八十六、岸尾の迷走
岸尾は今の先零の族長だ。
族長ではあるが豪帥ではない。
この差は単なる呼び方の差ではない。
これは氏族の外にも、その権力を適用できるか、が問われる。
例えば、先代の狼凱は自身の知謀と武力によって他の諸氏族に号令できた。
なればこそ、豪帥の称号を得るに相応しかったのだ。
豪帥の称号は個人に付与されるものであり、氏族の族長や血筋には一切関係ない。
なので先零の族長を簒奪した岸尾も、狼凱の長子である狼蒙も豪帥とは呼ばれないし、扱われない。
董卓にその行動から、目先のことは器用にこなすが大局を見ることができない、とその性格を推測されていたが概ねその通りである。
だが、彼が無知蒙昧というわけではない。
いや、頭脳明晰と言っても過言ではない。
その話し方、指示、戦闘など羌族の戦士が心服するに足るだけの魅力と知力と武力を兼ね備えている。
彼は夷分の弟子である。
夷分は先零氏族における戦士長の地位をガアカと争った人物である。
氏族を出奔した夷分には十数名の戦士がついていった。
その内の一人が岸尾だ。
彼を含む戦士たちは夷分とその上司である烏吾の指揮のもと戦争を駆け抜けていったが、姑臧での敗北、昭武での夷分の死、張掖居延属国での決戦と続けざまの敗北によってほとんどが討ち取られていた。
岸尾は生き残り、氏族に帰順した。
指揮官ならともかく優秀な戦士を失うのは惜しい、と狼凱は罪を問わないことにした。
正直に言うと、岸尾は甘いと思った。
そして、この命が助かったのは天運がある、と確信した。
中華の言う天運とはまた違った概念かもしれないが、太陽神がいるとしている羌族の信仰にもそれは沿うのではないだろうか。
氏族を己の物とする。
豪帥となり、そして羌族をも統合する。
中華の地を蚕食し、それをも食らう。
どこまでできるかはわからない。
だが、行ける。
あの決戦を生き残った己なら、どこまでも行ける。
そう確信している。
羌族に名を馳せた麻瞥を配下に加えることができたのもその証だろう。
彼は長い間、羌族が関わる戦に参加し続けた戦士だ。
その全てで生き残った彼は、そういう運を持っていると岸尾は思った。
彼を戦士長に据え、起こした戦いは概ね上手くいっている。
武威郡に潜んでいた羌族の氏族も蜂起し、戦列に加わった。
何もかもが岸尾の思う通りに進んでいく。
そんな実感があった。
どこまでも駆けていける。
聞いたことのない鳥の声に、岸尾はふと天を見上げた。
漢人たちは皇帝になる者が現れた時に、瑞獣の出現があるという。
それは例えば竜であったり、麒麟であったりした。
そして鳳凰という鳥もまた瑞獣として、皇帝の即位を祝った。
そんな鳥が現れたのかと思ったのだ。
だが天には砂がかったような青空があるばかりだった。
目を地に戻すと、そこには砂ぼこり。
それが何を意味するか。
理解するまでに数秒かかる。
焦りと共に理解がなると岸尾は叫ぶように号令をかけた。
「敵襲!ただちに応戦せよ!」
略奪の帰路であり、すっかり緩みきった岸尾の軍は反応も鈍い。
そしてここには麻瞥はいない。
武威の別軍が漢人に襲われたと聞いて、救援に向かったのだ。
気付いた時には、敵の姿が目視できるところまで接近を許していた。
その中にふと見覚えのある顔を見つけて、岸尾は叫ぶ。
「ガアカ!?」
「おう、董卓隊騎兵頭餓何、ここに推参」
真新しい漢人風の鎧兜を身につけたガアカは岸尾のもとへ一直線に向かってきた。
そして手にした戟を振り下ろす。
岸尾もその手の戟で守るが、威力に押され後方に押されてしまう。
「なぜ貴様がこんなところに!いや、なぜ漢の軍にいる!」
「ふふふ。漢の軍に伝手があってな」
「氏族を追放され、羌の誇りを失ったか!」
「黙れ。誇りなぞ、今のわしには役にたたぬ。拾ってくれた方のために勝つのみぞ」
「おのれッ!」
岸尾がガアカに気を取られているうちに、董卓隊に襲われている岸尾軍は討ち取られていく。
岸尾は確かに優秀だった。
あるいは夷分以上だったかもしれない。
だが彼には決定的に足りないものがあった。
それは時間だ。
族長として氏族を統率する時間。
指揮官たる部下を育てる時間。
現れた怪物に対抗する策を練る時間。
それが不足していた。
師である夷分を超えた自負はある。
しかし、夷分でもかなわなかったガアカという男。
そしてそのガアカを配下として扱う怪物。
董卓に対し奇襲を許した瞬間。
岸尾は勝つための道筋を見失った。
全軍が押されまくり、いたずらに兵を失っていく状況に気付いた岸尾は全力の一撃をガアカに放った。
大振りなそれは予想通りに防がれたが、瞬時の離脱に成功。
後方に逃げながら「全軍撤退」を指示する。
肩透かしをくらった格好のガアカをして、見事な手際と称賛するほどには的確な指示であった。
それこそが漢軍の、張奐の、董卓の策であることを岸尾は知らない。
逃げている。
そう自覚すると、胸の中にトゲのような、靄のようなものがあるような気がする。
だが、まだだ。
さっきのは奇襲であり、緩みをつかれただけだ。
相手の指揮官が怪物に見えたのは、こちらの怯みがそう見せただけにすぎない。
心中で言い訳している。
それは誰に対してのものなのか。
岸尾にはわからない。
それに、すぐにそれどころでは無くなった。
こちらへの敵意あふれる大音声が目の前から轟いた。
「族長!漢軍です!」
「見ればわかるッ!」
部下の意味のない報告を一蹴し、岸尾は馬をぎりぎりと止めた。
「敵の旗は『尹』!使匈奴中郎将の部隊です」
漢の言葉がわかる部下がそう報告してきた。
「使匈奴!?なぜ匈奴に対しての軍が我らに向かっているのだ!」
それは岸尾たちが思ったより大規模な戦を起こしたからであり、漢帝国が本気で対抗しようと思ったからだ。
そして、本来羌に対抗する護羌校尉は武威郡に出陣している。
ここに布陣していた尹端は、待ち伏せしていた場所に寸分違わぬ場所へ追い込んできた董卓の手腕に舌を巻いた。
つまり、これは予定のとおりにことが進んでいるということ。
「ならば軽くあたり、敵を追い込む!」
尹端は足を止めた敵に二度突撃し、追い払った。
後方には董卓、前方には尹端。
二隊に挟撃された形になった岸尾は、しかし不敵に笑う。
「奇襲の次は埋伏からの挟撃か。お手本のような奇道よな。臆病な漢人に相応しいわ!」
挟み撃ちとはいえ、二隊の距離は大きく空いており、その隙間を通り左右に抜けることは容易いと、岸尾は見た。
ダッと馬を走らせ、尹の旗の敵を置き去りにして岸尾軍は右へ方向転換した。
それ以上、敵が追いかけてこないことに若干の不審を抱きながら先へ進む。
その先には岸尾の本拠地がある。
ゆえに挟撃された彼がそこに向かうと推測したのは張奐だった。
そこに向かうにはどうしても通らねばならぬ箇所に陣を敷き、待ち伏せするのは定石だ。
「張の旗です……」
部下の報告に、岸尾はぎりりと歯をくいしばった。
あれは敵の本隊ではないか、と。
己の本拠地が知られていた、ということと敵本隊に待ち伏せされていたことに驚愕と怒りを岸尾は覚えていた。
だが、彼は一氏族の長である。
怒りを飲み込み、馬の脚が折れんばかりにぐるりと方向を変えて走り出した。




