六十八、空虚を埋める野心の芽生え
「その名は……」
「方々探し回って、董従事殿が羌族の間で名を馳せるシーエイではないかと思い至りましたが、どうやら合っておったようですな」
董卓が羌族でシーエイと呼ばれていることは一部の人間しか知らない。
父母はもとより弟の董旻にも最近まで知らせていなかった。
その名を知らしめたのが、この昭武城での戦いだ。
烏吾配下の猛将で、元先零氏族の夷分を挑発するために昔の名を出した。
それがきっかけで参加していた諸郡の兵士の間で董卓=シーエイということが広まったようである。
涼州人として、羌族は畏れの対象であり、その羌族の中で名を知られている漢人というものは畏怖の念を持たれるに相応しいものだ。
董卓自身が知らぬ間に、シーエイのことはかなりの範囲で広まっていた。
さて、この牛鉄という男が語ったのはこういうことであった。
祖先の縁から、牛家は狄道にある本貫の他に郡の外れに小さな屋敷を持っていた。
狩りをする時にはその屋敷を使うのだが、この頃の情勢からそこらが襲撃の対象にならないように詰めていたのだそうだ。
そこに知り合いの羌人が訪ねてきたそうだ。
その羌人は幼い子供を連れていた。
子の親は同じ羌族の襲撃にあい、命を落としたのだそうだ。
「その子供の親が、シーエイならなんとかしてくれる、と言うておったそうなのです」
と牛鉄は言った。
董卓はここ数年、同族に襲われた邑とやらに覚えがあった。
零晶だ、と。
董卓がシーエイと名乗っていた頃に助けられ、ティナに会った場所だ。
その邑は、滇那が己の覚悟を部下に示すために襲われた。
同じ血筋の先零の狼凱からの知らせでは、族長以下皆殺しにあったようだとあった。
だが、逃げ延びた者がいたのか。
「その親御は亡くなられた、と?」
「ええ。知り合いが出会った時には虫の息であったそうで。……そうそう“トゥウンの友たるシーエイに我が子をたくす”と言って事切れたそうです」
トゥウン。
どくりと心の臓が強く跳ねた。
その名は友の名として記憶に残っている。
零晶の邑で狩りをしたり、馬の世話をしたりした。
ティナの姉、スイナの夫だ。
ということは、だ。
その子供を預け、亡くなったのはもしやスイナなのではないか?
妹に襲われた姉が逃げ延びて、見知らぬ土地で命を落とす。
憐憫というにはあまりにも生々しい感情が董卓の胸中をかき乱した。
「その子は……」
「赤子のうちから親のいなくなるのは羌の子としても不幸なことですな」
「赤子?」
「ええ。赤子ですな」
トゥウンとスイナの子は十年前に生まれているはず。
董卓とティナが零晶の邑を出る際に、子ができたとトゥウンに告げられたことを今さら思い出す。
子を見に帰ってこいよ、という約束のことも、今まで忘れていた。
その子も亡くなったのだろう。
預けられたのは弟か妹か。
トゥウンとスイナの第二子か、その後の子だろう。
「牛殿は、その子をどうなさるつもりでしょうか」
「私は、とりあえずシーエイという人物に預けようと思ったのですが」
トゥウンとスイナの子ならぜひ引き取りたいところではある。
しかし、今の董卓にはそうすることができない。
戦無頼の明日をも知れぬ身で、子を引き取ることはそもそもできぬ。
かといって年老いた両親には、すでに甥の阿横を任せている。
新たに赤子を預ける余裕は無いだろう。
これで董卓か董旻のどちらかが妻帯していれば話は別だが、今のところ予定は無い。
部下の誰か、ということも考えたが粗暴な者が多い董卓隊には親として相応しい者は……まあいない。
悩んでいる董卓を見て牛鉄が口を開いた。
「ならば私共が育てましょう」
「それは……」
「まあ私も祖先の遺産で暮らしているようなもの、誰かの役に立つのならば牛孺卿もお許しくださるでしょう」
「ありがたきことです」
「というて、涼州で名を挙げつつある貴殿との縁がこれまでというのも惜しい話。どうでしょう、その子に貴殿が名をつけてやるのは」
「私が?」
「どうやら貴殿の顔を見る限り、その子には親類縁者がおらぬ模様。かといって元の羌族にも襲われている以上、返すのも可哀想と思いましてな」
「ならいっそのこと、漢人として育てると?」
「ええ。そして、その名をゆかりのある貴殿につけてもらえれば子の親も喜ぶでしょう」
トゥウンとスイナ。
託された、という思い。
助けられなかった。
約束を守れなかった。
なにより、その約束すら忘れていた。
それに苛まれるような精神を、董卓は持っていなかったが心のうちに重しのようにそれは残っている。
その子には幸せに生きてほしいか?
いや、その子もまた董卓に縁がある以上、武の道へ進むことだろう。
護羌校尉の家系に拾われ、育てられるというのもその証だ。
ならば俺を助ける存在になればよい、と思う。
自己中心的、といえばそれまでだが、それが董卓である。
「輔。それがその子の名です」
「誰かを輔く。ということですな。ならば牛家の輔、牛輔ですな」
その子、牛輔は後に董卓の娘婿となり、董卓軍団の中枢として活躍、いや恐れられる人物になるのだが、それは後の話である。
牛鉄は去り、董卓の部屋には静寂が戻った。
誰もいなくなって、はじめて董卓はぬぐいがたい喪失感に気付いた。
牛鉄との会話でスイナとトゥウンのことを思い出したのをきっかけに、あの頃のことも連想してしまった。
共に旅をし、助け合い、愛し合った彼女のことを。
その彼女を自らの手で殺したことを。
けっして恨みあっていたわけではなかった。
むしろ、この十年あまりずっと会いたかった。
戦いあい、殺しあうことになったことは後悔はしていない。
だが、それと二度と会えなくなることは違う。
声が聞けない。
体を抱けない。
彼女の魂魄は体を去り、天と地へ別れた。
その亡骸は董卓が密かに引き取り、地に埋めた。
漢人になぶりものにされたり、首を落とされて都で晒し者にされても面白くない。
十年、董卓の心の中を大きく占めていた彼女の存在がぽっかり失くなって、董卓自身が空っぽになった気分だ。
それに加えて、共に戦った仲間や上司が去るというのだから、空虚感に拍車がかかったのだった。
ふと、外の音に気付いた。
人が大きく減った昭武城の中庭で調練をしている者がいるようだ。
体の痛みもそれほど感じないと董卓は寝床から起き上がり、ゆっくりと中庭に向かった。
「ほれ!動きが鈍いぞ。そんなのであの羌族に勝てると思うな!」
大声を出しているのは張済だ。
そういえば奴とは野盗の襲撃の時に出会ったのだったな。
あの頃は互いに若かったな。
羌族の村に漢人が紛れ込み、その村を漢人が襲うなどと。
その張済が野盗まがいの李傕などを指導しているのだから、面白いものである。
「あ!叔父貴!動いて大丈夫なのか!?」
と共にしごかれていた樊稠が声をあげた。
「大将!」
「隊長、元気ですか!」
董卓に気付いた他の者らからも声があがる。
張済がやれやれというような顔をして、調練は中止になった。
ひとしきり、董卓を皆で囲んだ後、再度調練が始まると横には張済だけが残った。
「なあ、張済」
「ん?」
「お前、野盗だったよな」
「あんだよ、今さら」
「俺も一つ大きなものを盗ろうと思う」
空っぽの董卓の中に、一つの野望が詰まったのだ。
「大きなもの?」
「この国を丸ごとぶんどってみようじゃないか」
張済は口をあんぐりとあけた。
その顔を見て、董卓は笑った。




