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潜入先は、父の組  作者: ぽむぽむ


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第3章 消えた缶コーヒー

健太は、給湯室の棚に自分の名前を書いたマグカップを置いていた。

油性ペンの文字は少し傾いている。健太、と書いた横に、小さな星が描いてあった。凛がそれを見ていると、健太は照れたように笑った。

「妹が書いたんです」

「妹さん、いくつ」

「16です。字は俺よりうまいんすよ」

健太は22歳だった。社員というより、まだ学校から来たばかりの子どもに見えることがあった。だが、電話で誰かに頭を下げるときだけ、年齢の分からない顔になった。

凛はその変化を、母の顔でも見たことがあった。金の話をするとき、人は急に老ける。

「病院、遠いんですか」

「電車で行けます。仕事終わってからやと、面会に間に合わへんことありますけど」

「休み、取れへんの」

「取ったら、稼がれへんので」

健太は明るく言った。明るく言えば、重い話が軽くなると思っているようだった。

その日の幹部会で、将吾は組の中に情報を流している人間がいる、と告げた。

凛は部屋の隅で資料を持っていた。将吾は名前を挙げなかった。全員の顔をゆっくり見た。見られた人間は、自分が疑われているのか、隣の人間が疑われているのか、確かめることができなかった。

「心当たりがある奴は、今のうちに言うて」

誰も動かなかった。

「黙ってても、分かることやから」

将吾は凛を見た。ほんの短い時間だった。

凛は資料の角を指で押さえた。紙が折れない程度の力を保つことに、意識を集中した。

会議のあと、長谷部は電話で、別の協力者がいる、と知らせてきた。

「君とは別の経路だ。互いに知らないほうがいい」

「危険になったら、保護されるんですよね」

「必要な対応はする」

必要な対応。その言葉には、誰が必要を決めるのかが含まれていなかった。

翌日の夕方、凛は地下駐車場で将吾に呼び止められた。

坂口という男が、その後ろにいた。将吾の手下だと、松井から聞いていた。会社には平然と出入りしている。

「ちょっと確認したいことがある」

将吾は凛の退路を塞ぐように立った。

「北新地、知らん言うたらしいな」

「会長に聞かれたので」

「ほんまに?」

凛は頷いた。

「そのわりに、会長に懐かれてる」

「私にも理由は分かりません」

坂口が近づいた。凛は足を動かさなかった。危険を察した体が、勝手に身構えようとする。その反応を止めることに、普段の訓練より力が要った。

「普通の経理が、あんな数字を見つけるか」

将吾は言った。

「会計事務所にいましたから」

「何年」

「7年です」

「どこに住んでた」

用意していた答えを、凛は順番に返した。将吾は同じ質問を、少し違う言い方で繰り返した。坂口が凛の鞄を取ろうとしたとき、駐車場の入口から松井の声がした。

「何しとんねん」

松井は凛の前に立った。

「会長が呼んではる。わしが連れていく」

将吾は松井を見た。

「確認や。組のためにやってる」

「ほな、会長の前で確認したらええ」

将吾はしばらく黙り、それから横へ退いた。

凛は松井の後ろを歩いた。地上に出るまで、膝の力が戻らなかった。

「怖かったか」

松井は前を向いたまま聞いた。

「はい」

その返事だけは嘘ではなかった。

「若頭は、疑い始めたら止まらん。しばらく、わしと一緒に帰れ」

凛は松井の背中を見た。守ってもらうために来たのではない。だが、今はその背中がなければ、まっすぐ歩けなかった。

*

給料日の翌日、健太は妹の病室から届いた写真を見せてくれた。

妹は16歳だという。病院の窓から見える木の写真を、毎週送ってくるのだと言った。凛が写真を見せてもらうと、同じ木が少しずつ違う色になっていた。夏の濃い緑から、黄色の混じった葉へ。健太は画面を指で送り、これは先月、これは先週、と説明した。

「自分の写真は、送ってくれへんのですか」

「嫌がるんです。病院の服やから、って」

「そっか」

「俺も、仕事の服は見せられへんので、お互いさまです」

健太は笑った。凛は笑えなかった。

妹には、物流の会社で働いていると話しているという。それは完全な嘘ではなかった。健太は実際に荷物を運び、倉庫を片づけ、運転手の手伝いをした。だが、会社の名前を言わない。名刺を渡さない。制服の写真を撮らない。その小さな省略を重ねて、兄としての自分を守っていた。

「退院したら、何したいって」

「海、見たいって。窓から木ばっかり見てるから、動くもん見たいらしいです」

凛は写真をもう1度見た。木も動いている。風に揺れ、季節が変わる。だが、窓から毎日見ている人には、動いていないように感じられるのかもしれなかった。

「連れていけたらええね」

「連れていきます」

健太は言い切った。

凛はその返事を覚えた。自分の将来については曖昧に笑う健太が、妹のことだけは、迷わず言った。

その日の午後、健太は坂口に呼ばれ、外へ出た。戻ってきたとき、靴が泥で汚れていた。凛が何をしてきたのか聞くと、片づけ、と答えた。何の片づけかは言わなかった。

給湯室で靴の泥を拭く健太を見て、凛は、自分が今この人をどこまで助けられるのかを考えた。仕事を辞めたほうがいいと言うだけなら簡単だった。辞めたあとの生活を、凛は用意できない。警察官だと明かして相談に乗ることもできない。

「靴、替えたら」

口から出たのは、そんな言葉だった。

「これしかないんです」

健太は笑った。

凛は自分の靴を見た。潜入のために買った、安いパンプスだった。それでも、東京には別の靴がある。戻れる職場がある。戻る場所のある人間が、ない人間に、やめればいいと言うことの軽さを思った。

*

会社の近くに、小さな弁当屋があった。健太はいつも、いちばん安い海苔弁当を買った。凛が唐揚げ弁当を選ぶと、今日は豪華ですね、と言った。

「毎日、同じので飽きへん?」

「同じほうが、迷わんでええです」

健太は割り箸を割った。片方だけが少し太くなった。気にせず食べ始めた。

凛は、妹の病院代の話をしようとして、やめた。昼休みくらいは、金の話をしなくてもいいはずだった。代わりに、子どものころ何が好きだったかを聞いた。

「図工です。木、切るやつ」

「工作?」

「そう。棚とか。ちゃんとできたら、使えるから」

健太は海苔を箸で切ろうとして、うまく切れずに笑った。

「勉強は、答え合うてても、何も残らへんでしょ。棚は、できたら残る」

凛は将吾の言葉を思い出した。金を使うときは、何が残るか考える。同じような言葉でも、健太が言うと、まるで違って聞こえた。

「また作ったらええやん」

「場所、ないんで」

「小さいものなら」

「妹の病室に置く棚、作りたいんですけどね。勝手に持っていったら怒られそうで」

凛は、病院に聞いてみたら、と言った。健太は頷いた。話しているあいだだけ、健太の顔から仕事の緊張が消えていた。

その日の帰り、凛は文具店で小さな方眼紙のノートを買った。翌朝、健太に渡すと、健太は戸惑った。

「何ですか」

「棚の図面。考えるだけなら、場所いらんやろ」

健太はノートを開いた。白い紙を見て、少し笑った。

「ありがとうございます」

凛は、安いものだから、と言いかけて、やめた。値段を言えば、受け取った気持ちまで小さくしてしまう気がした。

健太はノートを鞄にしまった。その鞄は、底が擦れて白くなっていた。

*

健太が消える4日前、凛は会社の前で小さな口論を見た。

坂口が、配送に来た運転手へ声を荒らげていた。予定の時間を過ぎたことが理由だった。運転手は渋滞の説明をしたが、坂口は聞かなかった。健太が間に入り、荷物は自分が運ぶと言った。

「お前が決めることちゃうやろ」

坂口が言った。健太は口を閉じた。凛は少し離れたところに立っていた。経理の人間が口を出す場面ではない。そう考えた瞬間、自分が黙る理由を探していることに気づいた。

「到着の記録、こちらで確認します」

凛は言った。

坂口が振り返った。凛は手帳を開き、納品の予定を確かめるふりをした。実際に、田辺から受け取った予定表があった。時間には幅があり、運転手はその範囲内に来ていた。

「遅れてません。こちらの伝え方が違ってたかもしれません」

坂口は予定表を見た。自分が間違っていたとは言わず、ほな早う降ろせ、と言った。

運転手は頭を下げ、健太と荷物を運んだ。凛は会社へ戻った。後ろから、坂口が、経理は細かいな、と言った。凛は、仕事なので、と答えた。

昼休み、健太が礼を言いに来た。凛は、予定表を見ただけ、と言った。

「それ、見てくれる人がおらへんと、違うことになるんです」

健太は言った。

凛は手帳を閉じた。見てくれる人。警察の仕事も、本当はそこから始まるのかもしれなかった。誰かが言ったことを、そのまま事実にしない。小さな紙を見て、違うと分かれば違うと言う。

健太は、坂口さんに目をつけられますよ、と言った。

「もう、つけられてるやろ」

凛が言うと、健太は笑った。笑いながら、少し心配そうだった。

「篠原さん、ここ向いてへんのちゃいますか」

「何で」

「ちゃんとしようとするから」

夕方、凛は配送の記録を整理した。坂口が関わる荷物には、記載の少ないものがあった。今日の口論と関係があるかは分からない。凛は結びつけず、記載が少ないという事実だけを残した。

健太が帰り際、机の横を通った。明日、妹に会いに行くので少し早く出ると言った。凛は、気をつけて、と答えた。

翌日、健太は予定どおり早く出た。手には、コンビニで買った小さな袋があった。妹が好きなゼリーだと言った。凛は、棚の図面も持っていったら、と言った。

「まだ、見せられるほどやないんで」

「途中でも、ええやん」

健太は少し考え、鞄の中を確かめた。ノートは入っていた。凛はそれを見て、よかったと思った。

後で、その日が最後の面会だったのかもしれないと考えたとき、凛は、途中でも見せたらいいと言ったことだけを、何度も思い出した。

*

健太が妹の面会から戻って3日後、坂口が給湯室へ来た。

給湯室の前で、健太は凛に缶コーヒーを差し出した。

「いつも遅いから。甘くないやつでよかったですか」

「ありがとう」

凛が受け取った直後、廊下の奥から坂口が来た。

健太の顔が変わった。

「若頭が呼んでる」

「今、仕事」

「ええから」

健太は凛を見た。何か言おうとして、言わなかった。坂口に肩を押され、廊下の奥へ歩いていった。

凛は缶を持ったまま立っていた。

午後、将吾が健太の携帯電話を机に置いた。画面には、見覚えのない相手とのやり取りがあった。

「妹の病院代、別のとこから出てたらしいわ」

将吾は凛に言った。

「親切な人もおるもんやな」

凛は缶コーヒーを鞄の奥へしまった。

昼休みが終わるまで待てなかった。会社を出て、長谷部へ電話した。

「協力者は健太くんですか」

「君が知る必要はない」

「連れていかれました。今すぐ保護してください」

「こちらで確認する」

「確認してる間に、何かあったら」

「神楽。君は動くな」

凛は目を閉じた。

「彼は22歳です」

「年齢の問題ではない」

「年齢の問題です。妹の病院代のために、ここにおるんです」

「君が動けば、君も危険になる」

「だから見てるだけでええんですか」

長谷部は少し間を置いた。

「命令だ」

通話が切れた。

凛は画面を見つめた。

夜になっても、健太は戻らなかった。

給湯室の棚に、星の描かれたマグカップが残っていた。凛はそれを手に取った。底に、小さな欠けがあった。使い続ける理由が、健太にはあったのだ。

*

健太が戻らない夜、凛は妹の病院へ行こうとした。

場所は知っていた。健太が話した駅と、写真に写った建物の名前から、見当がついた。行けば、何か分かるかもしれない。妹が連絡を受けているかもしれない。

だが、部屋を出る前に立ち止まった。自分が行けば、妹は兄の危険を知る。知らない女性が突然来て、兄について尋ねる。その怖さを、凛は想像した。

長谷部へ電話した。妹の安全は確認しているのかと聞いた。長谷部は、関係先には必要な連絡をしている、と答えた。

「必要な連絡って、何ですか」

「君に話せることは限られている」

「私が知らんほうが安全なんですか。それとも、私に知られたら困るんですか」

長谷部は、落ち着け、と言った。

凛は電話を握った。落ち着くことと、黙ることを同じにしないでほしかった。だが、言い返せば、また感情的だと扱われる。

「妹さんに、兄が無事やと伝えられる状態なんですか」

凛は声を低くした。

「今は、確認中だ」

初めて、分からないという意味の答えが返った。凛はそれを記録した。安心できる答えではなかった。だが、曖昧な言葉で覆われるよりは、次に何を確かめるべきかが見えた。

電話を切り、凛は玄関に座った。靴を履いたままだった。行くべき場所があるのに、行くことが誰かを傷つけるかもしれない。その間で、時間だけが過ぎた。

午前0時を過ぎ、村瀬から連絡があった。妹の病院への接触は、別の担当へ確認を求めたという。凛は、ありがとう、と言った。

「まだ、結果は出てません」

「分かってる。動いてくれたことに、ありがとう」

村瀬は少し黙り、はい、と答えた。

凛は靴を脱いだ。何もしなかった夜ではない。そう思いたかった。だが、健太がどこにいるかは、分からないままだった。

*

翌朝、健太の車が川の近くで見つかったという話が会社に流れた。車内に人はいなかった。

将吾は会議で、健太は辞めた、とだけ言った。

「郷に帰ったんやろ」

誰も質問しなかった。

凛は手元の資料を見た。健太の名前は、勤務表から消えていた。名前を消すことは、こんなに簡単なのかと思った。

夜、松井と小さなおでん屋に入った。

松井は酒を飲まなかった。湯呑みの茶を見つめていた。

「健太は、わしが連れてきたんや」

凛は黙っていた。

「駅で寝てた。妹がおる言うて、働くとこ探してた」

「ほかの仕事は」

「わしが紹介できるんは、ここだけやった」

松井は湯呑みを置いた。

「助けたつもりやった」

凛はその言葉を、すぐには受け止められなかった。警察も、助けるつもりで健太に近づいたのかもしれない。松井も、そうだったのかもしれない。

助けるつもりだった人間が何人もいて、健太は消えた。

「松井さん」

「なんや」

「会長は、知ってはるんですか」

松井は凛を見た。長い時間だった。

「会長は、全部知ってるわけやない」

それから、小さく付け加えた。

「けど、知らんふりしてることもある」

凛は鞄の中の缶コーヒーに触れた。まだ開けていない。ぬるくなった缶が、指先に重かった。

その夜、凛は報告書に、協力者の所在不明、と書いた。

健太という名前は書かなかった。

書けなかったことを、仕事の規則のせいにはできなかった。

*

村瀬は、健太に関する記録を見せてもらえなかった。

長谷部は、協力者の情報は分けて管理している、と言った。理屈は分かった。互いに知らないほうが、漏れたときの被害が少ない。だが、誰が何を知っているかまで分からなければ、危険を伝える相手も分からない。

「神楽さんの安全確認と、重なる部分があると思うんですが」

村瀬が言うと、長谷部は眼鏡を外した。

「君の担当は神楽だ」

「その神楽さんが、協力者を心配しています」

「心配することと、担当することは違う」

村瀬は頷いた。反論を続ければ、凛との連絡役から外されるかもしれない。その可能性が、言葉を止めた。

部屋を出たあと、村瀬は自分の机で、連絡の時刻だけを書いた。内容の分からない記録でも、時刻なら残せる。何かが起きたあとで、いつ誰が知ったかを確かめるためだった。

同僚が、細かいな、と笑った。村瀬は、忘れるんで、と答えた。実際には、忘れたことにされるのが怖かった。

凛からの連絡は、夜になるほど短くなった。会社の様子を話したあと、必ず、健太くんのことは何か分かったか、と聞いた。村瀬は、まだ、と答えるしかなかった。

「まだって、いつまで」

凛の声に苛立ちが混じった。

「すみません」

「謝ってほしいんやない」

「分かってます」

分かっていると言いながら、村瀬は何もできていなかった。凛を支える役目だと思っていた仕事が、凛の不安を受け取るだけの仕事になっている。

電話を切ったあと、村瀬は長谷部への報告を作った。凛が感情的になっている、とは書かなかった。協力者の安全に関する情報共有を求めている、と書いた。同じ声を、どう記すかで、人の評価は変わる。自分が凛の声を聞いている以上、そこだけは間違えたくなかった。

*

健太が消えたあと、凛はそのノートを探した。

机の引き出しにはなかった。ロッカーも空だった。田辺が、荷物はまとめて持っていかれた、と小さく言った。誰が、と凛が聞くと、田辺は首を振った。

「聞かんほうがええ」

凛はロッカーの扉を閉めた。金属の音が、思ったより大きかった。

田辺は凛の腕に触れた。

「篠原さん、顔に出てる」

「何がですか」

「納得してへん顔」

「田辺さんは、納得してるんですか」

田辺は手を離した。

「納得してたら、ここで働くん、もっと楽やったと思う」

凛は黙った。田辺は自分の机へ戻り、伝票を揃えた。手はいつもどおり動いていた。だが、1枚だけ向きが逆になっていた。凛はそれを見つけたが、直さなかった。

夕方、給湯室のマグカップを片づけるよう、坂口が言った。

「辞めた奴のもん、置いといてもしゃあない」

凛はカップを持ち上げた。星の絵を、親指で隠した。

「私が使います」

坂口は凛を見た。

「趣味悪いな」

「割れてへんので」

坂口は笑い、出ていった。

凛はカップを洗った。洗剤の泡が星の上を流れた。健太という文字は、少し薄くなっていた。消えてしまうのが怖くて、凛は途中で洗う手を止めた。

自分は、何を守っているのだろう。本人を守れず、カップを守っている。そのことが情けなかった。

夜、部屋で村瀬に電話した。健太の名前を何度も言った。協力者ではなく、健太と言った。村瀬は最後まで聞いた。

「俺も、名前で記録します」

村瀬は言った。

「正式な書類には書けない部分があっても、自分の記録には残します」

「それで、何が変わるん」

「今は、分かりません」

正直な返事だった。凛はその正直さに腹を立て、同時に、救われた。できないことを、できると言われるよりはよかった。

電話を切ると、凛は缶コーヒーを机に置いた。健太がくれたものだった。飲めば、普通のコーヒーだ。飲まなければ、ずっとあの日のままだ。

凛は開けなかった。

*

松井は、健太がいなくなってから、凛を会社へ送るようになった。

迎えに来る理由は毎回違った。近くを通った。会長の用事が早く終わった。雨が降りそうだ。凛は、心配しているのだと分かっていた。だが、松井は心配していると言わなかった。

車の中で、ラジオが流れていた。松井はニュースになると音を小さくし、歌になると少し大きくした。凛が、ニュース嫌いなんですか、と聞くと、松井は、朝からしんどい話ばっかりや、と答えた。

「しんどい話の中に、知ってることもあるんちゃいますか」

「あるやろな」

「聞かへんかったら、なくなるんですか」

松井はハンドルを握り直した。

「なくならん。せやけど、聞いたら何かせなあかん気になる」

凛は窓の外を見た。

「何かしたらええんちゃいますか」

「何したらええか、分からんこともある」

松井の声は、いつもより低かった。

凛はそれ以上言わなかった。自分も同じだった。何かしなければと思いながら、何をすれば健太が戻るのか分からない。松井を責めれば、自分の無力さが少し軽くなる。そのために言葉を使ってはいけなかった。

会社に着くと、松井は凛が降りる前に言った。

「篠原。あんた、ここを辞めたい思うたら、わしに言い」

「辞めさせてくれるんですか」

「できることはする」

必要な対応はする。長谷部の言葉が浮かんだ。似た言葉なのに、松井のほうが信じられると思った。信じたいからそう聞こえるのかもしれなかった。

「ありがとうございます」

凛は車を降りた。ビルの入口で振り返ると、松井はまだ車を出していなかった。凛が中へ入るのを見届けてから、ゆっくり走り出した。

入口のガラスに、自分の顔が映った。健太が消える前より、少し痩せていた。


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