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董卓伝暴狼記  作者: サトウロン
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九十、戦後処理、そして一つの時代の終わり

「戦費着服の嫌疑にて張奐を使匈奴中郎将より罷免する。至急、洛陽に出頭せよ、だと!!?」


 例の宦官、楊和成が逃げ出したあと。

 あれは何かの間違いだろうと断じ、本当の朝廷からの使者を待って姑臧に駐屯したままの張奐のもとに届いた書状にはそう書かれていた。


 戦費着服とは穏やかでない話だ。

 調べによると、支払われた戦費の三割を張奐が抜き取り私財に加えたとなっている。

 しかし、張奐は「バカな。この三割抜き取られたという額こそ、元々の戦費だ」と言う。

 それを聞いて尹端も「朝廷の勘違いでは?」と意見を出す。


「しかし……このまま無視するわけにはいかぬ」


 苦虫を噛み潰したような顔で張奐は書状を引き裂いた。


「中郎将様?」

「謀られた、ということであろう。幸い、この地の平定はなった。私は洛陽へ向かう。尹司馬、君もついてきなさい」

「かしこまりました」

「そして董司馬。君にこの後の軍の処理を任せます。私には、どうやらその資格が無いようだ」

「は!」

「……許さんぞ、曹節」


 そのまますぐに張奐と尹端は準備を整え、洛陽へ発った。

 余計な疑いを持たれないよう、連れていくのは二人の直下の兵だけである。


「宦官というものは恐ろしいな」


 と董卓は弟の董旻に言った。


「戦費をごまかすなど、できるものでしょうか?」


 董卓隊がまだ小さい集団の頃から、財務や兵糧の調達を担当していた董旻はそんな疑問を口にした。

 自ら携わった仕事のため、そんなことができるのかという問いになったのだろう。


「その担当の役人を抱き込めば可能だ」


 董卓も司徒府の曹掾だった経験から数字に関してはある程度の理解はある。

 そして、政治というのは時に理不尽で後ろ暗いものだということも。


「役人を?」

「何を驚く。宦官は己の親族を様々な官職につけ、地方官もそういう者らで埋まってきてきるそうだぞ」

「はあ、なんとも嫌な話です」

「そんなことは何度も繰り返されたことだ。権力を握れば、己の親族、己を慕う者を高位につけようとするのは当然のことだ」

「そういうものですか?」

「誰だってそうする。俺だってそうだ。若い頃から付いてきてくれたお前や張済、李傕たちにも良い役職につけてやりたいし、旨い飯を食わせたい。そう思っている」

「はあ、なるほど」

「しかし、あれはやりすぎだ」

「楊和成、ですか?」

「うむ。張奐殿が賄賂を断ったために讒訴したのだろう」

「ですが、張奐様は中郎将で、大司農で、元将軍なのでしょう?そんな大人物を貶めることなどできるのでしょうか?」

「できる」

「ええ?」

「主上の勅は逆らうことができぬ。そも、我らはみな漢帝国の臣下だ。独立国を作るわけでないのなら、従わねばならぬ」

「それが宦官によって歪められていても、でしょうか?」

「そうだ。それが嫌なら漢帝国から出ていくか、己が宦官より上に行くよりない」

「それは……もう三公とか大将軍とか……?」

「忘れたか?大将軍梁冀は皇帝の命令で誅されたのだぞ」

「もっと上!?まさか、自身が至高の座に……」

「それ以上は口にするなよ。そのくらいでなければ奴らには敵わぬ」

「はあ……。そうですか」

「宦官が政を壟断する例はある。しかし」

「兄上?」

「いや、なんでもない」


 董卓が言いかけて止めたのは宦官が国政を乗っ取り、皇帝をも操れるようになった事実のことだ。

 秦帝国の二代皇帝である胡亥こがい、三代目で秦王の子嬰しえいに仕えた趙高ちょうこうである。

 伝によれば趙高は高祖劉邦が秦の将を打ち破り、関中を平定していることを子嬰に伝えず、全てが終わってから降服させた。

 宦官の悪政によって国が滅びたのだ。

 その轍を踏むことはあってはならぬ。


 董卓はそう思い、しかし同時に本当にそうか、とも思う。

 漢帝国の外側というものを垣間見た己にしかでない問いだろう。

 だがやはり、中華の外に出ることは想像もできぬ。

 俺の限界はそこだろうな、と董卓は自身を判断した。


「張奐様はご無事でしょうか……」


 と董旻は東へ去っていった名将を心配した。


 しかし、張奐は罪こそ問われなかったものの、恩賞や昇進は無かった。

 そしてその後、騙されるような形で党錮の禁に関わってしまう。

 それも宦官側で。

 その功により少府を拝命、続けて大司農に復帰、太常を拝命といった九卿の職を歴任した。

 やがて三公の推薦を受けたが張奐は辞退、宦官の怒りを買い謹慎処分を受けてしまう。

 それより張奐は政界に戻ること無く、千人あまりの弟子を育て光和四年(181年)に亡くなった。


 さて。

 上役の居なくなった羌族討伐の兵で最も高位なのは董卓であった。

 そこで彼は恩賞として与えられた絹九千疋を全て兵らに分け与えた。


 これは董卓の部下思い、親分肌を示すエピソードとして後世に伝わるが実のところもっと大きな意味がある。

 それは本来、中郎将や将軍が行う論功行賞を自分でやってしまった、ということなのだ。

 誰が活躍し、敵将を倒し、作戦を成功させる、といった細かな事柄を総合し判断し恩賞を与える。

 それは戦に参加したものが最も楽しみにしていることであり、それを成すものに兵はついていく。

 その判断が間違っていたり、不公平だと兵の不満が溜まっていく。

 この戦の後、そのような反乱など無かったので董卓の手腕は合格点ということであったのだろう。


 また、この恩賞の分け方で董卓は一兵卒にも少ないながら絹を与えている。

 そもそも最上位が董卓なので残っているのは、董卓隊の面々、羽林騎、あとは徴兵された兵卒ということになる。

 兵卒らはもらった絹を大事そうに扱っている。


 なぜなら、絹は金と同じだからだ。


 後漢の時代、貨幣制度は崩壊していた。

 質の高い貨幣である五銖銭ごしゅせんは前漢の武帝の時代に定められたが、今に至るまで改鋳は行われていない。

 しかし、一度漢王朝を滅ぼした王莽の新の時代に素材価値の伴わない貨幣が乱鋳され、国内の経済はガタガタになった。

 後漢王朝成立後、貨幣の鋳造が行われたのはそれから十五年もたってからであり、その間に市場には私鋳銭が流通し始めた。

 私的に鋳造された貨幣が多く市場に流れることにより、五銖銭の価値は暴落した。

 百枚束ねたものでようやく物が買えるという状態であった。


 価値のないものをもらっても人は嬉しくないので、朝廷からの恩賞には布帛や絹が与えられるようになっていく。

 絹は高価な衣服の材料ゆえに高い価値がついた。

 また布帛は日常的に使うものであるし、軍需物資としても活用できるので安い価値にはならない。


 そこで撰銭えりぜに令などを出し、私鋳銭を市場から取り除いていけば五銖銭の価値も戻ったかもしれないが、そうするには漢帝国は広すぎるし、今の朝廷には力が無さすぎた。


 ともあれ、兵卒は絹をもらい故郷に帰っていった。

 董卓も隊を董旻に預け、羽林騎と共に洛陽に帰還することになった。

 兵の信頼を得た董卓の名声は涼州から関中にまで知れ渡った。

 董卓隊に預けられた陳倉付近の兵卒はほとんど死なず、董卓の強さと豪気さを故郷の家族らに触れ回った。


 戦によって浮き沈みがあり、喜ぶもの、悲しむもの様々だ。


 だが、そんな全てを吹き飛ばすような大事が洛陽で起こった。


 皇帝劉志、諡名おくりなを桓帝、の死である。

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