二十六、蚩尤殿
「ようこそ、蚩尤殿へ」
臨洮の我が家のあまりの変わりように、シーエイは呆れてしまった。
元々、董家は臨洮の城市から離れたところに居を構えていた。
予州から流れてきた董家は、城の壁の中に住むことはできず、城の外に行くしかなかったのだ。
山と森に囲まれた臨洮で新たに土地を得るには、森を開墾するほかない。
董卓も父と兄を手伝い、森を開き、地を耕し、家を建てた。
家の周囲は石壁で囲み、賊や獣の侵入を防いでいた。
石壁の中は庭となっており、季節の花が咲いていたことを覚えている。
壁の外はさらに開墾し、わずかながら畑を作り、野菜を植えた。
そんな苦労して作った庭や壁や畑は大きな建物に侵食され潰されていた。
「蚩尤、殿、か」
建物もさることながら、その前に立っていた案内人らしい娘の言った名前がシーエイには気になった。
蚩尤は古代の戦神だ、と言う。
銅の頭に鉄の額、牛の角を生やし、足は鳥の蹄だという。
目は四つ、腕は六本。
まさしく異形の姿であるが、それがかえって武に生きる者の信仰を集めた、のかもしれない。
古代の帝である黄帝に反乱したが、敗れたとある。
赤い色は蚩尤の色とされ、その色の旗を威勢を示すために掲げることがあった。
その姓は姜。
羌族の羌とは字が違うが、共に羊と人、羊と女という遊牧民族の姓であり、同じ祖先を持つのではないか、という説もある。
そう考えれば、羌族である忍氏族が蚩尤の名を屋敷に掲げるのは理にかなっている、のかもしれない。
そんなことを知ってか知らずか、案内人の娘はにこにことこちらを見ている。
桃色の胡服の上に色とりどりの花柄が刺繍された上着、髪にはいくつも連なった玉飾り、襟元と袖にも細かく美しい刺繍がほどこされている。
一目見ただけで異民族的な美しさが感じられる衣裳だ。
あの、零晶での花夜のことを思い起こさせる。
あの時も、零晶の羌人たちは美しく着飾っていた。
その衣裳の記憶が、目の前の娘と重なる。
「つまり、ここが忍氏族の拠点となっていることは間違いない、ということか」
ぼそりと呟くシーエイ。
「あの……ここにご用があるのではないのですか?」
案内の娘が首をかしげて聞いてくる。
確かに、このままでは不審者だ。
シーエイは笑顔を浮かべて言った。
「天神の導きを受けに参りました。どうか、この蚩尤殿に入れていただきたい」
案内の娘は笑顔を浮かべる。
「やはり入信希望の方ですね。どうぞ、中に良師様がいらっしゃいます。きっと導きをくださるでしょう」
促されるまま、シーエイは見知らぬ実家に入っていった。
その背を見つめる娘の笑みがどよりと濁ったものになったのは見ることができなかった。
張家の手勢と合流したシーエイらは、全員で臨洮の宗教団体の施設に入ることを断念した。
厳つい武人が数十人、入信したいと言っても信用されまい。
また、ティナの同行も無理だとなった。
見るからに羌人であるティナが、羌族の作った宗教団体に入信など不自然だ。
となると純朴そうな青年であるシーエイが入ってみるのが一番自然である。
「何かわかったら合図しろよ」
張済の言葉にシーエイは頷く。
「単家の青年というていでいくが、どこまで調べられるかはわからん」
「危ないことはするなよ」
というティナにもシーエイは頷く。
「俺が帰らなくてもあわてて突入するなよ」
「私としては、この忍氏族の目的が知りたいからな。敵対状態になる気はないよ」
「そうか」
とかいう話をして、シーエイは単独で忍氏族の拠点に潜入することになった。
蚩尤殿の中は真新しい木の匂いがした。
つい最近、シーエイが旅立ってからの一年の間に出来上がったようだ。
臨洮の城の外にある董家は、こういう怪しい団体が入り込み拠点とするのにふさわしい。
それでも昨年まで待っていたのはなぜなのだろうか。
董卓が邪魔だった?
よく、わからん。
奴卑らしき男がうろうろしているシーエイを見つけて、呼び止めた。
「もうすぐに良師の講話が始まります。大広間へお越し下さい」
「今日入信したばかりなのです。案内いただけますか?」
シーエイがいたころには居なかった奴卑の若者は気の毒そうにこちらを見た。
それでも自分の仕事を思い出したようで感情を殺したような声で「こちらです」と言った。
奴卑の態度から、たいして金の無い入信者はろくでもない扱いを受けているようだ。
とはいえ、金があったらあったで貢がされたり、家を乗っ取られたりするようだから、どちらがマシかはわからない。
関わらないのが一番マシだが。
大広間はかつての董家の家の壁をぶち抜いて作ったとおぼしき広い部屋だった。
一番奥に一段高くなった場所があり、そこだけ板張りで後は地べただ。
金持ちは椅子や台を持ち込み、単家は土の上に座る。
一つの組織の中で上下関係を作るのは悪くないが、入信者同士の対立を煽るようなことをするのは悪手だ。
仲間同士手を組まねば最大の力を発揮することはできないからだ。
この団体はそんなこともわからない馬鹿の集まりか、それとも漢人同士の関係などどうでもよく、ただ利用しようとしているだけか。
まあ、後者だろうな。
羌人が運営しているのだ。
漢人が土で汚れようが、身分差の対立が起きようがどうでもいいのだろう。
シーエイは土の上に座り、講話とやらが始まるのを待った。
良師、とかいう者が何か良い話をする。
その話次第で行動を起こすか。
「大擢良師孟高君のお出ましなり、平身低頭にて出迎えよ!」
やけに良い声で言い渡された事柄に、信者たちは身分に関係なく頭を下げた。
シーエイも真似をする。
土の匂いがする。
やけに重そうな衣擦れの音がして、板張りの上座まで歩く気配がした。
そして、座る音。
「我らが天神道の子らよ。面をあげよ」
よく通る声に信者たちが顔をあげる。
そして、眩しさに目を細めた。
板張りの上座の後ろでかがり火が焚かれていて、それがまるで良師の後光のように煌めいているのだ。
演出の妙だな、とシーエイは感心した。
光と影の使い方で神秘性を演出しているのだ。
それによって単なる田舎の青年でも、いっぱしの天神の使いに見えなくもない。
顔はよく見えないが、その声と気配、影でシーエイは良師の正体がわかった。
そもそも、名前を知っていればわかる。
大“擢”良師“孟高”君 。
董卓の兄、である董擢孟高である。
兄のあまりの変わりようにに、シーエイは唖然とした。
そのシーエイの視線と良師董擢の視線が交錯した。
火の灯りによって影しか見えないが、向こうが動揺したのがわかった。
どうやら、土間に座るシーエイのことに気付いたようだった。
それでも慣れたように話を始める。
内容はと言うと、古えの人は、野草、水、木の実、貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること。あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否を教え、民衆に知識を広めた。
まさにこのとき多くの植物をたべたので神農は一日に七十回も中毒した。
という話だ。
シーエイはそれが淮南子という武帝の時代に編纂された書物から、そのまま話しただけだが知らない者にはためになる話なのかもしれない。
しかし、シーエイはそれを最後まで聞くことができなかった。




