八十二、先零氏族の乱
「かなり慌ただしかったんです」
と、白然は二人に麦湯を出した。
劉甲の店の番頭であるこの青年は、董卓の友人でもある。
洛陽で働いていたころは世話になった。
「噂では聞いていた」
「ええ。かなりの人数が投獄されまして、こことも繋がりのある方も捕まったようでした」
党錮の禁の影響はかなり大きい。
人数で言えば、かつての大将軍梁冀の排斥時よりも少ない。
だが、袁隗が取り入れたような人材、いわゆる清流派が一掃され残ったのは宦官に与した者だけだ。
残った者らは次に潰されぬように、賄賂などに励んでいるという。
漢朝の収入は激減しているのに、宦官らの懐はどんどん肥えていくというわけだ。
「治安が悪化しているように見えたが?」
「はい。都尉ももちろん上に金を払うことで任官してますから、その職務にどれだけ励むかは推して知るべし、ですね」
「そうか……犖、ここは危険らしい。どうする?隴西に戻るか、もしくは右扶風の鮑家に戻るという手もある」
犖は夫に向けて、首を横に振った。
「私は、ちゃんと危ないことを承知で来ました。なので危ないから帰る、ということはありません」
妻の表情から、決意が固いことを知り、董卓はため息をついた。
「わかった。俺といろ。ただし」
「ただし?」
「俺がいない時は、この店か白然殿を頼れ」
「わかりました」
「勝手に決めたが、よろしいか?」
董卓に対して、白然は笑顔で頷いた。
「もちろんです。どうぞ頼ってください」
懸念であった妻の安全を確保した董卓はようやく息をできる思いだった。
こうして、董卓は羽林郎に任官した。
任官した、とはいえ、通常の職務に董卓が従事する期間は短かかった。
それはなぜか。
羽林郎の任務は大きく二つ。
一つは皇帝の護衛であり、前述したように狩猟や行幸などについていく。
しかし、最近桓帝は床に伏すことが多く、そういった仕事は減りつつあった。
もう一つの任務は異民族の征伐である。
彼ら羽林郎は涼州并州の良家の子弟から選出されている。
それはつまり、対異民族の熟練者であるということだ。
彼らは同時に将校候補である。
経験者を将校にし、対異民族の戦いの指揮する経験を更に積ませる。
それが羽林の大切な任務だ。
前漢時代に対匈奴の戦いで大きな戦果を挙げた趙充国や甘延寿といった人物は羽林出身である。
さて、この夏。
再び、異民族が大きく動いた。
董卓も世話になった羌族先零氏族がその震源である。
族長として氏族をまとめ、また滇那の乱の後始末をつけた狼凱が亡くなった。
後を継いだのは岸尾という男であった。
狼凱の功績はともかく、その漢人に与した行動は先零氏族内でも賛否両論であり、その死によって批判的な勢力の声が高まったようだ。
結局、遺された狼凱の一族と戦士長を逐われたガアカらは隴西の董卓の隊に加わっている。
反対する者がいなくなった先零氏族は蜂起した。
その前年に、鮮卑や烏丸族が辺境を襲っているため、漢帝国の目が行き届かないことを岸尾は知っていた。
数年前に襲われた武威郡、張掖郡が再び襲撃された。
また、その襲撃に当撰氏族からも大勢が加わっている。
かつての滇那の軍勢にも匹敵する数が集まっていることが先零からの投降者によって知らされた。
羌族の勇士である麻瞥を勢力に引き入れた岸尾は涼州に歩を進めたのだった。
報せを受けた今回の朝廷は迅速に対応した。
増強した各軍隊を各所へ派遣していったのだ。
武威郡方面には護羌校尉の段熲を。
そして張掖郡方面には使匈奴中郎将の張奐を。
その両軍に、羽林騎から援軍を送ることが決定した。
その羽林騎を率いるのに選出されたのは董卓だった。
「ともあれ、羽林騎を全員連れていくわけにはいかぬ」
羽林騎を束ねる羽林中郎将の葉衞が董卓に、困ったように告げた。
官位で言えば郡太守と同等であるため、逆に彼自身はおいそれと戦場に出るわけにはいかない。
ので、涼州へ援軍を出せとなればそれ相応の者を出さねばならない。
しかし、皇帝の護衛という仕事もあることから左右の羽林監を出すわけにもいかない。
この羽林監は千八百人いる羽林騎を九百ずつに分けて統率する役目だ。
そして、それをまとめるのが羽林中郎将の葉衞ということになる。
「それで私ですか」
「うむ。貴殿が自身の私兵を持っていることは知っておる」
「名目上は羽林騎からの援軍でしょう。どのくらい連れて行けるのです?」
「おおよそ百というところだろう」
「百……」
「仕方なかろう。羽林騎は単なる兵卒ではない。貴殿も知るとおり将来、軍を率いる者たちだ」
羽林騎は千八百人の兵隊ではなく、千八百人の将軍(候補)というわけだ。
それを使い潰すわけにはいかない。
まあ、百人も指揮官がいるならさぞ戦略もたてやすかろう、と董卓は思った。
脳裏に浮かんだのは、かつて戦った滇那の“百騎”である。
彼女の手足のように動く百の隊。
あれは理想ではあるが、彼女の才覚と羌の王帥に対する盲目的な忠誠心が成せる業だ。
その証拠に、彼女の死によって残った“百騎”の面々は、自身が王だと名乗りをあげ連携のとれていた百の隊は瓦解した。
もっと違う形の統率を探さねばならない、と董卓は感じていた。
「彼らへの指揮権は私にあると思ってよろしいですか」
「無論だ。おそらく張中郎将のもとで貴殿は軍司馬として扱われる。司馬は普通、二千ほどの隊の指揮権を与えられる。一般の羽林騎ならばこれに従わなければなるまい」
「そうであるなら問題はないでしょう」
「董仲潁。一つ胆に銘じて置いてほしい。羽林騎とは単なる軍兵ではなく、主上の士卒である、ということを、だ」
「それはつまり……」
「陛下の名を貶めるような戦はしてはならぬ、ということだ」
卑怯な戦はするな、と言うことか。
亡骸に鎧を着せ城を包囲しているように見せかけるとか、はしてはならぬ。
涼州での董卓の戦いを葉衞がどれだけ知っているかはわからないが、下手なことはできない。
「かしこまりました」
「では頼むぞ」
こうして夏の終わり、百騎の羽林騎が涼州へ向けて出陣した。
漢の函谷関を抜け、関中に入ると情報が続々と集まってきた。
旧都長安を守護する常備軍が置かれている虎牙営、雍営が羌岸尾軍に襲撃され、撃退したものの千人ほどの死者が出たのだという。
羽林騎の副官である葉雄は恐ろしそうにその報告を聞いていた。
「仲潁様。はたして我々に対抗できるのでしょうか」
羽林中郎将の葉衞の息子である葉雄はこれが初陣であろう。
確かにこちらは(今のところ)百騎しかおらず、千人を殺した羌族に恐れを抱くのも無理からぬことだ。
だが。
「この報を聞いて知るべきは虎牙営、雍営はまともに機能している。つまり長安が抜かれる心配はないということ。そして敵が三輔地方を襲うことはできても侵略することはできない、ということだ」
「なるほど!……ということはどういうことなのですか?」
目をきらきらさせて聞いてくる葉雄に董卓はちょっと怯んだ。
こういう反応をされたことは無かった。
「三輔地方を襲っても得るものがないと別れば敵は涼州に戻るしかない。そうなれば涼州には張中郎将、段校尉といった歴戦の名将がいる。そうなればこちらの勝ちだということだ」
「得心いたしました!」
楽観的なことを言ったが危機なことは確かだ。
董卓は急ぎ西へ向かった。




