六十二、三日目。恐怖の嚆矢
「俺の予測が甘かった」
二日目の夜、董卓は頭を下げた。
自信家で、部下にはある種傲慢にも見える態度の彼がそういうことをするのは珍しい。
戦局がここまでなった責任を感じていることは部下たちにも分かった。
昼前まで董卓隊は押していたが、董卓と滇那が顔を合わせたあと滇那軍の大反撃によって一気に押し返され、開戦前の布陣の場所まで押し込められてしまった。
勝利が見えたところをひっくり返され、エサをお預けされた犬のように董卓隊の士気はがっくりと下がってしまっていた。
「予測とは」
「敵が二万いる。それは俺の予測の範囲外だった」
「……」
誰も声を出すことができなかった。
この隊はほぼ董卓の豪腕で引っ張ってきた隊だ。
その董卓が気落ちしていると誰もそこから先へ行けないのだ。
張済も董旻も、若手三人も何か言いたそうに口を開きかけて、言葉が出ずにまた閉じる。
「お主の仕事はそこで下を向いていることか?」
沈黙を裂くように巴才の声が天幕の中に響いた。
パッと董卓は顔を上げた。
「巴才殿……」
「私は刺史様と孫太守殿の頼みでここにいる。正直、我らは捨て駒かもしれん。しかしだ。お二方がお主ならできると期待しているということでもあろう。ならば万の敵が相手であろうと戦うのが貴殿の仕事だ。違うか?」
元々、一万相手に三千で送り出された隊である。
多少の兵力差ならどうにかする、と董卓が期待されていたということだ。
初手がよくなかったな、と董卓は心の内で笑う。
千の兵で二千を蹴散らしたのがこの事態を招いた。
兵力差でいえば今とその昭武城の夜戦は似ている。
こちらが千、あちらが二千。
今はこちらが八千、向こうには二万。
だが条件が違う。
あの時は夷分一人を倒せば敵が瓦解したのだ。
今度は百騎を率いる百の羌の将を倒し、そして滇那を倒す。
「ああ、なるほど」
「なるほどとはなんだ!?私の話を聞いていたのか?」
自身の問いとは違う反応した董卓に巴才は戸惑う。
「二万と見るから嫌になるのであって、百を二十回戦えばよいのだ」
「は?」
突拍子もないことを言い出した董卓に巴才の戸惑いは深みを増す。
しかしそれを意に介さず董卓は首を横に振る。
「いやもっと簡単に考えろ。将を討てば兵は崩れる。なれば討つべき敵は二百余だ。それを前提に陣を組めば」
「と、董従事……?」
董卓は自信ありげな笑みを浮かべて立ち上がった。
「明朝早くに陣を組み直す。その後はそれから考える。ゆえに今夜の軍議は終わりだ。皆休め!」
董卓配下の顔がぱあっと明るくなり「やっといつもの大将だぜ」とか言いながら解散していく。
ガアカや王国ら知己の将らは「方針が決まればそれでよい」とばかりに天幕を出ていく。
そして董卓が自分の天幕に戻ると、そこには戸惑いが限界を迎え混乱した巴才だけが残されたのだった。
翌朝、董卓の指示によって隊の陣形が変えられた。
初日の三つの二、三千の部隊が中央、左翼、右翼に配置されたものから、二日目は両翼にほとんどの兵力を分散したものへ。
そして三日目の今日は中央に弓兵を配置し、そこから千ずつの騎兵を四隊置いた形だ。
弓兵は手練れの王国兵、姜家兵、巴才率いる漢陽兵など、騎兵はガアカ、李傕、郭汜、樊稠の四人が率いている。
包囲に特化した横陣の応用である鶴翼の陣に似ているが、その機能はまったく違うものだ。
「これは謂わば狼の顎よ」
董卓はそう言った。
戦闘が始まるとその意味がわかった。
弓兵によって誘い出された敵の一隊が突出したところ、左右からガアカと李傕の騎兵が攻撃を加え、布を引き裂くよりも簡単に相手を倒した。
二万対八千では勝ち目がないが、百対二千ではこちらの勝ちだ。
それを相手が退くまで続ければよい、それが董卓の考えだ。
勝つための戦いを負けない戦いに変えた。
そのことは(若手三人以外の)将たちにはわかった。
本来の羌族滇那軍を討伐するという使命からは外れているが、現状どうにもならないということを皆分かっている。
それに董卓ならなんとかするだろうという信頼があり、特に不満は出なかった。
開戦すると滇那軍は様子見か、一気に叩くか迷いがあったようでなかなか動きはなかった。
そこで董卓は誘うようにガアカの隊に攻撃をさせた。
迎撃に出た隊は援護に出た郭汜の隊が挟撃し、一気に削り取る。
突出した敵のみを倒したガアカと郭汜は元の陣形を取る。
「ふうん。迂闊に動くと咬まれてしまうのだな」
となかなかに統率の取れた動きを見て滇那は笑う。
昨日の打ちひしがれた様子から一晩でがらりと陣形を変えてきた董卓への評価をさらに高める。
「どうなされますか」
一日目の戦いで重傷を負い後方へ撤退した烏吾に代わり、滇那に付き従うことになった厳快という若者が聞いてくる。
彼は滇那の鍛え上げた百騎の一人であり、昨日中央から漢軍の目の前にやってきた内の一人でもある。
その顔には自信が溢れているが、烏吾ほどの素直さが無いので滇那の中での重要度は低い。
「兵を小出しにしてもああなるのなら、一気に行くか」
滇那は本隊から十騎分千人を抽出し、そして一日目二日目でぼろぼろになった前軍八千を指揮させることにした。
この前軍は各氏族から迅らが集めた兵だ。
滇那自ら鍛えた兵ではないので、忠誠心はそれなりだが能力は高くはない。
漢軍に何度も負けているのがその証左だ。
ならば相手の戦力をなるべく削り取って使い潰すのが良い使い方だろう。
役に立たない兵とはいえ、いるだけで飯は食う。
冬を越えたとはいえ、兵糧に余裕があるわけではない。
野山の獣を狩るにも限界はあるし、漢人が作る穀物は秋にならねば実らない。
同数の相手に襲われても董卓ならむざむざとやられはしないだろうという予測もあった。
九千の羌兵が動き出したのを見て、董卓隊に動揺が走る。
「董従事殿、き、来たぞ」
「落ち着いてください、巴才殿。あれは昨日の奴らではなく、こちらが勝っていた相手です」
昨日の精鋭百騎のことは巴才もよく覚えている。
と同時にそいつらさえ出てこなければ勝てていたという思いもある。
「な、ならば行けるか?」
「俺は弓も得意なのですが」
「は?」
董卓は弓を引いた。
この弓は遊牧民たちが使う短弓とは違い、南楚で使われる長弓である。
速射性能には劣るが、威力は高い。
鎧程度なら貫くほどに。
放たれた矢は董卓の視た“白い点”に従うように突き進み、その先にいた“百騎”の一人の頭を射抜いた。
どよめき、あるいは恐怖の声がそこから響いた。
「動きが止まった。二人目」
董卓はそう呟き、また矢を放つ。
弦を引くのに時間がかかる長弓とはいえ、相手が足を止めればその時間は稼げる。
二射目は“百騎”の一人の左肩を射抜き、その将を落馬させた。
董卓からは見えなかったが恐慌を起こした馬たちが落ちた者を踏みつけてしまった。
「ふ、二人目?」
「見当が外れているな、もっと集中し」
董卓は三射目を放った。
三人目の“百騎”の頭に吸い込まれるように矢は突き刺さり、相手を絶命せしめた。
董卓の長弓はそこで折れてしまった。
彼の全力に弓が耐えきれなかったのだろう。
たった三射だった。
しかし、その三射が敵全体に恐乱を巻き起こした。




