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董卓伝暴狼記  作者: サトウロン
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十六、青海湖に見た夢のこと

「やあ、昨夜は楽しかったね」


 と声をかけてきたのは旅装をした壇石槐だ。


「早いな。もう立つのか」


 シーエイの言葉に壇石槐は頷く。


「まあね。友人と酒を酌み交わしたし、本拠地を長く空けるわけにはいかないしね」

「そうだな。まさか鮮卑の大人がこんなところにいるとは誰も思わんだろうし」

「ギリギリ戻るまで統率が持つような日程では来ているけどね」

「これからは敵同士かな?」


 シーエイの問いに壇石槐は笑った。


「お望みとあらば朧西だけは襲わないようにしようか?」

「そんなことはするな」


 壇石槐は提案が断られたことに驚いた。


「君の故郷を襲っていい、と?そんなに嫌いなのか?」

「いや。朧西だけ襲わないとなると漢にお前との関係を疑われる。そうなると面倒だ」

「まあ、それは確かになんだけど。そこらへんは上手くやれるよ。鮮卑ぼくらは」

「もう一つ理由をあげるとしたら。この先、俺が武功をたてる機を減らすことになる」

「武功?」

「羌で名声をあげつつ、漢でもある程度の地位を得る」

「それは……面白い」

「本気で来い。俺はのしあがるためにお前を利用する」

「うん。いいよ。僕を利用してくれ」


 壇石槐にとって、それは歪んでいるものの対等の存在としてシーエイを認める、という意思の表明だった。

 そんな人物は少ない。

 この羌の地では北宮伯玉くらいしかいない。

 対等な友。

 得難いそれを得たことを壇石槐は喜んだ。

 しかも、その新たな友人は戦うというのだ。

 この歴代最強の鮮卑族と。


 笑いが止まらないような壇石槐を見送って、シーエイたちも旅支度をすることになった。

 ティナの旅の目的である許の修行ができない以上、湟中に逗留するといえど帰りの算段もせねばなるまい。


 それを見た李文は「であれば一度、青海湖に行ってみてはどうかな」と二人に告げた。


「青海湖?」

「この湟中のさらに西にある海のごとき湖のことだ」


 と言っても私も海を見たことはないが、と李文は続けた。

 もちろん、知識のうえではシーエイも海を知っている。

 青く果てまで続く水、波が寄せては返し、その味は塩辛いなどだ。

 しかし、涼州の田舎育ちのシーエイは海を見たことはない。

 なので海のごとき、と言われても実感はわかなかった。


「行ってみよう、シーエイ!」


 珍しくティナが乗り気だった。


「そんなに行きたいのか?」

「だってでっかい水の塊なのだろう!水は貴重だからな!そんなのがあるなら見てみたい」

「なるほどなあ」


 水は草原では貴重だ。

 どこに水場があるか把握するだけで旅はかなり楽になる。

 逆にまったく水を持っていなければ、よほど運が良くなければ野垂れ死にする。


 つまり、草原を荷物なしでさ迷っていたシーエイがティナに出会えたのは相当運が良かったのだ。


 そんな水が海のようにたくさんあるのだったら、見てみたくなるのも当然だろう。


「行こう!」

「行くか」


 旅装を整えるのはもう慣れたものである。

 青海湖までは馬で一日あまり、往復で三日ほどだろう。

 それくらいの旅支度はすぐにできた。

 紹介した李文が呆れるほどの早さで二人は旅立った。


 湟中から青海湖までの道は、湟中義従のおかげか賊の類いはおらず、楽な旅となった。

 烏騅の背に揺られ、並足で道を行く。

 すでに草原ではなく、標高の高い高原である。

 後に、清蔵高原とか言われる場所。

 そこに二人は足を踏み入れていた。

 草木の植生も、草原とはまったく違っていて、ティナは見たことのない景色に興奮の色を隠さなかった。


 最初の夜は野営した。

 湟中の同じ部屋で一つの牀で寝るより、こちらの方がよほど緊張しないことにシーエイは笑ってしまった。

 同じ事をティナも思っていたことを、お互い知らないままではあったが。


 そして、翌日の昼過ぎに二人は青海湖を目の当たりにすることになったのだった。


 青海湖は面積にして5694平方キロメートル、単純に日本の茨城県より少し狭いくらいの広さだ。

 中国最大の塩湖であり、いかにスケールの大きな中国の人々でさえ圧倒される広大なものだ。

 それはシーエイも、ティナも見た瞬間に動きを止めてしまうほどの衝撃を受けるものだった。


「果てが見えないぞ、シーエイ……」

「いや、うっすらと山らしきものが見える……気がする」


 青い湖は広すぎて向こう側が見えない。

 吹いてくる風は高原の爽やかさと潮の香りが入り交じって、物悲しい気持ちを呼び起こした。


 波打ち際に二人は座って、果てない湖と空が混じる境を見ていた。


「ずっとこうしていたいな」


 ふと呟いたティナにシーエイは思わず頷いた。


 天意が俺を動かしているとしても、このひとときは俺自身の意思を優先したい。

 愛する女と二人、この青の空間に身を置いていたい。


「俺は小さいな」


 父も母も兄も嫂も、この広さを知らぬ。

 小さな董家の中で右往左往しているだけだ。

 そんな小人たちに影響を受けて、逃げ出した己が最も小さいとシーエイは、董卓は認めることができた。


「このままこうしていようか。焼当のことも、零晶のことも忘れて、お前と二人で」


 呟くティナの顔をシーエイは見た。

 その黒曜石のような美しい瞳から涙がポロポロとこぼれている。

 ティナの語ったことは、できない。

 拾ってくれた零晶の長の恩に報いるためにティナは、零晶の許にならなければならない。

 己に流れる焼当の血を忘れることはできない。

 だから、今のはただの夢だ。


 ゆっくりと陽が沈んでいく。


 青の境界が橙の夕陽に染まり、そして紫に変わっていく。

 それからは闇。

 波音だけが聞こえる。



 鮮卑による漢帝国への大侵攻は阻まれた。

 段熲だんけい、字は紀明の計略によって、だ。

 彼は遼東属国都尉という役職についており、鮮卑との戦いに従事していた。

 指導者たる壇石槐が不在の今、段熲はその配下を誘引した。

 偽りの詔書を使い、鮮卑の大人たちを誘き寄せ、伏兵でもって打ち破ったのだ。

 彼はこの戦いで対鮮卑の武人として名を挙げた。

 壇石槐の計画を大きく遅らせることに成功したのは確かだ。


 だが、そのやり方は味方からも大きく批判された。

 偽りの詔書はやりすぎだったのだ。

 彼は詔書偽造の罪で労役刑を命じられ、二年間表舞台から姿を消すことになる。



 また、安定郡にて息を潜める男がいる。

 皇補規こうほき、字を威明。

 兵八百を率いて西羌の蜂起を鎮圧した勇将であるが、帝国の軍事の最高職である大将軍、梁冀りょうきの専横を批判したことで故郷に隠れ潜んでいることを余儀なくされている。

 その梁冀から暗殺者を送られていたりするが、そのことごとくを返り討ちにしている。



 また、その梁冀の招聘を断り、官職を去った老雄がいる。

 漢の最果て、敦煌出身。

 齢五十にはなろうか。

 張奐ちょうかん、字は然明。

 彼もまた、漢の境界を守るために牙を研いでいる。


 後に、彼らは対異民族のエキスパートとして涼州にその名を知られることになる。

 奇しくも、その字に“明”がついているために涼州三明と呼ばれることになる。


 その三人は、シーエイ、いや董卓の人生に直接、あるいはその親族によって間接的に関わってくることになる。

 もちろん、今のシーエイにそんな未来がわかるわけはなく、日の暮れた青海湖で今、この瞬間を生きているだけだ。

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