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董卓伝暴狼記  作者: サトウロン
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九十五、黄巾の乱

 光和7年(184)。

 中国史に残る大乱がついにその幕を開けた。


 冀州鉅鹿郡に住まう張角なる者は近在の者らを集め、呪いや符水での病の治療などを行い支持を集めていた。

 やがて、それは冀州に広まり、また周辺の州でも影響力を持つようになっていった。

 汚職や暴政で困窮する民衆を大いに取り込んだそれは、太平道という宗教集団へと発展した。

 約三十六万人という信徒を得て、2月ついに張角は兵を挙げた。


 史書には彼らの声明がこう残っている。

 蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉。


 蒼天すでに死す。

 黄天まさに立つべし。

 歳は甲子にあり。

 天下は大吉となる。


 蒼天とは青い空のことであるが、中華では天帝のことを指すと言われる。

 すなわち、漢帝国に天命を与えていた天帝はもう死んだ。

 漢帝国がこの中華世界を治める理由は無くなったと一行目で説いている。

 その死んだ蒼天に代わって今度は、五行思想で言うところの土徳の色である黄色い天が新たにこの世界に立つのだと二行目で言っている。

 漢帝国は火徳とされ、五行思想で火の次は土と決まっている。

 三行目の甲子は干支の組み合わせの一番初めを意味し、全てが改まるとされ、新たに天命を受けた者が現れるとも言われる。


 つまり太平道は漢帝国はもう終わり、新たな世界が中華に誕生しようとしている、と宣言したのだ。

 その新たな世界の色である黄色。

 その色の布を頭に巻いた彼らは黄巾、または黄巾賊と呼ばれ、この乱は黄巾の乱と後世呼ばれることになる。


 張角は天公将軍を称し、弟の張宝が地公将軍、張梁が人公将軍として各地を襲いはじめた。

 漢帝国十三州の内、八州で黄巾は兵を挙げ、各地の郡県を攻めていく。


 もちろん漢帝国もただ座していたわけではない。

 3月には討伐軍を組織し、対抗をはじめた。


 この時、漢帝国の軍事責任者は平時は三公の一つ大尉が、有事の際は大将軍が担っていた。

 そして現在の大将軍は何進かしんという男である。

 何進、字は遂高。

 荊州南陽郡宛県の出身で、元は肉屋である。

 肉屋とはいえ、何進は大きな勢力を持っていた。

 同郡出身の宦官に賄賂を渡し、妹を後宮に入れるぐらいはできる。

 単なる商人ではなく、豪族と呼ばれるくらいの実力を持っていたと思われる。

 その何進が、それなりの力はあったとはいえ名家でもないものが帝国の軍事の最高位についている理由は外戚だから、である。

 皇帝の配偶者の一族が外戚であるが、何進の妹が皇帝劉宏の皇后となったのだ。

 妹が光和3年(180)に皇后となると何進も一気に出世した。

 彼女が後宮に入ってから郎中になり、近衛である虎賁中郎将、頴川太守、立后されてからは侍中、将作大匠、河南尹と歴任した。

 そしてこの乱である。

 大将軍を拝命した何進はすぐに動いた。

 洛陽の防備を整え、軍備を揃え、帝国内に潜んでいた黄巾の密偵を捕らえた。

 どさくさに紛れて、でもないだろうが党錮の禁を解いた。

 十年以上も敷かれていた禁を解き、長く朝廷より離れていた清流派と呼ばれていた名のある人々を登用した。

 討伐軍の人選も、皇甫嵩こうほすう朱儁しゅしゅん盧植ろしょくを中郎将に任命した。


 皇甫嵩は涼州安定郡の生まれで、かつて涼州三明と言われた英傑で段熲、張奐とならび称された皇甫規こうほきの甥である。

 若い頃より文武に優れ、議郎、北地太守となった。

 また、何進に党錮の禁の解除、皇族の私財を放出し軍備を整えることを進言した。

 そして、左中郎将に任命され豫州方面へ出陣した。


 朱儁は揚州会稽郡生まれ、貧しい家に生まれたが持ち前の才知で郡に登用された。

 ある時、上司の郡太守が賊討伐に失敗し処刑されそうになった時、密かに洛陽に赴き、交渉し死刑を撤回させたことがあった。

 この時、処刑されそうになった会稽郡の太守が、かつて董卓と共に戦った尹端いんたんであった。

 その後は賊徒討伐に功があり、諫議大夫に任じられている。

 右中郎将となり、皇甫嵩と共に豫州方面へ向かうことになる。


 盧植は幽州涿郡の人で、古今の識に通じ、剛毅で清廉な性格だったという。

 諸郡の登用を断り続けていたが、九江郡にて反乱が起きると請われて太守となり乱を治めた。

 郡が平和になると太守を辞した。

 このように権威を求めぬ人格であったが、その才覚を欲した朝廷に登用され尚書となった。

 こたびの乱が起きると北中郎将に任命され、黄巾の本拠地である冀州方面へ出陣した。


 いくら数が多く、挙兵の範囲が広くとも黄巾賊はやはり民が中心であった。

 その中には後に武将として名を挙げる者、侠客として名の知れた者、盗賊団の首領などが加わっていた。

 しかし、何進と漢帝国の軍事の中枢は事態を重く見て漢帝国の本気を出してこれに当たった。


 五月、豫州の長社にて最大規模の黄巾賊と激突した皇甫嵩は火計を用いて黄巾を破った。

 逃亡した黄巾の将である波才はさいを合流した騎都尉きとい曹操そうそうと共に斬った。

 六月にはもう一人の黄巾の将の彭脱ほうだつを倒した。

 また黄巾の別動隊を豫州刺史の王允おういんが破り、豫州は平定された。


 朱儁ははじめ黄巾の大軍に敗走したが、同郡出身の水賊討伐で名を馳せた孫堅そんけんを登用したことで勝利を重ねていく。

 黄巾の趙弘ちょうこうの策で朱儁の更迭の噂が流されたが趙弘を斬ることでその策を止める。


 豫州荊州方面では勝利を重ねる帝国軍であったが、問題は北方で起きていた。


 北方である冀州方面は黄巾賊、いや太平道の発祥の地である。

 そこには太平道の道主である張角がいる。

 そのため、この方面の黄巾賊は精鋭が集まっていた。


 そこに派遣された盧植はしかし連勝を重ね、ついには張角の籠る広宗の城を取り囲むところまでいった。

 そこまでは良かった。


 朝廷より軍の監察に左豊さほうという宦官が派遣された。

 宦官、監察と来たら次に来るのは賄賂である。

 もう宦官たちは自分たちが賄賂をもらうのは当たり前、と思っている。

 しかし、盧植は権威を求めることのない清廉な人物である。

 賄賂はもとより、宦官自体を賎しいものとして扱った。


 かつて涼州で宦官への賄賂を突っぱねた張奐はその後失脚し、後に復職したものの軍事関係にはついに就かずに数年前に亡くなっている。


 盧植に待っていたのも同じだった。


 洛陽に戻った左豊は「盧植はすぐに落とせる城を取り囲むだけで攻めようとしない」と讒言した。

 任命した何進はそれはありえぬ、と言ったが皇帝は宦官の言を信じ怒りを露にした。

 盧植は軍権と官職を剥奪され、檻車に乗せられ収監された。


 後に盧植は共に戦った皇甫嵩に名誉を回復してもらい許され尚書に復職した。


 さてそうなると悩むのは何進である。

 盧植は実力は確かで、戦績も素晴らしい。

 冀州方面の黄巾賊は討伐間近なのは間違いない。

 まあ、盧植が居なくなったことで黄巾は盛り返しつつあるが。

 すぐにでも同じくらいの実力者を送り込む必要がある。

 しかし、何進自身に手駒は少ない。

 皇甫嵩、朱儁、盧植を動かしただけでもほぼ全てだ。


 それも宦官と安定した関係が築ける者。

 そんな奴がいるのか、と悩んでいた何進はふと気付いた。


 そういえば涼州と并州で名を馳せた豪傑がいるはずだ。

 ここ十年あまり野に伏しているが段熲、張奐から名を聞いたことのある男。


 彼は今どこにいる?


 調べるとすぐにわかった。


「河東太守!すぐ近くにおるではないか!」


 新たに黄巾討伐に抜擢された将。

 その名は董卓といった。

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