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董卓伝暴狼記  作者: サトウロン
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七十、善も悪も食らう者

 もうすぐ冬を迎えようという草原は、どこまでも冷たい。

 馬を走らせると凍てつく風が身を切るように吹く。


 ここは漢土を離れた土地。

 遊牧の民たちも来る冬に向けて、寒い季節をやり過ごす場所に足を止めている。

 故に、彼らのような逃亡者は見つかりにくい。


 漢人にも、羌人にも追われる彼らにはこのような凍える土地でしか歩むことを許されない、とでもいうように。


 その日の夜、彼らは草原と山脈の境目にある場所で洞窟を見つけ、そこで夜を越すことにした。

 古い獣が住んでいたらしきその洞穴は、今は何もいない。

 火を焚き、汲んできた水を沸かし、干し肉を噛む。

 非常に侘しく、そして辛い。

 食事が粗末だとか、風が冷たいとかは耐えられる。

 しかし、明日の展望が見えないことは心を苛むのだ。


 器用に片腕で肉を食む男に、若い男が話しかけた。


「もう羌の土地は抜けたでしょう。ここらは鮮卑の領域からも外れているはず、もう少しで私の故郷にたどり着けます」


 片腕の男は軽く頷いたが、肉を噛むのをやめることはなかった。

 慣れているのか若者の方が話を続ける。


「匈奴の地は初めてでしょう?ええ、問題はありませんよ。私らも遊牧の民ですが今は勢いを無くしています。そのために強い者を欲しています。たとえその……腕でも烏吾様のような方を無下に扱うことはありませぬ」

「……ああ」

「漢の呼び方で并州の五原ごげんぐん九原きゅうげんけん。一応漢の領地ではありますが、追手の目など抜けおおせることなど簡単です。ゆっくりとそこで力を蓄えて参りましょう」


 烏吾うご呂陸ろろくであった。

 張掖居延属国での戦いで敗れたあと、二人は全てを捨てて逃走した。

 軍の統率権を巡って、あの土壇場で“百騎”たちは声をあげ、そして漢軍に潰されていった。

 逆にヒラの兵卒は挟撃の隙間から逃げることが容易にできた。

 烏吾たちもその間隙から逃げ出したのだ。


 指揮官クラスであった烏吾らの逃走は誉められたことではない。

 しかし、彼らは羌族の正規軍などではなく、羌族の一部をまとめあげた“王帥”滇那の元に集った者だ。

 彼女が死んだ今、その軍にいる意味は無い。


 片腕を失い、戦士としてもはや死んだも同然の烏吾は虚ろなまま呂陸に連れられていた。

 敗北の衝撃、いや滇那の死が彼の心を壊してしまった。

 以来、彼は食べ物は食べるし、馬にも乗るがまともな会話はほぼできない。

 それでも部下として、かつての若き勇将であった烏吾が元に戻ると信じて呂陸は逃走を続けている。

 当面の目標は故郷の并州であり、そこにある匈奴の村に潜み期を窺うつもりだった。


 薄暗い洞窟に焚かれた火。

 ゆらゆらと揺れる影はある種の催眠のような効果を烏吾にもたらしていた。

 呂陸の言葉はそのとおりに烏吾には届かず、抽出された単語だけが烏吾の脳を抉っていく。


 片腕。


 追手。


 情けない。


 敗北。


 それは、烏吾の故郷の記憶を想起させた。

 参狼の。

 敗北した父の。

 片腕を失った父と、烏吾は同じだ。

 嫌悪した父と、軽蔑した父と、忘れたかった父と。


 それと同時に戦争の記憶も這い上がってきた。

 敵の城を蹂躙し、漢人を奴隷のように扱ったこと。

 攻めこまれ、しかし意気揚々と迎撃せんとしたこと。


 弓で射られ。


 泥を舐め。


 敗北。


 似通った記憶は混沌の中に混じりあい、虚ろな心中を満たした。


 混沌の中から激しい感情が吹き上がり、烏吾を塗り替えた。

 滇那に認められた感情、憎悪あるいは憤怒が弾けた。


「烏吾……様?」


 心の臓に真っ直ぐに突き刺された短刀の刃を見て、信じられないというように呂陸は烏吾を見た。

 しかし、間もなく呂陸はどおっと倒れた。


 正気を取り戻したか、いや別の何かにとってかわられたか。

 烏吾の目に虚ろは無くなっていた。

 ゆっくりと立ち上がった彼は血だまりの中に倒れる呂陸を見もせず踏みつけ歩き出した。


「清々しい」


 冷たい風が吹く夜の闇へ、烏吾は踏み出した。


「君の名を借りよう。今日から私が呂陸だ。幸い私たちは背格好は似ていたし、顔は……潰せばよいか」


 星一つ見えぬ夜空に呂陸となった烏吾はまるで道が見えているかのように確かな足取りで歩く。


「君の故郷に呂陸として帰り、君の全てを利用しよう。そして強い女に子を生ませ、その子を育てる。我が才知と羌と匈奴の血を混ぜ合わせ、最強を作り上げる」


 それはもう決まったことだとでも言うように闇の中を、一人呟きながら呂陸になった者は歩む。


「その子が最強になったその時、彼女の仇を取る。董卓シーエイを殺す」


 闇の中からもう一人、別の影が滲むように現れる。


「まさか、己の力で“神降ろし”を成し遂げるとは」


 その影はジンであった。

 羌族のニン氏族の豪帥であり、羌族の祭祀を司る男だ。

 羌の王帥を戴き、新たな羌の時代を築くために生きている。

 羌の始祖である無弋爰剣ムヨクエンケンの血を濃く引いている焼当ショウトウ氏族の滇那に“神降ろし”を行い、王帥へと押し上げた。

 いわばこの一連の戦いの首謀者といえる人物である。


 滇那の死による軍の瓦解の際に、彼は戦場から逃れ彷徨っていた。

 そして、その奇妙な予知にも似た何かの力に導かれるようにここにたどり着いていた。


 その迅が見たのは単独で“神降ろし”を成し遂げた烏吾の姿だった。

 羌の秘技“神降ろし”。

 それは戦神である蚩尤しゆうをその身に乗り移らせる秘法であるが、その実それは被術者の潜在能力を引き出しているのである。

 催眠術のようなそれは忍氏族のみに伝わる秘技であるが、それと似たようなことを烏吾は行った、行うことになった。

 だがそんな偶然を迅は信じない。

 烏吾は成るべくして“神降ろし”を成し遂げ、神へと成ったのだ。

 蚩尤を降ろし、その依り代が軍を組織したことでこのような才を持つ者が現れた。

 迅の行ったことは無駄ではなかったのだ。

 少なくとも迅の中では。


「ああ、君はなんと素晴らしいのだ。その変容はおそらく私の術の結果とは違うのだろう。蚩尤とは違う神が降りているに違いない」


 烏吾はそんな迅のことなどまるで気にせず歩みを続ける。


「深き絶望の淵から憤怒と憎悪をもって立ち上がりし者。そうか、君に降りた神は“窮奇チォンジー”だ。知っているかね?ある時は善人を食らう怪物、またある時は悪人を食らう霊獣だ。その時々で己の感情のままに善も悪も食らう。君に相応しい神ではないか」


 喜悦の表情を浮かべた迅の顔が、突然曇った。


「私が誰かなど君には関係の無いことだ」


 そう冷たく言い放った烏吾の右手が、迅の首を掴んでいたのだ。

 呼吸が止まり、真っ赤な顔をしながらも迅は烏吾の手を引き剥がそうとする。


「君の言はうるさすぎる」

「ぐううう!!?」

「私が誰かなど君には関係の無いことだ」

「あがが」

「ほら、見えるだろう。その先は無だ」


 どうしようもないことを悟ったか、迅の目が濁っていく。

 そして烏吾はさらに腕の力を込めていく。


 不意に迅の腕から力が抜けた。


「神などという世迷いごとで幾多の者が道を誤ったのだろうな。喜ぶがいい。君もまた神になった。死ぬことで」


 烏吾は力を込めて迅の首をごきりと折った。

 これでたとえ力を抜いたのが偽りであろうと、死は免れえない。

 烏吾は迅の亡骸を投げ捨て、そしてそれに一瞥もくれずに歩みを再開した。

 彼が闇の中へ消えた後、そこには二つの死体が残された。


 この余人の訪れぬ地で、かつて呂陸と呼ばれた男と迅の亡骸は誰にも見つかることは無かった。

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