表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
董卓伝暴狼記  作者: サトウロン
91/168

九十一、霊帝即位

 後漢王朝第十一代皇帝劉志は、年の暮れ12月28日に亡くなった。


 後宮に多くの妻妾をおいていたが、ついに男子は無く漢の皇帝の位は別の血筋のものに渡ることになった。

 既に高祖劉邦の直系はなく、また後漢を開いた光武帝劉秀の血統も枝分かれしていた。

 新たに皇帝として選ばれたのは河間王の血筋の劉宏りゅうこうという少年だった。

 劉家の末裔であり王の血筋といえど困窮しており、劉宏自身も貧しい暮らしをしていたのだという。


 桓帝の最後の皇后であった竇妙とうみょう、その父であり大将軍の竇武とうぶ、太尉の陳蕃ちんばんが彼を擁立した。


 男子無く没した皇帝の後継ぎを決めるのに彼らはかなり尽力したと見える。

 年明けて一月二十五日には劉宏が即位した。

 わずか一月足らず、それも正月を挟んでのそれは漢帝国の焦りが見てとれる。

 冬前には涼州の羌族の乱が起こったばかり、党錮の禁によって朝廷の中は分断され、権力を持つ宦官はまさに獅子身中の虫。

 そんな中で帝国の中心たる皇帝が不在の期間など長期化させるわけにはいかなかったのだ。


 その焦りが、中枢にいた彼らの目を曇らせたか。

 劉宏はまごうことなく暗愚であった。


 即位したばかりの彼はもちろん政治などわかるはずもなく、権力は皇太后の竇妙が握ることとなった。

 実際に振るうのは大将軍の竇武である。


 その竇妙は苛烈な人物であったようだ。

 桓帝は別の女性を皇后にしたいと思っていたようだが、身分の差からその女性ではなく竇妙が皇后となった。

 桓帝からは快く思われていなかったようで、半ば無視に近い扱いを受けていたらしい。

 そして桓帝の死後、その棺の前で竇妙は桓帝の寵愛を受けていた女性を暗殺した。

 続けざまに他の桓帝の愛妾を害しようとしたが、宦官に止められた。

 その苛烈さは宦官すら戸惑わせるものだったらしい。


 そのような性格であるため、劉宏は皇太后となった竇妙を苦手としていた。

 必然的に、彼の相談相手は宦官に向かうことになる。

 なにせ、世話係として日夜側に控えているのだから。

 徐々に、権力は皇太后側から宦官側に傾きつつあった。

 宦官としても、劉宏の関心が向いてくるのは歓迎するところだった。

 そもそも宦官の権力の握りかたは、幼い皇子の頃から世話をすることで何でも言うことを聞くように教育することだ。

 しかし、桓帝は男子を残さなかったため、その機会が無かった。

 宦官が桓帝の御代から権力を持っていたこと、竇皇太后が苛烈であったこと、そして劉宏が暗愚であったこと。

 それらが相まって、宦官へ権力が集中していくことになるのだった。


 そうなると面白くないのは竇皇太后と大将軍竇武だ。

 劉宏は(自分たちが擁立したのに!)こちらを避けるようになっていき、宦官がその周りをうろつき始める。

 実務的なことはまだこちらで差配できているが、内向きのことは宦官の意見が挟まれてくる。

 それはもういやらしいほどに少しずつ、しかも見えないように。


 我慢の限界だった。

 大将軍竇武と大傅たいふの陳蕃は決意した。


「宦官除くべし」


 竇武という人物はその名とは違い、武ではなく文の人であった。

 若い頃から学問を修め、教授したという。

 娘が桓帝の後宮に入り、皇后になってからはますます慎みを深くし、驕りたかぶることのないように心がけたという。

 また数年前の清流派投獄の事件(第一次党錮の禁)では、自らの進退をかけ、桓帝を諫め、禁を解くことに成功している。


 また陳蕃も清流派でありながらのしあがった人物だ。

 その能力を跋扈将軍と呼ばれた梁冀に評価され、召し出されたがその使者を殺してしまったのだという。

 梁冀は怒り、陳蕃を左遷してしまったらしい。

 だが彼自身の才覚で尚書についたが、諫言が多く豫章太守へ左遷。

 まもなく、尚書令に復帰。

 九卿の一つである大鴻臚だいこうろと昇進するも桓帝の不興を買った者をかばって免職となった。

 その後、また九卿の光禄勲こうろくくんとなったが権力者におもねることをせず讒言を受け免職。

 だが竇妙が皇后になるのに協力したことで大尉になり、劉宏即位によって大傅に昇進している。

 時の権力者に嫌われながらも一貫した意志と能力によって左遷されるたびに昇進して帰ってくる人物である。


 この筋金入りの硬派の二人が宦官の跳梁を快く思うはずもなく。

 五月、日食を機に兵を挙げた。

 昼日中に日が陰る。

 これは天子の徳に天が否を示しているとし、そしてその原因である陰の存在宦官を取り除くという天意である。

 竇武と陳蕃はそう号令をした。


 手始めに中常侍の管覇かんは蘇康そこうを誅殺し、次は曹節を狙うが皇太后である竇妙がそれを止めた。

 二人がやり過ぎているからだ。

 曹節を誅せばもう歯止めが効かなくなり、おそらくは宦官一掃に至るだろう。

 それはよい。

 だが、このどっぷりと沼にはまった漢帝国の朝廷を誰が動かすのか。

 それを竇妙は危惧した。


 しかし、そうやって時がたてば相手に動かれる。

 宦官側も曹節を中心に動いた。

 劉宏の贋の勅令によって近衛である北軍五校士を動員。

 竇武と陳蕃を皇帝廃位を狙う反逆者として攻撃した。

 竇武も大将軍の権限で中央軍の五営を動かし反撃した。


 治安が悪くなりかけていても、漢帝国で最も平和だった洛陽周辺は動乱の中心となった。

 もし、これが長引けば内乱となり国を二つに割りやがて帝国も滅びる事態となったかもしれない。

 しかし、竇武と陳蕃は敗北した。


 そうなった原因は張奐である。

 宦官の讒言によって功績を無くし、中郎将の職を失った西涼の勇将である彼は洛陽に戻っていた。

 なんとか取りなしてもらおうと工作する内に、いつの間にか宦官側の指揮官として北軍を指揮することになっていた。


 数はほぼ同じ、錬度も同じくらい低い。

 将の質は、もちろんこちらが上だ。

 と張奐は判断した。

 近衛だ中央軍だと偉ぶっていても、所詮は実戦経験の無いお飾りの兵だ。

 そんな奴らが并州で、涼州で血みどろの経験を積みまくった張奐に敵うわけがない。

 次第に張奐率いる北軍は五営軍を圧倒し追い詰めていく。

 さらに五営軍の中に宦官が間喋を放ち「竇武こそが反逆者だ。皇帝に逆らったのは竇武と陳蕃である」という噂を流す。

 これによって五営軍の中で逃亡する者、投降する者が相次ぎ、軍は総崩れとなった。

 竇武は逃げたが追い付かれ囲まれ、自害してしまう。

 陳蕃は抗議のために参内したが、捕縛され投獄されるとまもなく殺害された。


 竇武のたてた宦官一掃計画は瓦解し、清流派の党人は完全に漢帝国の中枢から追い出された。

 それから数年の間、清流派の党人は追跡され、投獄されることが続いた。

 これを(第二次)党錮の禁といい、最初のそれよりも遥かに大きな事件となった。


 清流派と目されていた袁家も、一族から宦官を出し鞍替えした。

 曹節や候覧、王甫といった宦官が権力を握り、後には曹騰、張譲らが続くことになる。


 皇太后であった竇武の娘、竇妙も罪を問われ、殺害されることはなかったものの後宮を追われ、南宮雲台に幽閉された。


 この時、董卓はいまだ涼州におり戦の後始末に奔走していた。

 なにせ、上役がいなくなり司馬でしかない董卓が責任者になったのだから。

 戦費の計算などある程度は張奐がやってくれてはいたが、専門の官吏も連れていかれたため、自前でやるしかない。

 こんなところで曹掾の経験が生きるとは、と董卓は妙な心持ちになった。


 やっとの思いで洛陽に帰還すると、待っていたのは叱責であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ