第1章 名前のない父
母の遺品には、まだ触れていない。
神楽凛は玄関で靴を脱ぐたび、部屋の隅に積まれた3つの段ボールを見た。由紀子、遺品。自分で書いた文字なのに、誰かから届いた荷物のようだった。母が亡くなってから3年になる。段ボールの角は湿気を吸い、少しずつ丸くなっていた。
捨てられないものと、開けられないものは違う。捨てられないなら、ときどき手に取ることができる。開けられないものは、存在するだけで生活の一部を塞いでしまう。
今夜も、凛は箱の前を通り過ぎた。
洗面所の鏡に、30歳の顔が映った。右の頬に薄い擦り傷がある。夕方の現場でできた傷だった。水をつけると、思っていたより痛んだ。
携帯電話が鳴った。村瀬大樹からだった。
「報告書、読んだんですけど」
「直すとこあった?」
「あります。応援を待たずに入った理由が、逃走のおそれ、だけになってます」
「ほかに何て書くん」
「危ないから、もうしないって書いてください」
凛はタオルを顔に押し当てた。電話の向こうで、村瀬が息を吐いた。
「冗談じゃないですよ。神楽さんに何かあったら、俺が困ります」
その言い方が妙にまっすぐで、凛は返事をするまでに少し時間がかかった。
「ほな、次は待つわ」
「録音しとけばよかった」
通話が終わると、部屋はまた冷蔵庫の音だけになった。遺影の母は、凛より若く見えた。写真を撮ったころ、由紀子はまだ病気を知らなかった。あるいは、知っていて黙っていたのかもしれない。
母は大事なことほど、説明をしない人だった。
父はどこにいるのか。子どものころ、凛は何度も聞いた。
「遠いとこにおる人や」
由紀子はそう答えた。遠いところがどこなのかを聞くと、卵焼きの焦げた端を箸で切り取って、凛の皿に載せた。
「あんたは、こっちの甘いとこ食べ」
それが答えの終わりだった。
父親のいない家に育ったことを、凛は不幸だと思ったことがなかった。ただ、誰かに理由を尋ねられるたび、母の代わりに説明しなければならないのが嫌だった。死んだことにした年もある。外国にいることにした年もあった。嘘をつくと相手は納得した。真実を知らない自分だけが、納得できなかった。
翌朝、長谷部透は小会議室の奥で待っていた。
机に置かれたファイルは1冊。表紙に龍崎会と印字されている。凛が座ると、長谷部はファイルをこちらへ滑らせた。爪を短く切りそろえた手だった。
「龍星興産。大阪に本社を置く会社だ」
写真のビルは、どこにでもあるガラス張りのオフィスだった。犯罪組織の関連企業という説明がなければ、凛も通り過ぎただろう。
「帳簿を見られる人間が必要になった」
「経理担当ですか」
「そうだ。会社の外からでは追えない金がある」
凛は写真をめくった。和装の男。杖。鋭い目。次の写真には、仕立てのいいスーツを着た若い男が写っていた。
「龍崎剛三、62歳。会長だ。こちらが龍崎将吾、35歳。若頭。龍星興産の実務は将吾が握っている」
「大阪の案件ですよね」
「府警との合同だ。こちらは資金の流れを担当する。港の取引に絡む恐喝と、薬物の売上が混じっている疑いがある」
凛は組織図の隅にある、港湾会社の名前へ指を置いた。
「出入りの確認だけでは、足りませんか」
「誰の金なのかを、内側の記録で確かめたい」
長谷部は椅子に背を預けた。
「受けるかどうかは、君が決めていい」
自由な選択に聞こえる言葉ほど、すでに決まっていることがある。凛は長谷部の顔を見た。52歳。部下の名前も、過去の事件の細部も、驚くほど正確に覚えている人だった。凛が母を亡くしたときも、忌引きの日数を自分で確認してくれた。
「なぜ私なんですか」
「前の知能犯事件で、帳簿から名義人を割り出した。大阪で育ったことも役に立つ。それに、家族への影響が少ない」
最後の言葉だけ、少しゆっくりだった。
「身寄りがないから」
「危険を減らせるという意味だ」
「私の危険じゃなくて、周りの危険ですね」
長谷部は答えなかった。
凛はファイルを閉じた。母の働いていた街には、金を持っている人間と、金に追われる人間が同じ道を歩いていた。由紀子は後者の話をよく聞いた。凛が眠ったと思って、台所で誰かを励ましている夜もあった。
警察官になった理由を尋ねられると、凛はいつも、困っている人を助けたいから、と答えてきた。間違いではない。だが、それだけでもなかった。
母が黙っていたことを、黙ったままにしない仕事がしたかった。
「お受けします」
長谷部は頷き、もう1冊のファイルを出した。
篠原凛。30歳。元会計事務所勤務。
知らない名字が、自分の顔写真の上に載っていた。
その夜、凛は母の遺影を小さな布で拭いた。段ボールは東京の部屋に残していく。大阪に持っていく荷物は、2週間の出張より少なかった。
「しばらく帰ってこられへんかも」
母にそう言ってから、帰る場所がどちらなのか分からなくなった。
*
大阪へ出るまでの12日間、凛は自分の過去を人に預ける準備をした。
準備の部屋には窓がなかった。机の向こうに座った担当者は、凛の好きな食べ物から、最後に風邪をひいた日まで尋ねた。答えを偽る練習ではなく、本当の記憶のどこまでを残すかを決める作業だった。すべてを作り話にすれば、何でもない質問で足が止まる。だから大阪で育ったことも、母を亡くしたことも、料理が得意でないことも残す。変えるのは、職歴と金の使い方、そして名字だった。
「名前まで変えるのに、下の名前は残すんですね」
凛が言うと、担当者は書類から顔を上げた。
「呼ばれたときの反応は、なかなか変えられませんから」
凛は新しい身分の書類を見た。下の名前だけは、自分のものだった。
休憩時間に村瀬が弁当を持ってきた。焼き魚の入ったものと、唐揚げの入ったものを机に並べ、好きなほうを取ってくださいと言った。凛は焼き魚を選んだ。村瀬は唐揚げの蓋を開けてから、箸を止めた。
「これから、篠原さんって呼ぶ練習したほうがいいですか」
「仕事中だけでええ」
「仕事じゃない時間、あるんですか」
凛は魚の骨を外した。村瀬の問いには、意地悪なところがなかった。それだけに、用意した答えで逃げることができなかった。
「部屋に帰ったら、あるんちゃう」
「その部屋でも、神楽さんの荷物は置けないんですよね」
「写真くらいは、覚えてる」
村瀬は頷いたが、納得した顔ではなかった。弁当を食べ終えると、コンビニの袋から小さな裁縫セットを出した。凛が見ていると、鞄の持ち手がほつれているから、と言った。
「俺、こういうのだけはできます。母が、できないと困るってうるさかったんで」
凛は鞄を渡した。村瀬が針に糸を通すあいだ、母のことを話そうかと思った。母も、凛にボタンのつけ方を教えた。教えられたのに、凛は今でも面倒になって店に頼む。そのことを話すのは簡単だったはずなのに、言葉が出なかった。
村瀬は黙って縫った。持ち手の裏側に、細かい縫い目ができた。
「見えないところなんで、多少下手でも大丈夫です」
「十分うまいやん」
「ほめても、もう1個はやりませんよ」
凛は笑った。鞄を受け取ると、少しだけ丈夫になった気がした。何もかも偽物になる準備の中で、ほつれを直してもらったという事実だけが、妙にはっきり残った。
その夜、凛は辞令に相当する書類を読んだ。通常の勤務とは異なる扱いについて、細かな注意が並んでいた。責任の所在を説明する文章は長いのに、危険が起きたときに誰が迎えに来るのかは、短い1行でしか書かれていなかった。必要に応じて担当者が判断する。凛はその部分に鉛筆で線を引き、翌日、長谷部に尋ねた。
「必要かどうかは、誰が決めるんですか」
「私だ」
「私が必要だと言ったら、必要になりますか」
長谷部は書類を受け取り、線を引いた箇所を見た。
「現場の判断は尊重する。ただし、君に見えているものが全体とは限らない」
「全体が見えてる人は、現場にいないんですね」
「だから連絡を取り合う」
「私が連絡できなくなったら」
「村瀬が定時連絡を管理する。途絶えたら、私へ上げる」
「村瀬にも、離脱の判断をさせてください」
「命令の系統は増やせない」
長谷部は書類を返した。凛は鉛筆の線を消しかけ、やめた。
*
新大阪の駅で、凛は弁当を買わなかった。母と東京へ行ったとき、由紀子は必ず駅で何か買った。移動する日くらいは楽をしてもいい、と言いながら、値段の違う弁当を3つも見比べた。結局いつも、凛の好きなものを買った。凛がそれに気づいたのは、母がいなくなってからだった。
駅の外へ出ると、街の音が近かった。東京より大きいわけではない。ただ、声が声として聞こえた。言葉の端に、子どものころから知っている調子があった。懐かしいと思うより先に、油断してはいけないと思った。自分の育った場所で、知らない人間として暮らすのだ。
借りた部屋は、川から少し離れた古い集合住宅にあった。窓の鍵が固く、台所の蛇口は閉めても少し水が落ちた。管理人は、修理を頼んであると言った。凛は頷いた。いつ修理が来るかを尋ねると、管理人は困った顔になった。
「来週いうてるんやけどねえ」
来週という言葉が、何週間も使われてきたらしいことが分かった。凛はそれ以上聞かなかった。
荷物を置き、近所のスーパーへ行った。卵と牛乳と食パンを籠に入れた。何日いるか分からないので、大きな調味料は買わなかった。だが、小さな砂糖の袋だけは手に取った。母が買っていたのと同じ柄だった。
レジで名前を尋ねられた。ポイントカードの申し込みだった。凛は一瞬、神楽と言いかけ、申し込みはしないと答えた。店員は何も気にせず、次の客へ向き直った。たったそれだけのことで、凛は帰り道の途中に立ち止まった。
名字を言わずに済んだことに、ほっとしている。
まだ会社へ入ってもいないのに、自分の名前を口にする場所が減っていた。
部屋へ戻ると、壁の向こうからテレビの音がした。笑い声が、薄い壁を通って聞こえた。凛は椅子に座り、食パンを1枚食べた。食事というより、ここで生活を始めたという印をつけるためだった。
翌朝、鏡の前で篠原凛と名乗った。何度も繰り返すと、名字の意味が薄れて音だけになった。凛は口を閉じた。
*
面接の前日、凛は大阪で1人の女性に会った。
かつて母と同じ建物に住んでいた宮原という人だった。古い知人との接触は、潜入が始まる前に済ませるよう指示されていた。宮原から預かりものがあると連絡を受け、凛は担当者に届けたうえで会いに来た。
宮原は駅前の喫茶店に、早く来ていた。凛を見ると、由紀ちゃんそっくりや、と言った。凛は笑い、向かいに座った。
「東京で、警察の仕事してるんやってね」
「はい」
「お母ちゃん、自慢してたよ。口では、危ない仕事選んでしもうて、って言うてたけど」
宮原は手提げ袋から、薄い冊子を出した。凛が通った小学校の周年記念誌だった。片づけていたら出てきたので、持ってきたという。
「うちの子の学年のとこしか見てへんかったんやけど、凛ちゃんも載ってた」
凛は開いた。校庭の写真に、知らないほど小さな自分がいた。列の端で、隣の子のほうを向いている。写真を撮る瞬間にも、何か話していたらしかった。
「これ、もろてもええんですか」
「そのために持ってきたんよ」
宮原は笑った。凛は礼を言い、頁をめくった。保護者の寄稿欄に、由紀子の名前があった。
子どもが鍵をなくした日のことが書かれていた。仕事へ行く直前で、母は焦り、凛を叱った。凛は泣かず、1人で探した。結局、鍵は母の上着のポケットから出てきた。
凛はその日を覚えていなかった。母が自分を叱ったことも、謝ったことも、忘れていた。
寄稿の最後に、短い文があった。
娘が間違えたときに叱れる親より、自分が間違えたときに謝れる親になりたい。
凛はそこを読み直した。由紀子は、いつも正しかったわけではない。だが、間違いを自分のものとして持っていた。そのことを、凛は母がいなくなってから知った。
「どうしたん」
宮原が聞いた。
「こんなん書いてたん、知りませんでした」
「親は、子どもに見せへん顔があるからね」
凛は冊子を閉じた。仕事のために来たはずだった。なのに、受け取ったのは、自分が知らない母だった。
宮原は、今日は仕事か、と尋ねた。凛は、しばらく大阪で、と答えた。それ以上は言わなかった。宮原も聞かなかった。
「ご飯、食べに来て。1人分増えるくらい、どうってことないから」
凛は頷いた。行けるとは約束しなかった。明日からは、神楽凛として会いに来ることが難しくなる。
別れ際、宮原は凛の上着の肩についた糸くずを取った。母も、よくそうした。凛が自分では見えないところを、黙って整えた。
凛は改札の前で、もう1度頭を下げた。宮原は、そんなに礼せんでええ、と手を振った。
借りた部屋へ戻ると、凛は記念誌を鞄の底に入れた。置いておけば、誰かに見られるかもしれない。持って歩けば、なくすかもしれない。結局、東京へ送る荷物に入れた。
神楽凛のものを、また1つ遠ざけた。
翌朝、凛は面接用の服を着た。鏡に向かって名乗る前に、母の文章を思い出した。自分が間違えたときに謝れる人間でいたい。そのことだけは、名字を変えても持っていこうと思った。
*
面接へ向かう道で、凛は小さな交番の前を通った。制服姿の警察官が、道を尋ねる人に地図を見せていた。凛は挨拶しそうになり、歩調を変えずに通り過ぎた。
制服を着ている人間が、少し遠く見えた。昨日までは同じ側にいた。今日からも同じ側にいるはずだった。それでも、名乗れないというだけで、間に厚いガラスがあるようだった。
ビルの入口で、凛は携帯電話を確認した。村瀬から、終わったら連絡を、と届いていた。凛は、分かった、と返した。長谷部からの連絡はなかった。
自動扉が開いた。受付の時計は、約束の時刻より7分前を示していた。
凛は息を吸った。
「面接で伺いました。篠原凛です」
受付の人が、はい、と答えた。
その名前で、初めて誰かが自分を受け入れた。
*
8月1日、龍星興産の応接室には、観葉植物が2鉢置かれていた。どちらも葉がよく磨かれている。世話をする人間がいるのだ。凛はそんなことを考えながら、ソファの端に座った。
将吾は履歴書を読むあいだ、凛をほとんど見なかった。
「客の預かり金に手ぇつけたんか」
「はい」
「採ってもろう立場で、よう言うな」
「調べたら分かること、隠してもしょうがないんで」
将吾は小さく笑った。履歴書を閉じ、決算書の束を置いた。
「10分。おかしいとこ見つけて」
凛は紙をめくった。数字は顔より正直だった。人は表情を変えられるが、合計は変わらない。何かを隠せば、そのぶん別の場所に歪みが出る。
7分が過ぎたところで、凛は顔を上げた。
「修繕費が重複してます。源泉の計算も違います」
「ほかは」
「この2つは、試験用の間違いですよね」
将吾の笑みが止まった。
「南浪物流への支払いだけ、ほかと違います。運送の量に対して高すぎる。これは私に見せる予定やなかった数字ちゃいますか」
部屋の外で電話が鳴った。将吾は凛の目を見ていた。
「数字が分かるんやな」
「それしかできません」
「それだけできたら、十分や」
ドアが開いた。背の低い、肩の厚い男が顔を出した。
「会長がお見えです」
将吾が立ち上がった。その動きには、仕事相手を迎えるときとは違う速さがあった。
剛三は杖をついて入ってきた。写真より痩せていた。だが、凛は痩せたことより先に、視線の強さを感じた。相手の顔を見るのではなく、その顔に至るまでの時間を見ているような目だった。
剛三は凛の前で止まった。
「名前は」
「篠原凛です」
「凛」
自分の名前を、男はもう1度言った。
その声を聞いた瞬間、凛は不思議な居心地の悪さを覚えた。知らない人間に名前を呼ばれただけなのに、知られてはいけないところを触られた気がした。
「採用や」
将吾が口を開きかけた。
「親父、まだ」
「松井。この子の面倒、お前が見たれ」
ドアのそばの男が頭を下げた。
「分かりました」
剛三はそれだけ言って出ていった。杖の音が廊下の奥へ遠ざかったあとも、凛はソファに座ったままだった。
将吾が決算書を引き寄せた。
「運がええな、篠原さん」
その言葉に祝福はなかった。
*
入社初日、凛に机を教えたのは田辺澄江という社員だった。48歳で、会社に17年いると言った。机の引き出しには、前任者が残した輪ゴムと、乾いた修正液が入っていた。田辺は修正液を振り、音を聞いてから捨てた。
「ここ、細かいこと気にする人と、全然気にせえへん人がおるから」
「どっちに合わせたらええですか」
「書類は細かいほう。人は、気にせえへんほう」
田辺はそう言って、給湯室の場所を教えた。昼は弁当を持ってきてもいいし、外へ出てもいい。冷蔵庫の中のものには名前を書く。お茶の葉は会社持ちだが、コーヒーは各自。説明は、凛がこれまで勤めたどの職場とも変わらなかった。
午前中、凛は請求書を日付順に並べた。田辺の処理は丁寧だった。取引先ごとに付箋の色が違い、確認が必要なものには、何を聞くべきかまで書いてあった。犯罪組織の関連会社で働く人間は、もっと雑なのだろうという先入観が、自分にあったことに気づいた。
「田辺さん、前はどこで」
「小さい印刷屋。潰れてね。ここは知り合いの紹介」
「会社のことは」
凛は言いかけて、止まった。田辺は凛を見た。
「知ってるよ」
声は平らだった。
「知らん顔して入ってきたわけやない。子ども2人おって、家賃があって、すぐ働けるとこがここやった。それで17年」
凛は請求書へ視線を戻した。
「すみません」
「謝らんでええ。聞かれるんは、慣れてる」
慣れているという言葉が、凛には重かった。自分はこの会社を調べるために来た。田辺は、この会社で子どもを育てた。どちらの事実も、同じ机の上にあった。
午後、田辺の携帯電話が鳴った。息子からだった。夕飯はいらない、と言われたらしい。田辺は、朝言うて、と小さく叱ったあと、少し笑った。電話を切ると、凛に飴を1つ渡した。
「疲れたやろ。初日は、何もしてへんでも疲れる」
凛は飴を受け取った。包み紙には、小さな蜜柑の絵があった。
その日の報告には、社員の勤務実態について書いた。田辺の名前は、必要な範囲だけ記した。子どもの夕飯のことは書かなかった。仕事に関係がないからだと、自分に説明した。実際には、報告書の中へ入れたくなかったのだ。
夜、凛は机の上に飴を置いた。食べればなくなる。残しておけば、借りが残るような気がした。結局、包みを開けた。甘い味が口に広がった。
受け取ったものを食べたからといって、調べるべきことが変わるわけではない。そう考えながら、凛は翌日の予定を確認した。
*
入社して5日目、将吾は凛を車に乗せた。会社の物件を見せると言った。運転手はつけず、自分で運転した。車内には香水の匂いがなく、ダッシュボードの上にも何もなかった。生活の痕跡を置かない人間なのだと、凛は思った。
最初に行ったのは、古い倉庫だった。入口の庇が傾き、雨樋の一部が外れていた。将吾は修理の見積もりを取り、金額を凛に見せた。
「これ、高いと思う?」
「現物見ただけでは分かりません」
「正直やな」
「数字の意味は、工事の内容を聞かな分かりません」
将吾は頷き、管理を任されている男を呼んだ。男は作業服の袖をまくり、図面を持ってきた。将吾は途中で遮らず、最後まで説明を聞いた。凛はその様子を見ていた。人を疑うことに慣れた男が、仕事の話になると、意外なほど相手の言葉を待つ。
帰りの車で、将吾は言った。
「金を使うときは、何が残るか考えるんや」
「建物ですか」
「建物もやけど、仕事した人間に金が残る。そいつがまた、別のとこで使う。金は、置いといたらただの紙や」
凛は窓の外を見た。将吾の言うことは、一部では正しかった。その一部が、ほかの間違いを見えにくくするのだろうと思った。
「何に使うても、同じですか」
将吾は信号で車を止めた。
「同じやない。せやから、使える奴が使うんや」
「使われる側は、選べへんこともありますよね」
将吾は凛を見た。
「篠原さんも、選べんかったんやろ。借金で」
凛は頷いた。偽物の過去が、相手の理屈を支える材料になっていた。
「ここでは、選べるようにしたる」
将吾は車を出した。
凛はその言葉を、約束として聞かなかった。条件として聞いた。選べる場所を与える人間は、取り上げることもできる。
会社へ戻ると、田辺が凛に伝票を渡した。将吾が見せた修理の見積もりとは、別の金額が書かれていた。凛は見比べた。将吾がわざと見せたのか、偶然だったのかは分からない。だが、会社の中には、同じ工事に2つの値段があった。
凛はその差額を手帳に記した。人の言葉ではなく、まず差額を残した。将吾が何を考えているかは分からなくても、数字が違うことは確かだった。
*
入社して8日目、会社で小さな事故が起きた。
複合機のそばに積まれた箱が崩れ、若い社員の足に当たった。大きな怪我ではなかったが、本人は痛そうに顔をしかめた。凛が椅子を持ってくると、社員は大丈夫ですと言い、立とうとした。
「座って。確認してもろたほうがええ」
「これくらいで休んだら、言われるんで」
何を誰に言われるのか、凛は聞かなかった。田辺が冷やすものを持ってきた。松井が車を出すと言った。社員はますます困った顔になった。
将吾が廊下から来た。状況を聞き、病院へ行くよう指示した。声は荒くなかった。だが、社員は何度も謝った。
「謝るんは後でええ。先に診てもらえ」
将吾は言った。凛はその言葉を聞きながら、謝る必要があるのだろうかと思った。箱を積んだのは別の人間だった。置き方を決めたのも本人ではない。それでも、仕事を止めた人間が謝っている。
松井が社員を連れていったあと、将吾は残った箱を見た。
「誰が、ここに積んだ」
周囲が静かになった。凛は、責任を決めるための問いだと思った。だが、将吾は続けた。
「次から置く場所変える。通るとこに置くな」
田辺が頷き、凛も箱を運んだ。中身は古い伝票だった。保存期限の過ぎたものと、まだ残すものが混じっていた。凛は日付を見て、別の棚へ分けた。
その中に、南浪物流の古い請求書があった。現在のものとは様式が違った。運送の内容が、以前は細かく書かれていた。ある時期から、業務委託料という一言に変わっている。
凛はその違いを覚えた。偶然見つけた紙だった。偶然だからといって、意味がないわけではない。だが、怪我をした社員のことより紙のことを考えている自分に気づき、手を止めた。
夕方、社員が戻ってきた。骨に異常はなかったという。凛がよかったねと言うと、社員は、すみませんでした、とまた謝った。
「私には、謝らんでええ」
凛は言った。
「怪我したん、あなたやから」
社員は少し驚き、それから小さく頷いた。名前は岡部といった。凛はその日、初めて下の名前まで覚えた。
夜、報告を作るとき、凛は南浪物流の書式変更を記した。岡部の怪我は、勤務状況の記録として短く書いた。2つの出来事が同じ箱から始まったことは、報告書の上では別々になった。
*
松井鉄二は、会社の外へ出ると急に口数が増えた。
「会長はな、ああ見えて、人の顔をよう見はる」
立ち飲み屋のカウンターで、松井はどて焼きの皿を凛に押した。
「食え。仕事は腹減ってたらできへん」
「いつも会長が採用を決めはるんですか」
「初めてや」
凛は箸を止めた。
「なんで私を」
「それは、わしにも分からん」
松井は瓶のラベルを親指で剥がしかけ、途中でやめた。
「けど、決めたら変えへん人や。そこは安心してええ」
安心という言葉が、こんな場所でも使われることに凛は驚いた。松井は58歳だという。会長の運転手から始めた、と話す声には、経歴を誇る響きも、後悔する響きもなかった。
「篠原さん、家族は」
「いません」
答えてから、凛は遺影の母を思った。
松井はそれ以上聞かなかった。自分の皿に残った大根を、凛の皿へ移した。
「ほな、なおさら食え」
凛は大根を口に入れた。よく味が染みていた。
潜入してから3週間、凛は毎日、同じ時間に出勤した。社員たちは意外なほど普通だった。昼食の値段を気にし、子どもの学校の話をし、コピー機の紙詰まりに腹を立てた。凛は彼らの名前を覚えた。覚えるほど、ここをまとめて悪と呼ぶことが難しくなった。
それでも、帳簿の数字は別のことを語っていた。
毎月25日。振込先の管理欄に、Kという記号があった。3000万円。過去5年、ほぼ同じ周期で続いている。
凛は計算した。18億円。
会社の誰かが18億円を受け取っている。その金を作るために、どこかで誰かが生活を失っている。
画面から目を離したとき、背後に人の気配があった。
「熱心やな」
将吾が立っていた。
いつからそこにいたのか、凛には分からなかった。
「月次の確認です」
「ほう」
将吾は画面を見たあと、机の上の携帯電話へ視線を移した。
「それ、貸して」
凛は指先を動かさなかった。
名字を変えても、手の震えまでは変えられない。
将吾の手が、電話のすぐそばまで来ていた。




