三十一、羌の王帥
声の主の顔を見た時、ティナの心臓がどくんと跳ね上がった。
「ココナ……?」
思わず口にした名前は、あまりにも懐かしい人物だったからだ。
「……ティナ……?」
向こうも名を呼んできた。
二人にとってこの邂逅は予想外にもほどがあるものだったようだ。
羌族には祖霊を祀る儀式がある。
始祖である無弋爰剣、そしてその後に続く祖先の霊が迷わずに子孫たちを導いていくために慰める儀式だという。
直系である忍氏族、焼当氏族らは数年に一度集まり、その儀式を行う。
ティナと心那が参加したのは十二年ほど前の儀式だ。
漢民族との争いが徐々に激しくなりつつあった当時、焼当氏族と湟中の忍氏族らの交流は制限されつつあり、往来はほぼできなくなっていた。
それでも、大切な儀式のため少人数で集まり行うことに決まった。
焼当からはティナの父、ティナとスイナの姉妹、焼当の許、焼当の戦士長と護衛の戦士数人の十人ほど。
忍氏族からは豪帥、忍の許、忍の戦士が五人ほど、そして心那だ。
子供たちが儀式に参加したのは、大切な儀式のため継承させるためだったろうか。
そんなことは当時のティナにはわからなかった。
儀式そのものは幼い子供には退屈で、一日中続く呪文のような祝詞や焚かれた火がどことなく怖さを演出して、逃げ出したくなったのを覚えている。
姉のスイナは後継者として儀式に真面目に参加していた。
思えばこのころから焼当の許はスイナがなるはずだったのだなあ、と今では思う。
退屈で怖い儀式を耐えきれたのは、心那がいたからだ。
同じ年頃の少女もまた、儀式に退屈さを感じていたようで二人はすぐに意気投合した。
気の合った二人は儀式の合間に馬で駆けたり、弓当てをしたりしたのだった。
その遊びが女の子らしくないのは、それが草原の民の慣習だからだろう。
そもそも、女の子らしく、というものがわからない。
漢民族の女の子はどういった遊びをするのだろう、と思ったことを覚えている。
その記憶は、今の今まで記憶の奥底に沈められていた。
焼当の村が襲われたのはそれから一年ほど。
だから、それ以前の記憶はティナの中で薄れていた。
けっして、忘れてしまったわけではないけれど、思い出すと辛くなると分かっているから心が思い出を沈めていたのだ。
十二年たってからの再会。
お互いに成長している。
それでも二人は相手のことがわかった。
「どうしてここに、っていうのは無駄な問いね」
とティナは言った。
ここは忍氏族が羌族の起こすであろう大乱の隴西における拠点。
忍氏族である心那がいて当然なのだ。
「あなたがここにいる方が不思議なのだけれど」
「……そうね。そうなるよね」
「その格好、お仲間さんから見るに私たちに敵対している、のよね?」
火をつける道具を探すために覆面を外していたのが仇となったのか。
まあ見るからに黒装束の怪しいやからと一緒にいるのだ、敵対していると判断されるのは仕方ない。
事実、敵対しているのだ。
董卓と蚩尤方は。
「だったらどうする」
「……あなたがいれば無益なことをしなくてもすむ、かもしれない」
「え?」
てっきりここであなたを倒すわ、のような言葉を吐かれると思っていたティナは面食らった。
和解できる選択肢があるということに安堵し、しかしそんな簡単に和解できるのか、ということに疑問を感じた。
「私たちはいわば焼当の代わりをしているの」
「焼当の代わり?」
「そう、無弋爰剣の後継として羌族全てを統べていく焼当は滅びた。ならば爰剣の祭祀を受け継ぐ我ら忍氏族がその代わりを担うしかない。私たちはそう思った。けれど」
「けれど私が生きていた。焼当氏族を継ぐ可能性を持つ私が」
「そう。あなたが旗印となって羌を統べれば良い」
心那の顔は喜びに溢れていた。
それはティナが生きていた、という喜びではなく、もっと別の、そう命が助かったとでも言うべきものだった。
事実、心那の命は失われるところだった。
大将軍への反逆を企んだ董擢の妻として、処刑台の露と消えるのが彼女の役目だったのだから。
「私は……」
ティナが何か言う前に、心那は絶望の表情で何かに気付いた。
「ああ、でも既に役所に密告が行われてしまった!」
そう、この策の始まりである商人、劉甲が董擢の話を聞き、恐れを成して役所に駆け込むという行程は既に行われてしまっていたのだ。
例え、忍氏族が考えを変えたとて、もう事態は動き出している。
だが。
「それは、私たちが止めた」
絶望から希望にくるくると心那の顔色が変わる。
そう。
劉甲は董卓らに捕まり、役所への密告ができなくなっていた。
忍氏族の策は止められているのだ。
「でも、ちょっと待って。ならば蚩尤殿にやってきたのは何者……いえ、そもそもあなたたちは何をしに?」
「ココナ。私たちは忍氏族のやろうとしていることを止めに来た」
「私たちのやろうとしたことを?」
「そうだ。羌族のためだということはわかる。けど、そのために董家の人たちを犠牲にするのは間違っている」
「間違いって……私たちはもう始めてしまったの。止める方法はあなたが羌を統べるしかない」
「私たちが止める」
「そんなこと」
二人の言葉の応酬に気を取られたか、張家の密偵たちは突然、糸が切れた人形のように倒れた。
「この緊急時に時間をかけすぎだ」
暗闇から歩みでてきたのは五十ほどの男だ。
濃紺の胡服をまとい、手には見るからに鋭い短刀を持っている。
その人物に、ティナは見覚えがあった。
「迅殿か」
忍氏族の豪帥であり、心那の父であるこの男のことをティナはよく覚えていない。
会ったのは爰剣の儀式の時だけであり、心那のように交流しあったわけではない。
顔と名前を覚えていただけでも立派だろう。
「なかなかの手練れたちだったがまだまだ甘い。戦いの最中に背への警戒を緩めるなど」
すまない張済と心の中でティナは謝る。
せっかく助けに来てくれた人をむざむざと殺されてしまった。
「お父様……」
「お前の定めは氏族の、いや羌族のために死ぬことだ。覚悟を決めろ」
「そんな……」
「だが、お前にも機会をやろう」
迅はティナと心那を見た。
「……」
「滇那と心那。お前たち二人で戦え。勝った方を羌族の王帥と認める」
「私はそんなつもりはない!」
ティナは迅の考えがまったく理解できなかった。
父親が、娘に死ぬことが定めとのたまったり、殺し合いをさせようとしたり。
「羌は長らく王帥を失っていた。豪帥を統べる羌の王だ。そしてお前たち二人にその資格がある」
「だから何を言っているか、わからない!」
「爰剣の子孫であること、それが第一の資格だ。だがその資格を持つ焼当氏族は滅びた。ゆえに我ら忍氏族は羌を漢との戦に駆りだし新たに資格を持つものを作ろうとした」
迅の顔には懊悩も苦悶もない。
それが当然である、と。
確信している。
「資格を持つものを作る?」
「それはもう要らぬ。お前が現れたからな。第一の資格を持つ滇那よ」
「お父様、私は、私はどうすれば」
「草原の民の掟だ。奪い取れ。この娘から資格を奪え。命を奪い取るのだ!」
ぶるぶると震えながら心那は懐から短刀を取り出した。
「私は要らない。そんな資格!」
「要る要らないではない。お前はもう持っている。運命だ」
「何を!」
迅は手を広げ、二人に伸ばす。
「そして、お前たちはもう一つの資格を得ている」
迅の顔には笑みすら浮かんでいた。




