三十二、神降る
「もう一つの資格!?」
「そう。それは許であること」
忍氏族の豪帥であり、心那の父である迅は笑う。
「それがどうした、というんだ」
「我ら忍氏族が得意とすることを知っているかね」
ティナは知っていた。
羌の中でも古い氏族である忍氏族は、今は廃れた業も受け継いでいる。
そして、とびきりの古い業も。
「神降ろし」
許であること、それは羌の行事、慣習、神事に通じているということだ。
それは同時に、そういった業への感応力が高くなっているということでもある。
その“神降ろし”への感応は許の修行をすればするほど高まるということだ。
「そうだ。各地の許から教えを乞うたお前の力はまさに神を降ろしの器に相応しい。そして我が娘心那も同様だ。さあ来たれ、古き神よ」
迅は何か呪文のようなものを呟き、派手な身振りで術を施した。
その時、ティナの精神が変容した。
ティナ本来の人格は、まるで水の中に落ちたように不明瞭になった。
そして、体を何かが動かしている。
(蚩尤!)
声なき声を放つが、それは誰にも届かない。
本当の名前さえわからない“神”がティナの体を動かして、戦っている。
便宜的に名をつけるならそれは“蚩尤”となろうか。
まるで武術の達人のように、ティナは戦っていた。
限界を超えた駆動に骨が軋み、肉が悲鳴をあげる。
そして、同じように神を降ろされた心那もまた、同じように体を軋ませて戦っている。
ティナの剣と心那の短刀がお互いに深手を負わないように煌めき、夜を切り裂くように舞っている。
「ああ、素晴らしい。二つの神がこうして夜を斬っている。ついに羌の王帥が生まれるのだ」
迅は笑う。
彼は荒削りながらも羌族の勢力圏を謀略で拡げる頭脳を持ちながらも、その本質は狂気だった。
今までの十年を全て無為にしてもなお、羌の王帥というものを求めているのだった。
「何をしているのだ!心那!?」
さすがに庭でこのような剣戟が繰り広げられていては、寝ていた董擢も起きる。
「これは良師様、実に良き夜ですな」
「迅老補!?何が起こっているのだ、心那はなぜ戦っている!?相手は誰だ」
「老補、か。良師を補する老人、という名は今宵で終わりだ」
「何を!?」
「良師殿が大将軍梁冀への反意を示したことを役所が知るところとなりました」
その、ひどく冷静に迅が言ったことを、董擢は噛み締めるように聞き、理解が及ぶとともに青ざめた。
「な、なんだって……」
「どうやら蚩尤殿の方に役人が来ているようですな」
「え、え、え!?」
「存外に脆い精神だな」
うろたえる董擢に吐き捨てるように迅は呟いた。
さて決着か、と迅は戦う二人に目を戻した。
ティナと心那の戦いは互角、ではなかった。
共に羌族であり、その基礎は同じだ。
そして、降ろされている“蚩尤”も同格。
だが五年の間、漢人の妻として馬に乗ることもなかった心那と草原を駆け、弓矢で狩りをしていたティナとは積み上げたものが違うのだ。
一撃の重さ、身のこなし、筋肉。
その全てをティナが心那を上回っていた。
心那の踏み込み、それは張烈のような達人に匹敵するほどの鋭さだった。
だが、その動きに心那の足が耐えきれなかった。
バギ、という音。
足首か、あるいは脛の骨が折れたのだろう。
ぐらりと傾きつつも、なおも勢いを止めずに心那は突っ込んでくる。
痛みを感じる場所が麻痺しているためにその歩みは止まらないのだ。
だが、お世辞にもその攻撃は神技とは言えなかった。
“蚩尤”が降りているティナはほとんど無駄な動きをせずに、心那の攻撃をかわし、足をかけ転ばせた。
その手には剣。
刃が月光を反射し、ぎらぎらと輝いている。
ティナの中にいるティナは絶叫のように止めろと言っていた。
けれどそれは声にならず、“蚩尤”は意に介さない。
振り下ろされた刃が、肉を貫く感触。
男の叫び。
ティナの剣が貫いたのは、心那に覆い被さった董擢の背だった。
背の君の叫びに、心那に降りていた神が離れていった。
「あなた!?」
「だ、いじょうぶ、か?」
「なんで、なぜ?」
「妻を、救うのは夫の務め、であろう」
「擢様」
「ああ、そなたは暖かいな」
董擢が逝ったのが心那にはわかった。
魂が離れて、残った魄が重さとなって落ちていくのが感じられた。
利用するために嫁いできたのは確かだけれど、それでも子を作るほどには愛していた。
「あ、ああああああああああああ!!!!!???」
嘆き。
叫び。
そうするしかない娘を見て迅は興味なさそうに横を向く。
「忍氏族はやはり神降ろしには向いていないな。故に伝承が残ったとも言えるか」
そうしている間に、蚩尤は止めをさす邪魔をした肉塊を蹴りどかした。
「止めろッ!」
戦うべき相手はもう去ってしまった。
しかし、勝負はまだついていない。
それが蚩尤の考えていたことだ。
だから枷となった肉をどかした。
それだけだ。
心那は董擢の亡骸を無下に扱われて激高した。
足の痛みなど感じなかった。
跳ねるように立ち上がり、短刀を蚩尤に向けた。
渾身の一撃も、しかし届かない。
一閃したティナの剣が短刀を弾き飛ばし、そのまま心那の胸に吸い込まれるように突き刺さった。
「ティナ!」
刃をさらに深く捩じ込もうとした時、聞こえてきた声に蚩尤は振り返った。
蚩尤殿で戦っていた董卓と張済たちは、打ち合わせ通りに作戦が行ってないことを感じていた。
「火があがらんな」
張済が返り血を浴びた顔を拭きながらそう言った。
蚩尤方らの抵抗はほとんど無くなっていた。
後はこの建物に火をかけ、一切合切を灰にしてしまうだけなのだ。
「張済」
「ん、ああ」
「ここは任せたぞ」
「任された」
後は張済のことを見ずに、董卓は駆け出した。
つい数日前に話を聞きに訪れた蚩尤殿の中は、もう霊的な神聖さなどはまったく感じられなくなってしまった。
そこらに死体が転がっている。
「士到!いるか!」
走りながら董卓は命を預かった奴婢の青年を呼んだ。
蚩尤殿で戦った相手の中に士到がいなかったのは確認済みだ。
そもそも、奴婢は家中で働くのが務め、襲ってきた相手と戦うのは役割が違う。
だから士到は無事だと確信していた。
「は、はいい」
「良し、もうここは終わりだ、逃げろ」
「逃げ、逃げたいですけど、どこに?」
「入り口に俺の仲間がいる。そこまで行け」
「仲間、というと、あの黒い服の?」
数日前の中庭で、黒装束をまとった張済と士到は会っている。
「そうだ」
「あの人は、怖いです」
「怖いって……ここにいるともっと怖いことになるぞ」
「私は奴婢です。でも、あなたは私を人間にしてくれる、と言いました。だからあなたを信じます。あなたについていきます」
「……そうか。気を付けろよ。守ってる余裕はないかもしれぬ」
もう士到を追い返す暇は無かった。
余裕も。
「はい」
「行くぞ」
董卓は士到を連れ、蚩尤殿を進む。
元の董家だった広間を抜けて、兄一家が住む紅旗殿に向かう。
その中庭にたどり着いた時、そこは惨劇の現場だった。
董卓は、兄嫁に剣を突き刺しているティナの名を思わず呼んだ。




