七十三、鮑犖
長安では劉甲の支店に世話になった。
というか、洛陽にも大きな店があるのに、漢帝国第二の大都市である長安にも店を持っているのは凄い。
交易というものがそれほど儲かるのだろうな、と董卓は劉甲をあらためて尊敬した。
十年前は彼も行商人だった。
董卓も若造だった。
そして今や一方は大商人で、もう一方は前途洋々たる武人だ。
まあ、董卓がそうなっているのは劉甲からの援助があったからだ。
それは忘れてはいけない。
「西域からの交易品というのは長安、洛陽で良く売れますから」
と劉甲は笑いながら言う。
当時の中華、漢帝国の範囲は涼州の果て敦煌だ。
その外には蛮族の国々と草原と砂漠が広がっているという。
寒々とした険しい山脈を越え、南の地には大月氏の国、西へさらに進むと大苑国、大夏国、大秦国があるという。
そういった地からの品物、あるいはその途上にある土地の物は珍重され高値で取引されている。
「そこまでの交易路を確保できるとはさすが大商人ですな」
「何をおっしゃいますか。それもこれも董様が羌族やら他の胡族を追い払ってくれたからこそ。さもなくば私ごときが財をなすことなどできませんでした」
そうか、と董卓は納得した。
確かに先年の戦いでは武威郡、張掖郡、酒泉郡が襲われ、役所や物流が滞った。
これはそのまま西域への交易が滞ったということでもある。
前の隴西太守だった孫羌はそれをよくわかっていたゆえにいち早く出兵しようとしたのだろう。
軍事は政治の延長であると言うが、商売もまた軍事と政治と深く関わっているのがわかる。
董卓の行った戦いが劉甲の交易に影響し、その結果費やした戦費よりも大きな利益を得ることができたということになる。
そのような話をし、長安に数日滞在したあと一行は隴西へと向かった。
経路的には長安から郿を通り、陳倉へと進む。
そこから隴西方面への大きな壁になっている秦嶺山脈を抜けるのだが、いくつか道があるという。
「まあ、どの道を行っても隴西までは2日ほどかかりますな。漢陽へ抜ける道はその中でも早く着くかと」
「では、その道を行こう」
進んで行く山中で悲鳴がしたのは山道へ入ったその日の午後のことだった。
山中といえど街道が通っており、踏破に数日かかるとなれば旅人を泊める村落ができるのは必然であり、今日は次の村で泊まろうという話をしていた時だった。
遠くに若い女の悲鳴。
「む」
と董卓は荷を預け、刀を持ち駆け出した。
「董殿!?」
「山中に娘の悲鳴だ。捨て置けん!」
「こちらから護衛を割きましょうか!」
「いや、まず俺一人で様子を見てくる。何かあれば知らせる」
「わかりました。お気をつけて」
秦嶺山脈は深き天険であり、古代中国では仙人の住まう昆崙山脈とも呼ばれた。
長安のある司隷、あるいは三輔地方。
西に涼州の漢陽、隴西。
南に漢中、巴蜀の地。
それらを分断し、山道を往かねば通行できぬようにしている。
後に蜀漢の諸葛亮が北伐において最も苦労したのがこの秦嶺山脈を越えることであった。
まあ、南北の通行は苦行に等しいが東西の通行はそれほどでもない。
人の歩ける街道は通っており、休める場所もある。
しかし、それでも危険なところであることには変わりはない。
董卓が悲鳴のあがったと思われる場所にたどり着いた時には、そこは血の海だった。
時をさかのぼり、場所も巻きもどし、司隷右扶風郿県。
そこに鮑家がある。
さほど裕福ではないが、家格はそれなりの家である。
例えば、最近名家入りした家が婚姻を通じて、お互いに利がある程度には。
その鮑家には子が二人ある。
一人は男子であり、名は鴻。
幼いころより、文武に優れ行く行くは郡の太守も任せられるほどの才があるともっぱらの噂である。
もう一人は女子である。
それなりに整った顔立ちの娘で、名を犖と言う。
この娘がなかなか難しい。
幼い頃より乗馬が好きで、親の目を盗んでは胡服で馬を乗り回していたという。
その鮑犖に縁談の話が持ち上がった。
彼女は十八になり、適齢期といったところであり、話が来ることは不思議ではない。
涼州の、最近大功をあげた武将だと聞かされた彼女はちょっと怒った。
父親の鮑班に向かってこう言った。
「父上!いくらなんでも涼州武者はないのでは!?」
「何が不満なのだ?」
娘の剣幕に苦い顔で鮑班は尋ねる。
「不満も不満だわ。涼州の者といえば羌だか丁霊の夷狄の連中と寝食を共にする野蛮人だと相場は決まってます」
「それはお前、偏見だよ」
「私はもっと、長安の大丈夫とかに嫁ぎたいの!」
「そんなこと言っても、もう先方にこちらから申し込んだのだよ?」
「私に聞きもしないで、ですか?」
「そういうのは家同士の話で、結婚する者同士が異を唱えるものでもないだろう?」
「いえ、唱えます!」
「犖、そのように父上を困らせるものではないぞ」
割って入った兄の鮑鴻に、犖は顔を向けた。
「兄上は平気なのですか?落ちぶれつつあるとはいえ鮑家に夷狄の血が入るのですよ」
「落ちぶれつつある、は余計だ。それに先方は正真正銘漢人だろうに」
「兄上は、私のことなどどうでもよいのですね!?」
「そんなことは言ってないだろう?」
この思い込みの強い妹のことを、鮑鴻は嫌いではなかったがやや面倒とは思っていた。
父親の鮑班は、これは面倒なことになったと思っていた。
なにせ、こちらから申し込んだことをやはり本人が嫌だと言っているので取り止めます、などと言ったら涼州での鮑家の評判はがた落ちである。
ここ右扶風では特に問題にならないかもしれないが、涼州は隣である。
その悪評がどこをどうたどって、悪い影響をもたらすかわかったものではない。
そもそも、上がる見込みの薄い鮑家と結びたいという名家は三輔地方で探すのは難しい。
犖には悪いが、やはり進める方向で行かねばならぬ。
そんなことを思っている父親の思考を、犖は読みきっていた。
このままでは、顔も知らぬ野蛮人に嫁がされてしまう。
それはなんとしても阻止せねば。
そう決意した犖は、隙を見て家を出た。
「こうなったら、向こうに直接話をつけるしかない!」
ここから先方の家まではだいたい7日ほど歩けばたどり着けるだろう。
往復で半月ほどだ。
嫁がされるよりは多少無茶でも行動あるのみ。
「お前は変なところで行動力があるな」
隙を見たはずなのに目敏く、こちらを見つけてくる兄のことは犖も嫌いではない。
「いくら兄上でも邪魔立て無用ですわよ」
「お前が心配なのだ。私も父上も」
「ならばこういう縁談を持ってこなければいいのです」
「父上には父上の考えがあるのだ」
「私には私の考えがあります!」
ふう、と鮑鴻はため息をついた。
「止めはしない。だが供を連れていけ。女の一人旅など無謀に過ぎる」
鮑鴻は鮑家に仕える者から護衛を選んでくれたらしい。
男が二人、世話役の女性が一人だ。
全員、犖とも顔見知りで信頼できる。
「兄上……その、ありがとう」
「私は縁談悪くないとは思うのだがな」
「それとこれとは話が別」
「まあ、いい。わがままが言えるうちに言っておくがいい」
「そうするわ」
こうして、鮑犖は縁談を断るために家を出て涼州へ向かうのだった。




