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潜入先は、父の組  作者: ぽむぽむ


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第10章 最初で最後の仕事

手紙の最初には、来るな、と書かれていた。

凛はそこまで読んで、便箋を畳んだ。

「書いて止まる娘やと思ってんの」

声に出すと、少しだけ息ができた。

凛は村瀬へもう1度電話した。松井が倉庫へ連れていかれた時刻と、将吾が指定した午前4時を確かめた。

「別の班が向かっています。長谷部が今、車で出ました」

村瀬は言った。

「神楽さんは、現場に入らないでください」

「父が、1人で行った」

「だから、こっちが行くんです」

凛は目を閉じた。

誰かを信じて待つことが、こんなに難しいとは思わなかった。

「私も近くまで行く。中には入らへん」

「約束してください」

「約束する」

凛は電話を切った。

健太が、凛たちが屋敷から乗ってきた車の鍵を持ってきた。

「俺も行きます」

「危ない」

「会長に、助けてもらいました」

「助けてもらったから、危ないとこ行かなあかんわけやない」

健太は凛を見た。

「神楽さんも、そうですよ」

凛は返事をしなかった。

車が海辺の道を走った。空はまだ暗かった。凛はライターを膝の上に置いた。火をつけるためのものなのに、火をつけたことがない。

父が母を思い出すために持っていたものを、今は娘が父を思い出すために持っている。

思い出になる前に、会いたかった。

*

凛は父の手紙を、倉庫へ向かう車の中で最後まで読んだ。

最初の来るなという言葉のあとに、字が少し乱れた箇所があった。書く手が止まったのだろう。便箋の端に、小さな点がいくつも残っていた。

凛。応接室で初めてお前を見たとき、由紀子が帰ってきたのかと思うた。せやけど、違う。お前は由紀子やない。わしの知らん30年を、自分で生きてきた人間や。

父は、そう書いていた。

凛は便箋から目を上げた。応接室。初めて名前を呼ばれた日だ。

自分が写真を見つけるより前から、剛三は知っていた。

車の窓に、暗い海が映っていた。

由紀子に、わしは何も返せんかった。お前にも、返せるもんは少ない。金は残さん。金で済ませたら、また同じことになる。わしがしたことは、わしの名前で残す。

凛は便箋を持つ手に力を入れた。

父は、将吾のことも書いていた。将吾をそばに置き、外の道を見せなかったこと。役に立つことと、生きていていいことを、同じにしてしまったこと。将吾の罪は将吾のものだが、自分の選択も自分のものだと書いていた。

松井は、長いこと、わしの後ろを歩いた。最後くらい、わしがあいつを迎えに行く。お前には、わしの後ろを歩いてほしない。わしの前に立って、したことを見てくれ。

凛は目を閉じた。

最後の段落は、字が大きかった。

卵焼き、うまかった。焦げたところまで、うまかった。お前が作ったもんを食うた。それは、わしの人生で、間違いなくええことやった。

父は、愛しているとは書かなかった。会いたかったとも、許してくれとも書かなかった。食べたもののことを書いた。

凛はその不器用さに、泣きながら腹を立てた。こんな手紙を残すくらいなら、起こして話せばよかった。父は最後まで、自分で決めた。娘がどう受け取るかを、待たなかった。

「帰ってきてから、怒るから」

凛は声に出した。

健太は前を向いたまま、はい、と答えた。

便箋の最後に、追伸があった。

蜜柑は、まだ酸っぱい。もう少し置いとけ。

凛は手紙を胸に押し当てた。これからの話が、残っていた。

*

午前3時42分、凛は倉庫から1本隔てた道路で車を降りた。

村瀬から、位置を変えるなと連絡があった。隣の健太は、両手を膝に置いていた。

「俺が止めてたら」

「今は、見えたことを教えて。会長が使った車、あれ?」

倉庫の脇に軽自動車があった。健太が頷いた。凛は車の位置を村瀬へ伝えた。

3時51分、別の車が入った。長谷部だった。凛は反射的に顔を伏せ、それから窓の隙間を見直した。

長谷部の手に、薄いファイルがあった。表紙の青いテープに見覚えがあった。合同捜査の資料だった。

「村瀬。長谷部が、捜索に使う資料を持ってきてる」

「記録しました。動かないでください」

4時を過ぎた。倉庫の東側の通用口が開いた。男が1人、外へ出た。坂口だった。電話をかけ、海のほうを見た。

凛は膝の上の資料を開いた。第8光洋丸の入港予定。31日午前3時半。長谷部の報告は、午前6時入港になっていた。

今まで、捜索は荷を押さえるためだと思っていた。

2時間半あれば、荷はここから消える。

「午前5時を待ったら、遅い」

凛は村瀬へ言った。

「父の帳簿だけ残して、荷はもう外へ出すつもりや。港の出入口を、今、見て。帳簿にあった車番を送る」

凛は紙を撮り、送信した。指が震え、1枚目はぼやけた。撮り直した。

坂口が倉庫へ戻った。通用口を閉める直前、奥に父が見えた。杖を持って立っていた。

凛は車のドアへ手をかけた。

健太は何も言わなかった。ドアを開ければ、一緒に降りてくる。その顔だった。

凛は手を戻した。

「村瀬、父が見えた。立ってる」

「こちらも確認します。あと少しです」

電話を切らずに、凛は待った。

*

倉庫の中で、剛三は松井の前に立っていた。

松井は椅子に座らされていた。病衣の上に上着を着せられている。脇腹の包帯が、襟元から少し見えた。

「何しに来はったんや」

「迎えや」

剛三が答えると、松井は顔を背けた。

将吾は机の向こうにいた。いつものスーツだった。ネクタイだけが、緩んでいた。

「1人か」

「お前が、そう言うた」

「篠原は」

「おらん」

将吾は坂口へ目で合図した。坂口は剛三の上着を探り、封筒を抜いた。

「これは何や」

「お前の金の記録や。松井が集めたものもある」

将吾は封筒を開いた。紙をめくる手が、途中で止まった。

「俺を売るんか」

「わしの名前もある。よう見い」

将吾は紙を机へ叩きつけた。

「あいつは警察やぞ。親父を捕まえに来たんやぞ」

「知っとる」

「知ってて、俺の金を調べさせたんか」

「お前に聞いても、答えんかった」

「聞いたか? 薬やめろ、荷を止めろ、それだけやろ。俺がどうやって金を作ってたか、聞いたことあったか」

剛三は杖を両手で持った。

「なかった」

将吾は口を開きかけ、閉じた。

「お前が金を持って帰ったら、助かったと思うた。出どころを聞かんで済むようにした。それは、わしのしたことや」

「ほな」

「せやけど、薬を運ばせたんは、お前や。健太を連れていかせたんも」

将吾の目が松井へ動いた。

「あのガキは、裏切った」

「生きとる」

松井が言った。将吾は振り向いた。

「わしが逃がした。会長の命令でな」

将吾は松井へ近づき、上着の襟をつかんだ。松井が短く息を吸った。

「お前まで」

「将吾」

剛三は杖を床へ置いた。

「わしが話を聞くべきやった。お前がここへ来たときから、ずっとな」

「今さら、父親みたいなこと言うな」

将吾の声が割れた。

「俺は、あんたの息子やなかったんやろ。ほんまの娘が来たら、そっちや。俺は会社回して、金作って、それでも足りへんのか」

剛三は近づこうとして、足を止めた。

「足りんかったんは、わしや」

将吾は松井の襟から手を離した。

「それで、全部済むんか」

「済まん」

長谷部が机の紙を集め始めた。

「話は終わったようですね。松井の身柄は、こちらで預かる」

「お前に渡す話は、してへん」

剛三が言った。

長谷部は手を止めなかった。将吾が渡した紙と、自分が持ってきた資料を重ねた。

「5時には捜査員が来る。あなたが責任を認めた記録があれば、ここでの無用な混乱を避けられる」

「わしの責任は話す。お前の金も、話す」

「何のことです」

「10日に500万。将吾から、弁護士を通して受け取った分や」

長谷部は青いファイルを閉じた。

「誰が、そう説明したんですか」

剛三が答えるより先に、長谷部の電話が鳴った。画面を見た顔から、表情が消えた。

「車を止められた?」

将吾が長谷部を見た。

長谷部は電話を切り、坂口へ言った。

「裏を開けろ」

「あんた、話ついてる言うたやろ」

将吾が机を押した。封筒が落ちた。剛三が拾おうと屈む。坂口が通用口へ走った。

外から、止まれ、という声がした。

長谷部は青いファイルを抱え、正面の扉と松井を交互に見た。胸元へ手を入れたとき、剛三がその手首をつかんだ。

「娘のところへ、行くつもりか」

「離せ」

剛三の指が震えていた。長谷部が振りほどこうとし、2人とも机へぶつかった。

扉が開いた。

捜査員の声が重なった。長谷部は剛三を押しのけ、ファイルを床へ投げた。紙が散った。将吾は動かなかった。

松井が椅子から立ちかけ、膝をついた。

剛三は、落ちた杖に手を伸ばしていた。

*

捜査員が入ったあと、凛は村瀬に呼ばれた。

倉庫の中には、いくつもの人影があった。将吾は離れた場所で確保されていた。長谷部のそばには、監察側の担当者がいた。

松井は救急隊の人に支えられていた。凛を見ると、小さく手を上げた。

「お嬢」

「その呼び方、やめてください」

凛の声が震えた。

松井は笑った。

剛三は椅子に座っていた。凛はそばへ行った。顔色は悪かったが、目は開いていた。

「お父さん」

今度は、言うつもりで言った。

剛三は凛を見た。

その顔に浮かんだものを、凛は忘れないと思った。驚きではなかった。長く待っていたものが、ようやく届いたときの顔だった。

「来るな、言うたやろ」

「聞くわけないやろ」

剛三は少し笑った。

「由紀子に似たな」

「いつから知ってたんですか」

凛は聞いた。

「最初から、分かってたんですか」

剛三は頷いた。

「応接室に座ってた。由紀子と同じ目やった」

「それだけで」

「名前も、凛やった」

剛三は手を膝に置いた。

「昔、女の子が生まれたら凛にする、言うてた。わしは覚えてた」

凛は目を伏せた。

母が自分の名前を決めた。その場に父もいた。30年、自分だけが知らなかった。

「刑事やってことも」

「確かめたわけやない。けど、長谷部が何を使うかは、想像できた」

凛は剛三の手を見た。

「分かってて、そばに置いたんですか」

「ああ」

「どうして」

剛三は答える前に、長い息をした。

「一緒に飯が食えた」

凛は顔を上げた。

「それだけで、十分やった」

凛は首を振った。

「十分やないです」

剛三は黙った。

「私は、まだ足りへん。30年、知らんかったんです。3か月で十分なんて、言わんといて」

剛三は凛を見ていた。

「そうやな」

小さな声だった。

「わしが、決めることやなかった」

凛は泣いた。泣きたくなかったが、止められなかった。剛三は手を伸ばしかけ、途中で止めた。

凛はその手を取った。

「触ってええんです」

剛三の指が、凛の髪に触れた。

不器用な手だった。

*

父のそばへ、担当の捜査員が来た。

長谷部が置いた資料とは別の書類を持っていた。三輪製作所から継続して金を受け取った恐喝事件について、身柄を確保するためのものだと説明した。

凛は椅子から少し離れた。自分が集めた資料にも、その事件の支払いがあった。森下の会社とは別の、古い取引先だった。

「わしを、捕まえたらええ」

剛三は凛へ両手を出した。

凛は手を伸ばさなかった。

「担当の方が、します」

「お前の仕事やろ」

「私の仕事は、見たことを話すことです。お父さんの分だけ、抜いたりせえへん」

剛三は手を下ろしかけた。

「私がかけたら、父親として何か返せたことにせんといて」

言うつもりのなかった言葉だった。剛三は凛を見た。凛は目を逸らさなかった。

「生きて、話してください。私の知らんことを」

剛三はゆっくり頷き、担当者へ向き直った。手首に手錠がかかった。

凛は父の名前を確かめられた。

「龍崎剛三です」

声は、思っていたよりはっきり出た。

午前5時。開いた扉から、港の朝の光が差した。

*

倉庫を出たあと、凛は別の車へ乗せられた。

父と同じ車には乗れなかった。治療のための移動と、凛への確認は別に進める必要があると言われた。凛は頷いた。頭では分かっていた。だが、父の姿が車の向こうへ消えると、追いかけたくなった。

村瀬が隣に座った。しばらく何も話さなかった。凛は窓の外を見た。朝の道を、通勤の車が走っていた。店のシャッターが上がり、新聞を抱えた人が歩いていた。

「手、見せてください」

村瀬が言った。

凛は両手を見た。細かな傷があった。いつできたのか分からなかった。村瀬は、あとで診てもらいましょう、と言った。

「父は」

「担当がついてます」

「分かってる。分かってるけど」

凛は言葉を止めた。村瀬は、分かってるだけでは落ち着かないですよね、と言った。

凛は頷いた。

建物へ着くと、古川が待っていた。凛は初めて顔を見た。電話で聞いた声より、少し若く見えた。古川は名乗り、まず休む場所へ案内した。

「確認はします。ただ、今すぐ全部話してもらうつもりはありません」

凛は椅子に座った。机に水と、簡単な食べ物が置かれていた。食べる気はしなかった。だが、父の手紙を思い出し、小さなパンを手に取った。

古川は、凛が食べ終わるまで待った。それから、これからの扱いについて説明した。凛は途中で何度も質問した。自分が話したことを誰が読むのか。父の件と自分の件を、誰が分けて判断するのか。答えられない部分もあったが、古川は、分からないことを分からないと言った。

「君の判断が全部正しかったとは、私は思っていない」

古川は最後に言った。

「でも、君が危険を訴えたことを、感情の問題だけで片づけるつもりもない」

凛は顔を上げた。

「私が父を好きになったことは、記録に残りますか」

古川は少し考えた。

「判断に影響したなら、残す必要がある」

「影響しました」

凛は言った。

「それを隠して、全部仕事やったことには、したくありません」

古川は頷き、メモを取った。凛はその手を見た。自分の言葉が、誰かの解釈に変わる瞬間だった。怖かった。だが、記録を拒めば、また自分だけの物語になる。

最初の確認が終わると、凛は小さな部屋で休んだ。ベッドに横になると、体が急に重くなった。眠れば、父がいなくなるような気がした。だが、目を開けていても、父のそばにはいられない。

凛はライターを枕元に置いた。持ち込んでよいものとして確認を受けた、小さな私物だった。蛍の文字を見てから、目を閉じた。

夢は見なかった。

*

目を覚ますと、午後だった。

村瀬が廊下で待っていた。父の治療が始まったこと、松井も診てもらっていること、健太が保護を受けながら話をしていることを伝えた。凛は1つずつ聞き、1つずつ頷いた。

「私だけ、寝てた」

凛が言うと、村瀬は首を振った。

「寝る必要があったんです」

「みんな、まだ」

「神楽さんが寝なかったら、誰かが楽になるわけじゃない」

凛は黙った。村瀬の言葉は、少し厳しかった。だが、その厳しさは、凛を仕事へ戻すためではなく、休ませるためのものだった。

凛は水を飲んだ。喉が渇いていたことに、ようやく気づいた。

「ありがとう」

村瀬は、はい、と答えた。

そのあと、凛は自分の持ち物を確認した。手帳、財布、電話、母の写真。篠原凛のために用意されたものと、神楽凛のものが、同じ袋に入っていた。

返すものを分けると、机の上が少し空いた。篠原凛の生活が、終わろうとしていた。

凛は偽物の名字が書かれた書類を見た。その名前で呼ばれたときの田辺の声、健太の声、松井の声が浮かんだ。偽物の名前でも、呼んだ人の気持ちは偽物ではなかった。

凛は書類を担当者へ返した。手放すとき、少しだけ指が止まった。

*

田辺と再会したのは、11月の半ばだった。

会社の机ではなく、聴取のために用意された部屋だった。凛は担当者ではなかった。田辺が、1度だけ本人と話したいと求め、必要な確認を経て、短い時間が設けられた。

田辺は凛を見ると、篠原さん、と呼んだ。それから、違うんやったね、と言った。

「神楽凛です」

凛は名乗った。田辺は頷いた。

「下の名前は、ほんまやったんや」

「はい」

田辺は椅子に座った。鞄を膝に置き、持ち手を両手で握った。会社では、こんなふうに鞄を持つところを見たことがなかった。

「息子に、話したよ」

田辺は言った。

「会社のこと。警察が来たこと。私が何してたか」

凛は黙って聞いた。

「怒られた。何で今まで言わんかったん、って。せやけど、最後まで聞いてくれた」

「そうですか」

「私、あの子のこと、子どもやと思うてた。もう、私の話を聞ける年やったんやね」

田辺は少し笑った。凛は母の作文を思い出した。お母さんも聞いてもらおう。母が待っていた時間を、田辺は息子と持てた。

だが、凛はそれを自分の手柄のように思ってはいけなかった。田辺は自分で話した。息子も、自分で聞いた。

「私に、聞きたいことがあるんですよね」

凛が言うと、田辺は頷いた。

「私が話したこと、どこまで仕事やったん」

凛は膝の上の手を見た。用意した答えはあった。捜査上必要な情報と、私的な会話は区別していた。だが、その言い方では、田辺の問いに答えていない。

「最初は、会社を知るために聞いたこともあります」

凛は言った。

「でも、田辺さんの息子さんの話を聞いたとき、会社の情報だけを聞いてたわけではありません」

「その違い、私には分からんよ」

「はい」

凛は頷いた。

「私が決めて、分けたことです。田辺さんには、選べませんでした」

田辺は黙った。凛も黙った。謝れば、この時間を早く終えられるかもしれない。

「腹立つよ」

田辺は言った。

「はい」

「でも、あんたが来てから、私も、分からんまま処理してたことを、見直した。それは、ほんまや」

凛は顔を上げた。

「どっちもある。腹立つんと、来てくれてよかったんと」

田辺は鞄を持ち直した。

「せやから、今すぐ仲よくせえって言われても、できへん。でも、あんたが聞いてくれた話を、全部嘘やったことにも、したない」

凛は頷いた。

田辺は帰る前に、小さな袋を机に置いた。会社の机に残っていた、凛の私物だった。飴と、使いかけの付箋と、安いハンドクリーム。

「勝手に捨てるんも、違うと思うて」

凛は礼を言った。田辺は、礼はええ、と答えた。

「次に会うときは、最初から神楽さんで来て」

凛は、はい、と答えた。

田辺が出ていったあと、凛は袋を開けた。蜜柑の飴が1つ残っていた。食べるまで、少し時間がかかった。

*

森下夫妻からの話は、別の担当者が聞いた。

龍星興産の仕事が止まり、運送会社は別の取引先を探していた。未払いの確認にも、時間がかかった。妻から届いた伝言は、短かった。渡した紙が、ちゃんと届いたと分かってよかった。

久保からも手紙が来た。小さな会社の経理として働き始めたという。田辺に、資料を残してくれてありがとうと言うと、捨てる勇気がなかっただけや、と返された。その勇気のなさに助けられた、とあった。

凛は返事を書いた。封筒に神楽凛と書き、ポストへ入れた。

*

健太が妹と会う日は、凛も近くまで行った。

同席はしなかった。兄妹が何を話すかを、仕事として聞く必要はなかった。健太は病院の入口で何度も鞄を開けた。手紙と、棚の図面が入っていた。

「変なこと言うたら、どうしよう」

健太は言った。

「変なこと言うたら、言い直したらええ」

凛は答えた。

「1回で、全部うまく話さんでも」

健太は頷いた。少し前、自分が同じことを言われたのを覚えているようだった。

凛は待合の椅子に座った。窓の向こうに、木があった。健太が見せてくれた写真と同じ木かは分からなかった。葉が少なくなり、枝の形が見えた。

1時間ほどして、健太が戻ってきた。泣いたあとの顔だった。凛は立ち上がらず、隣の席を空けた。健太は座り、しばらく黙った。

「怒られました」

やがて言った。

「何て」

「自分のためやって言わんといて、って」

凛は黙って聞いた。

「私が頼んだんちゃう、って。お兄ちゃんが決めたことやろ、って」

健太は膝の上で手を握った。

「そのとおりやと思いました」

凛は頷いた。妹のためにしたことが、妹にとって重荷になる。守ろうとした人間の人生へ、借りを置いてしまうことがある。

「でも、帰ってきてよかったって、言うてくれました」

健太は目を拭いた。

「怒ってるのに、よかったって。両方言うてました」

「両方、あるんやと思う」

凛は答えた。

健太は鞄から図面を出した。妹が赤いペンで、棚の高さを直していた。高すぎると届かない、と書かれていた。

「俺、妹のための棚やのに、自分の手が届く高さで考えてました」

健太は少し笑った。

凛も笑った。

病院を出ると、健太は自分のしたことについて、これからも話すと決めたと言った。結果がどうなるかは、まだ分からない。凛は、その不安を消すようなことは言わなかった。

「相談する人は、決まった?」

「はい。説明、ちゃんと聞きました」

健太は答えた。

凛は頷いた。自分が全部を引き受ける必要はない。引き受けないことが、見捨てることになるわけでもない。

別れ際、健太は、缶コーヒー、まだ持ってますか、と聞いた。

「持ってる」

「飲んでください。俺、もう生きてるんで」

凛は驚き、それから笑った。涙が出そうになった。

「分かった」

その夜、凛は缶を開けた。長く机に置いていたコーヒーは、特別な味ではなかった。少し苦く、普通の味だった。

凛は最後まで飲み、缶を洗った。捨てるまで、少し迷った。だが、健太の言葉を思い出し、分別の袋へ入れた。

*

長谷部の説明を、凛が直接聞くことはなかった。

古川が、確認できたことを段階を追って知らせた。長谷部へ渡った金は、最初の帳簿のHだけでは確定しなかった。日付の合わないものもあった。弁護士の事務所に残った出金記録と、連絡の履歴、それぞれの説明を突き合わせ、送られた金の一部が長谷部へ渡った経路が見つかった。

長谷部は、港の取引を見逃す代わりに、将吾から情報を受けていた。検挙できる末端の事件を選び、その成果を報告した。黒田につながる金は、調べが届く前に外へ逃がされた。

剛三が将吾の金を調べ始めると、仕組みが壊れかけた。長谷部は会長の関与を示す資料を揃え、10月31日に剛三を確保する計画を進めた。入港時刻を遅らせた報告も、そのためだった。薬と金を先に動かし、残した帳簿で事件を閉じるつもりだった。

「私を入れたのは、何でですか」

凛は聞いた。

「剛三を動かせると考えた。それが本人の説明だ。娘なら、病気の会長が最後に何を残すかに触れられると」

「私が見つけたら、自分も捕まるのに」

「資料が君からどこへ行くかは、自分が決められると思っていた」

凛は、何度も長谷部へ送った報告を思い出した。返信のなかった夜もあった。長谷部は読まなかったのではない。自分に届くことを、頼みにしていた。

「正体を流したのは」

「連絡の記録が見つかっている。将吾へ渡した写真の出どころも確認した。君が離脱すれば、会長側で何を調べたかを聞き出せなくなる。接触を急がせた、と説明している」

「急がせた」

凛は繰り返した。松井のシャツの色を思い出した。

古川は返事を急がなかった。

しばらくして、凛は母のことを聞いた。

「母を助けたんは、ほんまなんですか」

「当時の記録と、関係者の説明はある。支援した部分はある」

凛は目を伏せた。母は、信じる理由のある人を信じた。そのことまで、間違いにしたくなかった。

古川が示した説明の中には、母の名前があった。神楽由紀子。凛はその名前を読み、紙を返した。

廊下では村瀬が待っていた。

「入港時刻のこと、助かりました。倉庫から出た車に、捜査班が追いつけたそうです」

「私だけで分かったことちゃうよ」

「分かってます。久保さんの問い合わせと、田辺さんの台帳があったからです」

凛は頷いた。村瀬が1人ずつ名前を言ったことが、嬉しかった。

*

凛への聴取は、長谷部への調べとは別に続いた。

撤退命令を受けた時刻。父を連れ出した判断。居場所をすぐに伝えなかった理由。同じ質問を違う順番で聞かれると、凛は、自分の話したことまで疑わしく感じた。

「父親でなければ、同じ判断をしましたか」

担当者はペンを止めた。

「同じ危険があれば、守ろうとはしたと思います。でも、同じ時間、そばにおったかは、分かりません」

「父親だから、離れられなかった」

「それも、あります」

凛は机の縁に手を置いた。

「情報が漏れていると疑った理由も、残してください。父のことと、両方」

担当者は、手帳を見せてくださいと言った。凛は渡した。父と書いてから龍崎剛三と直したページが、開かれた。

聴取の帰り、村瀬に、仕事へ戻りたいと話した。村瀬はすぐに頷かなかった。

「俺にも、決められないです。でも、次に組んだら、定時の連絡は守ってください」

「怒ってる?」

「怒ってます」

凛は俯いた。村瀬は、その返事を取り消さなかった。

*

父への最初の返事は、書き直しが多かった。

凛は便箋に、元気ですか、と書き、消した。元気ではないことを知っている。治療はどうですか、と書き、また消した。病気のことだけを話したいわけではなかった。

結局、今日、雨が降りました、と書いた。小屋の屋根の音を思い出したこと。東京の部屋の窓は、小屋より静かなこと。母の記念誌を読み直したこと。仕事のことは、書ける範囲だけにした。

最後に、聞きたいことがあります、と書いた。

私が生まれたことを、いつ知りましたか。

その1行を書くまでに、便箋を3枚使った。

返事は、1週間ほどして届いた。父の字は前より少し細かった。凛が生まれたことは、由紀子からの短い連絡で知ったという。日付と、元気な女の子だということだけが書かれていた。名前は、後から松井が聞いた。

会いに行かなかった理由について、父は、由紀子との約束だったと書いた。だが、そのあとに、別の1行があった。

約束を理由にして、怖がっていたんやと思う。

凛はその文を何度も読んだ。何を怖がったのかは、書かれていなかった。拒まれることか。自分が父親だと知られることか。会えば、離れられなくなることか。

凛はすぐに返事を書いた。何が怖かったんですか、と聞いた。

父は、全部や、と答えた。

短い答えだった。凛は腹が立ち、同時に、少しだけ父が近くなった気がした。会長の判断ではなく、1人の人間の怖さだった。

次の手紙で、凛は、自分も怖かったと書いた。父が誰かを知ること。父を知って、自分が変わること。母が隠したことを知って、母を嫌いになること。

書いてから、母を嫌いになるという言葉を消そうとした。だが、消さなかった。嫌いになりたくなかったから、怖かった。その気持ちまで隠せば、また、いい娘の顔だけになる。

父からの返事には、由紀子を責めてもええ、とあった。その次に、わしのことは、もっと責めてええ、と書かれていた。

凛は少し笑った。責める量まで、父が決めようとしている。

返事に、私が決めます、と書いた。

その手紙のあと、父から、そうやな、とだけ返ってきた。

短い手紙を、凛は母の写真の横へ置いた。会話は、こんなふうに続くのかもしれなかった。大事なことを1度に話し、分かり合うのではない。言いすぎて、言い直し、相手の返事を待つ。その時間が、少しずつ関係になる。

*

冬の面会が認められる前に、松井から電話があった。

自分も話をしている、と言った。剛三のしたことだけでなく、自分が関わったことも説明しているという。凛は、体はどうですか、と聞いた。松井は、口は動く、と答えた。

「それだけやったら、前と同じですね」

凛が言うと、松井は笑った。

しばらくして、松井は声を落とした。

「会長な、あんたの本、読んでる」

「本?」

「子どものころ、好きやった本や。頼まれて、探した」

凛は、小屋で書いた紙を思い出した。父は持っていたのだ。

「難しい言うてる。字が小さいって」

「子どもの本やのに」

「目ぇ悪いからな」

凛は笑った。父が、知らない子どもの話を読んでいる。その中に、幼い凛がいたわけではない。だが、凛が好きだった頁を、父もめくっている。

松井は、会長が読み終えたら感想を聞いたってくれ、と言った。凛は、分かりました、と答えた。

「松井さん」

電話を切る前に、凛は呼んだ。

「私、父がしたこと、知りたいです。私に優しかった話だけやなくて」

松井は黙った。

「会長から、聞くんやないんか」

「父からも聞きます。でも、父が覚えてることだけでは、足りへんと思うので」

松井は長く息を吐いた。

「分かった。話せることは、話す。せやけど、わしの言うことも、会長に都合ようなってるかもしれん」

「それも、分かって聞きます」

松井は、ほんまに厳しい娘やな、と言った。凛は、厳しくしたいんやない、と答えた。

「知らんまま、好きやったことにしたくないんです」

松井は、そうか、と言った。

その後、松井は何度か、自分が知っている昔の話をした。凛は聞いた。苦しい話もあった。父の名前を聞くたび、胸が縮んだ。だが、途中でやめなかった。

聞き終えたあと、凛は父へ手紙を書いた。松井から聞いたことを、どこまで父が覚えているか尋ねた。父は、覚えているものと、覚えていないものを分けて答えた。覚えていないことを、していないとは書かなかった。

凛はその返事を、仕事の資料とは別に置いた。娘として受け取ったものでも、必要なことは担当者へ伝えた。父にも、そうすると書いた。

父は、分かってる、と答えた。

初めて、その言葉が、話を終わらせるためではなく、続けるための言葉に聞こえた。

*

将吾は、あの茶碗を捨ててくれと父へ伝えた。

父は残したいと返した。長いあいだ返事はなく、やがて、好きにしたらええ、とだけ届いたという。

凛は将吾へ手紙を書こうとした。うどん代を返していないこと。父が仕事以外の話をしようとしたこと。書き始めると、どれも父を分かってほしいという頼みになった。便箋を引き出しへ戻した。

父からは、将吾に謝ったと知らせがあった。返事はまだない、と結ばれていた。

*

年が明け、凛に処分が伝えられた。離脱と報告に関する命令違反は、長谷部の不正が判明しても消えなかった。戒告を受け、潜入の任務からは外れた。

復帰後の配属先が決まるまで、凛は残った報告を仕上げた。

剛三の治療も続いた。

凛が面会に行けるようになるまで、時間がかかった。その間、父から短い手紙が届いた。

飯を食え。

それだけの手紙もあった。

凛はその手紙を、母の写真のそばに置いた。

1月の終わり、凛は剛三の病室へ行った。

父は、初めて会った日よりずっと痩せていた。窓の外には、白い空が広がっていた。

「また来たんか」

「有給です」

「刑事は暇なんか」

「暇やないです」

凛は椅子に座った。

卵焼きの話をした。前より焦がさずに作れるようになった、と言うと、剛三は残念そうな顔をした。

「焦げたとこ、あってええんや」

「普通は、ないほうがええんです」

剛三は笑った。

凛は父の手を取った。以前より軽かった。

「お父さん」

「ああ」

「お父さん」

剛三は凛を見た。

「何べん呼ぶねん」

「足りへんので」

剛三は目を閉じた。少しして、開いた。

「そうやな」

凛は手を握ったまま、しばらく何も言わなかった。

沈黙を、隠しごとにしなくていい時間だった。

父は、その冬を越せなかった。

最後に窓の外を見て、きれいやなあ、と言ったと、凛は後で聞いた。

母と同じ言葉だった。

同じものを見ていたのかは、分からない。

分からないことを、無理に答えにしなくてもいいと思えるまで、凛には時間が必要だった。

*

春、凛は母の墓へ行った。

近くに、父のための小さな墓ができていた。松井が花を持ってきた。健太は新しい仕事の休みを取って来た。妹は少しずつ生活を取り戻している、と健太は話した。

「会長、蛍ちゃんのそばがええ言うてた」

松井は花を置いた。

「お嬢、よう手配してくれた」

「お嬢はやめてください」

「ほな、何て呼んだらええ」

「凛でええです」

松井は照れたように鼻を擦った。

「凛」

初めて呼ぶ名前のように、ゆっくり言った。

凛は墓の前に立った。

父が何をしたかを、忘れない。

父と何を食べたかも、忘れない。

どちらかだけを残せば、父ではなく、自分に都合のいい人間になってしまう。

凛は銀色のライターを取り出した。蛍の文字を、親指でなぞった。

母の箱は、もう閉じていなかった。

カーディガンは洗って、引き出しに入れた。写真は額に入れた。通知表は、少し笑いながら読んだ。

父の手紙も、同じ引き出しに入れた。

遺品は、開けたあとも遺品だった。だが、開けられないものではなくなった。

その日の夕方、凛は捜査第二課の机に戻った。村瀬も、同じ班への異動が決まっていた。

村瀬が新しい資料を持ってきた。

「神楽さん」

凛は顔を上げた。

「無理はしないでくださいね」

「それ、毎回言うん」

「毎回言います」

凛は資料を受け取った。

表紙には、まだ知らない人の名前があった。

凛はその名前を読んだ。

誰かの父かもしれない。誰かの子かもしれない。誰かにとって、帰ってきてほしい人かもしれない。

そのことを知っている刑事でありたかった。

「行こか」

凛は立ち上がった。

胸ポケットには、蛍のライターがあった。

父の顔を、凛は知らなかった。

今は、知っている。

甘い卵焼きを食べるとき、少しだけ目を閉じる顔だった。

了


『潜入先は、父の組』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この物語で描きたかったのは、大切な人の過ちを知ったあと、その人とどう向き合っていくのか、ということでした。父を知らずに育った凛は、刑事として追うべき相手の中に、ずっと知らなかった父の顔を見つけます。知りたいと思う気持ちと、知るのが怖いという気持ち。その両方を抱えたまま進む彼女の時間に、最後まで寄り添いたいと思いました。


剛三が娘に見せた優しさは、彼の罪を消してはくれません。それでも、共に食卓を囲んだことや、短い手紙を待ったことまで、なかったことにはできない。凛にとって父を知るとは、その二つを引き受けることでもありました。


また、将吾や健太、松井たちも、それぞれの場所で誰かを大切にし、その思いゆえに間違えています。「相手のため」という言葉には、ときに相手の声を聞かずに済ませてしまう怖さがあります。だからこそ、言い直すこと、返事を待つこと、自分の責任を認めることを、この物語の中で大切にしました。


甘い卵焼きや、少し焦げた端、何げない「飯を食え」の一言。家族の記憶は、そんな小さなものに宿るのかもしれません。失われた年月は戻らなくても、今日交わす言葉が、これからの関係を変えることはある。そのささやかな可能性が、凛を支えたのだと思います。


本を閉じたあと、凛と剛三が囲んだ食卓の風景が、皆さまの心に少しでも残れば幸いです。

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