第2章 甘い卵焼き
凛は電話を渡した。
将吾は画面を見て、口の端を上げた。表示されていたのは、借金の返済予定を記したメモだった。毎月の支払額。残高。何度も修正した痕跡まである。篠原凛という人間のために、凛が用意していたものだった。
「まだ、こんだけあるんか」
「あります」
「働かなあかんな」
電話が机に戻った。将吾はドアへ向かい、途中で足を止めた。
「うちの帳簿は、全部同じ意味で読まんほうがええ」
凛は頷いた。ドアが閉まっても、すぐには息を吐けなかった。
画面のKは、ただの記号に戻っていた。だが、将吾が凛を見ていた時間は、数字にはならない。記録できない危険が、この会社には多すぎた。
翌日の夜、村瀬は待ち合わせ場所に10分早く来ていた。
コインランドリーの乾燥機が、低い音を立てて回っている。凛は村瀬の隣ではなく、椅子を1つ空けて座った。
「Kは、黒田宗一郎につながってます」
村瀬は前を向いたまま言った。
「港湾関連の会社をいくつも束ねてる人です。表に出てる契約だけでは、あの金額を説明できません」
「3000万を60回」
「18億ですね」
「数字だけやったら、きれいやな」
村瀬が凛を見た。
「顔色、悪いですよ」
「寝てへんだけ」
「眠れないんですか」
凛は返事をしなかった。眠れないことを認めると、次はなぜ眠れないのかを説明しなければならない。自分でも、説明できなかった。
将吾が怖い。それだけではなかった。社員が普通に笑うことも、松井が大根を分けてくれたことも、凛を眠れなくさせていた。
誰かを欺くとき、その相手が嫌な人間であるほうが楽だ。
乾燥機の中で、赤いタオルが持ち上がり、落ちた。
「神楽さん」
「ここでは、その名前やめて」
村瀬は唇を閉じた。
凛は謝ろうとしたが、うまく言えなかった。代わりに、持ってきた缶コーヒーを村瀬のそばに置いた。
翌朝、将吾は凛を自分の部屋に呼んだ。
「明後日、南港の第3倉庫。朝6時や」
紙には場所と時間、金額だけが書かれていた。1億円。
「取引先への前払い。帳簿の整理、頼むわ」
「現金ですか」
「せや。知っとるのは俺とあんただけ」
将吾は紙から手を離した。凛は受け取ったが、すぐにしまわなかった。
知っているのは2人だけ。
仕事を任せる言葉にも、罠を仕掛ける言葉にも聞こえた。
廊下で松井に会った。松井は凛の手の紙を見て、眉を寄せた。
「若頭が、段取りまで話したんか」
「経理で処理してほしいって」
「珍しいな」
「いつもは、どうするんですか」
「終わってから紙だけ来る。あの人は、まだ起きてへんことを人に話さん」
凛は紙を折った。折り目が、1億円の文字を横切った。
昼休み、長谷部へ報告した。
「現場は押さえないでください」
「根拠は」
「私しか知らない予定を、私に教えてます」
「だからこそ、価値がある」
「警察が来たら、漏らしたのは私です」
長谷部は黙った。電話の向こうで紙をめくる音がした。
「君が疑われる可能性と、現場を押さえる利益を比べる必要がある」
「私の命は、利益のほうに入らへんのですか」
言ってから、凛は目を閉じた。こんな言い方をするつもりではなかった。
「張り込みは出さない」
長谷部の声は変わらなかった。
「ただし、勘だけで仕事をするな」
通話が終わった。
凛はしばらく、公園のベンチに座っていた。子どもが落としたボールを、通りがかった人が拾って渡していた。誰かを助けるという行為が、あんなに短く終わることを、羨ましいと思った。
*
南港の予定日を過ぎても、将吾は何事もなかったように出勤した。
現金の受け渡しについて、凛に何も言わなかった。凛も尋ねなかった。後から村瀬が、倉庫では取引らしい動きがなかった、とだけ知らせてきた。
疑いは消えたのではない。延期されたのだ。
その夜、松井が凛の机に来た。
「会長が飯に来い言うてはる」
「私が?」
「ほかに篠原凛がおったら、その子でもええけど」
松井は笑った。凛は笑えなかった。
龍崎邸は、凛が想像していた屋敷より静かだった。玄関に花があり、靴がきちんと揃っている。どこかで出汁の匂いがした。
茶の間のちゃぶ台には、肉じゃがと白和え、味噌汁が並んでいた。剛三はすでに座っていた。会社で見た和装ではなく、柔らかそうな部屋着だった。
「座り」
凛は松井の隣に座った。剛三は箸を取り、何も言わずに食べ始めた。食事のために人を呼んでおいて、話をしない。その不器用さが、凛には少し意外だった。
卵焼きを口に入れた。
甘かった。
凛は箸を止めた。甘い卵焼きなど、珍しくはない。それでも、胸の奥で何かが急に近づいた。母の台所。換気扇の音。食卓に敷いた花柄の布。
「甘いやろ」
剛三が言った。
「はい」
「大阪の人間には怒られる」
「母も、砂糖入れてました」
剛三の箸が止まった。
松井が味噌汁を飲む音だけがした。
「ほうか」
剛三は卵焼きを見た。
「昔、これだけはうまい女がおった」
「料理、ほかは苦手やったんですか」
「苦手いうか、気ぃが急くんや。待たれへん。煮物も、煮える前に蓋開けよる」
凛は母を思い出して、少し笑った。由紀子もそうだった。凛が宿題をしているあいだ、何度も鍋を覗いていた。
「その人は、今は」
「おらんようになった」
剛三はそれだけ言い、肉じゃがに箸を伸ばした。
食後、松井が台所へ行った。凛は湯呑みを持って縁側に出た。剛三は庭を見ていた。夜の庭には、木の形だけが残っていた。
「お茶、ここでええですか」
「ああ」
湯呑みを置いたとき、剛三が咳をした。1度では終わらなかった。体を折り、片手を畳についた。
凛はそばに膝をついた。
「会長」
剛三は手を上げた。来るなという合図にも、待てという合図にも見えた。
凛は台所を振り返った。松井を呼ぼうとした瞬間、剛三が低く言った。
「騒がんでええ」
「でも」
「いつものことや」
いつものこと。その言葉で説明されるには、剛三の呼吸はあまりに苦しそうだった。
凛はそばに座り、声をかけ続けた。剛三はしばらくして顔を上げた。額に汗が浮いていた。
「将吾には言わんでええ」
「松井さんは知ってはるんですか」
「あいつは知っとる」
剛三は湯呑みに手を伸ばした。指先が震えていたので、凛は湯呑みを持ち上げ、手に渡した。
「あんた、手ぇ温いな」
剛三はそう言った。
凛は自分の手を見た。人を取り押さえるときの手。手錠をかけるときの手。その手を温いと言われたことが、なぜか落ち着かなかった。
帰り際、剛三は門まで出てきた。松井が車を回しているあいだ、凛は門灯の下で頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「凛」
名字がなかった。
凛は顔を上げた。
「あんた、北新地に知り合いおるか」
門灯に小さな虫がぶつかった。乾いた音がした。
凛は口を開いた。母の名前が、出そうになった。
「いいえ」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
「縁、ありません」
剛三は凛を見ていた。怒りも疑いも、表情にはなかった。ただ、何かを待っているようだった。
「ほうか」
剛三は頷いた。
「気ぃつけて帰り」
車に乗ると、凛は窓の外を見た。門の内側へ戻っていく剛三の背中が、ガラスに映った自分の顔と重なった。
母のことを隠すために嘘をついたのか。
仕事を守るために嘘をついたのか。
凛には、その違いが分からなかった。
*
月末の支払いを確認していると、取引先から電話が入った。振込額が足りないという。凛は台帳を開き、田辺に確認した。田辺は金額を聞くと、眉を寄せた。
「差し引きやと思う。営業のほうで、何か決めてる」
「何を差し引いたんですか」
「管理費とか、協力金とか。名前は、そのときで違う」
凛は受話器を持ち直した。相手は森下という、小さな運送会社の社長だった。声の後ろで、トラックのエンジン音がしていた。事務所からではなく、車のそばから電話しているらしかった。
「担当に確認します。お待ちいただけますか」
「待つんは、ええんです。ただ、今日、給料払わなあかんので」
凛は手帳に、今日、と書いた。相手にとっては、月末でも、締め日でもない。今日、金が必要なのだ。
営業担当は席にいなかった。将吾へ聞くと、決まっている支払いだから処理を変えるなと言った。凛は理由を尋ねた。将吾は、森下も承知している、と答えた。
「承知してたら、電話は来ません」
「忘れたんやろ」
「書面はありますか」
将吾は凛を見た。凛は視線を逸らさなかった。経理の確認として聞いている。そう見える範囲を越えないよう、声を平らにした。
「篠原さんは、書面があったら納得するんか」
「処理はできます」
「納得と処理は違うんやな」
「違います」
将吾は机の引き出しを開け、薄い契約書を出した。凛は受け取り、該当する部分を読んだ。金額は書かれていなかった。別途協議する、という文字だけがあった。
凛は電話をかけ直した。森下は、はい、と短く返事をした。
「金額の決まった書面が、こちらでは確認できませんでした」
「そうですか」
「担当から、改めて連絡させます」
それ以上、約束はできなかった。警察官としてなら、相談に来てほしいと言えたかもしれない。篠原凛には、その言葉がなかった。
電話を切る直前、森下は、調べてくれてありがとう、と言った。
凛は受話器を置いた。何も解決していないのに礼を言われることが、これほど苦しいとは思わなかった。
夕方、将吾は森下への不足分を振り込むよう指示した。凛は驚いて顔を上げた。
「来月、まとめて精算する。今日は払うたって」
「ありがとうございます」
「何で、あんたが礼言うんや」
将吾は笑った。凛は口を閉じた。礼を言う立場ではなかった。支払うべき金を支払っただけだ。それでも、将吾が善意を見せたように感じてしまった。
誰かを困らせる力を持つ人間は、困らせないだけで感謝される。
凛はその日の報告に、森下への支払いの経緯を記した。将吾が最後に支払ったことも、省かなかった。相手を悪く見せるために都合の悪い事実を抜けば、調べる意味がなくなる。
*
日曜日、松井は凛を商店街へ連れていった。会長の買い物だと言ったが、買うものは仏壇の花と、台所で使う布巾だった。松井は花屋の前で足を止め、白い花と黄色い花を見比べた。
「どっちが長持ちするんやろな」
「お店の人に聞いたら」
「聞いたら、両方ええ言うやろ」
凛は笑った。松井は結局、両方買った。花屋の人は、今日は若い人と一緒でええね、と言った。松井は、会社の子や、と答えた。凛は小さく頭を下げた。
布巾を買ったあと、松井は小さな靴屋へ入った。店主は松井の顔を見ると、直ったよ、と奥から革靴を出した。踵が新しくなっていた。松井は靴を受け取り、代金を払った。
「新しいの、買わへんのですか」
「まだ履ける」
「会長の靴ですか」
「わしのや。会長のは、もっとええ靴」
松井は包みを持ち直した。
「昔は、靴なんか、すぐあかんようになった。歩いてばっかりやったからな」
凛は聞き返さなかった。どんな仕事で歩いていたのか、想像できた。商店街の店主たちが松井に挨拶する。その中に、親しさだけではないものが混じっていることにも気づいた。笑顔のまま、店の奥へ下がる人がいた。松井は気づいているのか、気づかないふりをしているのか、同じ調子で歩いた。
総菜屋の前で、松井はコロッケを2つ買った。紙袋を凛へ渡し、自分のぶんをひと口食べた。
「熱いで」
「先に言うてください」
凛は笑った。そのすぐあと、店主が松井へ深く頭を下げた。何度も下げた。松井は、もうええ、と手を振った。
凛は紙袋を持ったまま、店主の顔を見た。松井が親切にしている人なのか、松井に逆らえない人なのか、判断できなかった。
帰り道、凛は尋ねた。
「松井さんは、この街で嫌われてへんのですか」
松井は少し驚き、それから笑った。
「嫌われてるやろ」
「そうなんですか」
「好かれてると思うほど、アホやない」
松井は花の包みを見た。
「挨拶してくれる人が、みんな好きでしてくれてるわけやない。わしらは、それを忘れたらあかん」
凛はコロッケを食べた。もう熱くなかった。
「忘れへんかったら、続けてええんですか」
松井は足を止めた。凛も止まった。
「ええことは、ないやろな」
松井は答えた。
「せやけど、やめるいうんは、今までの自分が間違うてたって認めることや。わしは、それが怖かったんやと思う」
凛は松井を見た。怖いという言葉を、この人が使うことを意外に感じた。怖がらせる側にも、怖いものがある。それを知ったからといって、怖がらせられた側のことを忘れていいわけではなかった。
2人はまた歩き出した。花の包みから、黄色い花びらが1枚落ちた。松井は気づかず、凛は拾った。捨てる場所がなく、紙袋の端に入れた。
*
最初に龍崎邸へ呼ばれたあと、凛は2週間ほど、食事の誘いを断った。
仕事が残っている。先約がある。体調がよくない。理由は毎回変えた。松井は深く聞かず、会長には言うとく、と答えた。断るたび、凛は少し安心し、少し落ち着かなくなった。
母に似た味があるから、行きたいのか。会長の話を聞けるから、行くべきなのか。自分の理由が分からなくなっていた。
ある日、龍崎邸の台所を預かる文江から会社へ電話があった。松井が不在だったので、凛が取った。
「篠原さん? よかった。今日、松井さんに買うてきてもらうもん、伝えてくれる」
凛はメモを取った。豆腐、卵、台所用の洗剤。文江は最後に、篠原さんのぶんもご飯炊くけど、と言った。
「今日は、まだ」
「来られへんかったら、明日食べるだけや。気にせんといて」
電話が切れた。凛はメモを見た。来ても来なくてもいいと言われたことが、誘われるより気になった。自分のために席を用意されるのは怖い。だが、席があると知ることは、嬉しかった。
夕方、凛は松井に、今日は行きます、と伝えた。松井は、ほうか、とだけ言った。理由を聞かれなかったことに、また救われた。
その日の食卓には、焼き魚と湯豆腐が並んでいた。剛三は、卵焼きやないで、と言った。凛は驚いて顔を上げた。
「甘いの、苦手やったか思うてな」
「苦手やないです」
「ほな、また作ってもろたらええ」
剛三は魚の骨を外した。指先が少し不器用だった。凛は手伝おうとして、やめた。本人ができることまで奪う必要はない。母の入院中、何でも先にしてしまい、母に、私の仕事なくさんといて、と言われたことがあった。
食事の途中、将吾が来た。玄関の音で、松井が立ち上がった。将吾は茶の間を見て、凛がいることに少し驚いたようだった。
「家族みたいやな」
将吾は言った。
凛は箸を止めた。剛三は、飯食うか、と聞いた。将吾は、食べてきた、と答えた。
「ほな、茶だけでも」
「仕事の話や」
将吾は立ったままだった。剛三は箸を置き、あとにせえ、と言った。将吾の顔が硬くなった。
「今、決めなあかん」
「飯のあとや」
凛は自分が席を外すべきだと思った。だが、立てば、自分がいるせいで話ができないと認めることになる。座ったままでも、同じだった。
文江が台所から出てきて、将吾の前に茶を置いた。
「冷める前に飲んで。立ってたら、こぼすよ」
将吾はしばらく文江を見て、それから座った。凛は息を吐いた。文江は誰の味方をしたのでもない。ただ、茶を置く場所を作った。
将吾は湯呑みを持ち、凛へ視線を向けた。
「篠原さん、ここに来るん、慣れた?」
「まだです」
「慣れたら、帰りにくなるで」
冗談のような口調だった。凛は笑わなかった。将吾も笑わなかった。
帰りの車で、松井は何も話さなかった。凛は窓に映る自分を見た。食事をしただけなのに、誰かの場所を取ったような気がした。
その夜、村瀬へ報告すると、村瀬は、将吾は会長に認められたいんでしょうか、と言った。凛は、分からへん、と答えた。
分からないと言いながら、自分も同じ気持ちを知っているような気がした。父の顔も知らずに育った子どもは、認めてほしい相手の顔を、心の中で何度も作ってきた。
*
それから凛は、週に1度ほど龍崎邸へ寄るようになった。文江は自然に凛にも仕事を振った。箸を出して。茶碗を拭いて。冷蔵庫の下の段から漬物を取って。凛は言われるままに動いた。
「会長は、何でも食べはるんですか」
「嫌いなものは、残さはる」
「何が嫌いなんですか」
「食べたないときは、何でも嫌い」
文江は鍋の火を弱めた。凛は少し笑った。
「子どもみたいですね」
「病気の人に、子どもみたい言うたらあかんよ。しんどいときは、食べるだけでも仕事なんやから」
凛は頷いた。母の病室で、食べてほしいと何度も言ったことを思い出した。食べられない理由より、食べてくれない不安のほうを優先していた。母は最後まで、凛を困らせまいとして箸を持った。
「すみません」
「私に謝ってもしょうがない」
文江は凛に小皿を渡した。
「味見して。濃いかな」
凛は煮汁を口にした。母の味とは違った。違うことに、少し安心した。ここに来るたび、母を探している自分がいた。似ているものがあれば胸が騒ぎ、違うものがあれば落ち着く。そんなふうに食事をしていることを、誰にも知られたくなかった。
「ちょうどええです」
「ほな、運んで」
文江は皿を並べた。剛三のぶんだけ、少し小さな皿だった。量を減らしているのだと分かった。食べ残しを見せないための配慮なのかもしれなかった。
食卓で剛三は、今日の煮物はうまい、と言った。文江は台所から、いつもと同じです、と返した。剛三は、いつもよりうまい、と言い直した。凛は箸を持ったまま、そのやり取りを聞いた。
家族のようだと思いかけて、やめた。文江は仕事としてここにいる。松井もそうだ。自分は仕事を偽っている。
それでも、誰かが少しでも食べやすいように皿を選ぶ時間は、確かにここにあった。
帰りに文江が、余った煮物を小さな容器に入れてくれた。
「明日までに食べて。容器は返さんでええ」
凛は受け取った。借りた部屋の冷蔵庫に入れると、初めて、冷蔵庫が生活のためのものに見えた。それまでは、買ったものを一時的に置く箱だった。




