七十二、阿房宮の話
帰郷にあたって、もちろん上司たる袁隗に相談している。
「なるほど。君ほどの者でも親からの知らせには服すか」
とからかうように言われる。
儒教的には親への孝というものが最も重視されている。
董卓の行動は誉められこそすれ、からかわれる由縁はないのだが、そこは袁隗が実務的なものを大きく見ているからであろう。
理想論では国は保てぬ。
奸臣の跋扈した後の国を立て直すには現実を見ねばならなかった。
「まあ、いつまでも独り身でいるわけには参りませぬ」
「袁家の名を使えばどんな良縁でも用意できるのだがなあ」
「それは……あまり取り込まれるのも困ると言うか」
同席していた蔣義渠が笑う。
袁家の名を借りるくらいがちょうどよい。
これ以上、袁家に頼ると困難を言いつけられることになる。
少し形態は違うが食客というものがある。
これは特に仕事もせずにその家に養われている者だ。
そのままでは何の役にも立たぬが、いざ変事とあればなんでもしなくてはならない。
戦の際は兵や指揮官として、またある時は敵の将などを暗殺する役目をすることもある。
食客はこれを断ることはできない。
養われてそれを返すことをしなければ、それは不義者として二度と食客になることはできない。
逆にその家の主に殺されても文句は言えぬ。
また後年、司馬師が高平陵の変の際に自身の食客三千を用意して功を挙げたこともあることから、そういう仕組みはまだ残っているのだ。
そういうものに巻き込まれるには、董卓はまだ野心がありすぎた。
また袁家の縁戚などになってしまえば、袁家の戦に駆り出されることになる。
姜家兵や顔家兵、といった名家の兵と共に戦ったことはあるが、その強さはともかく役割としては董卓には不満があった。
もし、彼らを自由に使えたらと幾度も思ったか。
逆に董卓が袁家の兵となってしまったら、そういう董卓を認め使いたいと思うような君主が引き抜けないではないか。
「まあ、よい。それに曹掾程度では君の才を活かせないとは思っていた」
「お世話になりました」
「……これは独り言だが、何年か後に今上の近衛を増やすことが検討されている。西涼方面から人員を募るつもりだ」
「それは……」
「縁があればまた洛陽にて会うこともあろう」
それは、その近衛の選定に董卓を推すということだ。
三公の袁隗が推せば、ほぼ確実に任ぜられることになる。
董卓を認め、そして今度は武官として地位を与えようとのことだ。
もちろん董卓のことを気に入ってはいるが、袁家に与する武人を増やそうという思惑もある。
文武に秀でた人物を揃えることで、袁家をますます発展させようという袁隗の考えである。
それは承知しつつも、董卓は礼を言い上司の前を辞した。
時勢が良かった。
董卓は文官を辞めようと思っていたし、故郷が気になっていたのも確かだ。
そのうえ、次の仕事の当てもある。
前途は広がっている。
董卓が去った後、袁隗と蔣義渠はその背を見ていた。
「普通は中央で出世しようと思うものですがね」
蔣義渠は主人に言った。
去っていった董卓を推薦したのはこの蔣義渠である。
「それが普通ではあるがな。生粋の武人などは戦いが無ければ生き甲斐が無いと言うぞ。かといって朝廷の暗闘や権力争いは嫌いじゃろうて」
袁隗は、ほんのわずか羨ましそうにそう言った。
代々三公につく袁家に生まれ、そうなるために生き、そうなった袁隗には選べなかった道を歩む董卓の生き方を羨んだのだろう。
「彼は戻ってくるでしょうか」
「戻ってくる。彼の内に住む野心は西涼では収まりきらぬ。あるいは……この洛陽ですら彼の野心の炎に飲まれるかもしれぬ」
「そ、それほどでしょうか」
蔣義渠は、かつて士到と名乗っていたころに出会った青年が漢の政治の頂点である司徒にそうまで言われることを驚いた。
士到だった彼は梁冀の配下の密偵であった。
だが董卓に梁冀の没落の可能性を示唆され、梁冀の元から離れることを模索し始める。
なんとかそれに成功し、梁冀の誅殺の頃には難を逃れることができていた。
やがて、持ち前の能力で袁家に接近し、袁隗の配下となった。
そして、再会した董卓を主に紹介したのだ。
命永らえたことの恩返しとして。
しかし、思っていたより董卓は成長していた。
袁隗に洛陽すら飲み込む炎と評されるほどに。
「さてなあ。これから彼がすることは私にもわからん。また会うときによく見てみるしかあるまい」
「そう、ですね」
蔣義渠は己が何か大きな間違いをしたのではないか、と不安に思った。
だが、もう手遅れだとも思った。
なぜなら彼はもう波に乗ってしまったのだ。
袁家に属する者であり、県長に匹敵する仕事をこなし、そして将来を手にしてもいる。
願わくば、彼がそのような暴威を振るう人物でないことを。
蔣義渠に出来るのはそれだけだった。
洛陽を出発した彼は劉甲の隊商に同行することになった。
故郷に帰るとの挨拶をしに行くと、ちょうど長安方面へ行くことになった劉甲が同行を持ちかけてきたのだ。
確かに腕に自信はあれど複数の敵に囲まれては危険だ。
単独の旅人と隊列を組んだ商人、どちらが襲われにくいか、考えれば一目瞭然であろう。
董卓はありがたくその申し出を受けることにしたのだった。
「そう言えば長安には行ったことはございますか?」
という劉甲に董卓は首を横に振る。
「上洛する際に通過しただけだな」
「それはもったいないことをしましたな」
「もったいないとは?」
「長安のあるあたりには秦帝国の都である咸陽があり、そこには幾多の宮殿があったそうです。そして何万人もの人間が住むことができた阿房宮がその巨大さを見せつけていたそうです」
「一つの都に匹敵する人間が住む宮殿か。想像もつかんな」
「その阿房宮は楚漢の戦いの時に炎上し、三月も燃え続けたそうです」
「それほどの間……燃え続けるというのか。どれほど壮大な宮殿だったというのか」
「なんでも、秦が滅ぼした戦国の六国、それぞれの国の出身の美女麗姫をはべらかし、その建物は天宮を模して作られ、音曲が奏でられ、建物の中に銀の川が流れていたそうです」
「……悪趣味だな。あるいは命知らずなのか」
「ほう。董仲穎様はどのようなご意見をお持ちで?」
「天宮を模したとか、銀の川とか知らんよ。だがな、己が滅ぼした国の美女を集めるなど、正気の沙汰ではない」
「さようでしょうか?」
「まあ俺も俗物の類いゆえ、始皇帝の欲もわかる。その女たちは己で掴みとった物、天下統一の象徴だろう。しかし、彼女らにとってそれは家族の、恋人の、故郷の仇だ」
「ははあ、なるほど。逆に考えればとんでもないことですね」
「そうだ。表では妖艶な笑顔を浮かべ、口からは睦言を囁いているが、その内面で殺したいほど相手を憎んでいる。そんな女たちに囲まれてよく正気でいられたものだ」
劉甲はそんな始皇帝の後宮の様子を想像して、青ざめた。
笑顔の美女に囲まれてご満悦だが、その裏では命を狙われている。
それはもう恐怖でしかない。
「閨で鎧兜を身につける男はおらん」
「確かにそうですな」
恨みを持つ相手が無防備な状態でいる時、己ならどうするか、劉甲は想像してぶるりと体を震わせた。
「そう考えるとやはり始皇帝は常人の域にいないな」
そうでなければ天下統一などできないのだ。
長安の話が、いつの間にか始皇帝はヤバいという話になった理由は董卓にはわからなかった。




