしていたのかもしれない。凛が聞ける年齢になるのを待っていたのかもしれない。凛は忙しく、母は遠慮した。その組み合わせで、話は永遠に先送りになった。
写真を見つける前、凛はその作文を机に置いた。箱を開ける理由が、少し変わっていた。父の正体を探すためだけではなく、母が残した話を聞くためになった。
窓の外で、朝刊を配る音がした。凛は時計を見た。午前4時を過ぎていた。眠るべきだと思ったが、箱の底にまだ何かある気がした。
*
写真が1枚、床に落ちた。
桜の下に、2人が立っていた。
由紀子と、男。
凛は写真を拾った。
男は今より若く、頬もふっくらしていた。だが、目は同じだった。凛の顔を長く見た、あの目だった。
写真を裏返した。
剛さんと。1995年、春。
母の字だった。
凛は写真を膝に置いた。指先が冷たくなっていた。
自分は1996年に生まれた。
その引き算は、簡単すぎた。
「お母さん」
声に出した。
遺影の母は、答えなかった。
凛は箱の底を探った。蛍の形をした、小さな帯留めが出てきた。写真の母がつけているものと同じだった。
冷たい金属を握ったまま、凛は夜が明けるまで床に座っていた。




