百五十二、月の女神
私を助けて。
張恒我の中で彼女は叫び続けている。
張恒我自身は彼女に宿った“神”である。
本当の彼女はその精神の大部分を“神”に押し潰されたような痛みを感じていた。
彼女に宿っているのは“姮娥”である。
元々は仙女であり、西王母の不老不死の薬を飲んだことを咎められたために月に逃げたのだという。
太平道などの道教では月の神とし“太陰星君”と称して奉っている。
そんなことを彼女は知らない。
幾人もの友人あるいは他人が犠牲になった結果の自分が、やはり犠牲でしかないことを実感するだけだ。
体の痛みにはいつか慣れるかもしれない。
しかし、自分の心がすり減っていくというのは己の消滅すら予感させて、けっして慣れることなどなかったのだった。
この時までは。
姮娥の予言は彼女自身はよく知らない。
自分の口から発せられているから聞くことはできるが、内容は“神”のものであるから彼女にはわからないのだ。
だけどその予言だけははっきりと聞き取れた。
「狼来る」
狼というのが、この中華でよく聞く誰かのことである、というのはなんとなく予想できていた。
その狼の予言は天子を食らうとか、危ういものが多かったと思う。
狼、が姮娥に、あるいは彼女にどのような影響をもたらすのか。
銀色と赤色がよく見えない視界で閃いたのを彼女は感じた。
次の瞬間、目と思考にかかっていた膜が剥がれたように彼女は感じた。
「大丈夫か、娘」
いやにはっきりとした視界に、くっきりと誰かが立っていた。
背は高く、横幅もあるが肥えている印象はない。
彼女はその人物こそが狼であると直感した。
「……」
「喋れぬか……まあ、さもありなん」
“狼”は彼女が喋れぬことを周囲の光景に衝撃を受けたからだと思ったようだった。
狭くはない部屋。
彼女を仕立て上げた大人たちは“月宮”と呼んでいたことをなぜか思い出した。
その部屋には大人たちの動かなくなった亡骸が転がっていた。
さきほど見た銀色は鋼の武器が振るわれたもので、赤色は斬られた者たちの吹き出した血のことだとようやく気付く。
この“月宮”に“狼”たちが押し入って、大人たちを殺したのだ。
本来なら、彼女もその列に並び共に斬られていたことだろう。
しかし“狼”は彼女を斬らなかった。
「王方、この娘は連れて帰る。他に武器を持った者がいたら殺しておけ」
「かしこまりました」
“狼”はヒョイと彼女を抱き抱えた。
そのまま歩き出す。
なぜ連れて帰るのだろう、と疑問に思うが意外に“狼”の懐が暖かいことで問いは霧散していく。
眠気が勝ったともいう。
そしてなによりも、押し潰されそうになっていた自分が解き放たれて痛みも感じなくなったことを嬉しく感じていたのも確かだった。
幼い娘が緩やかな寝息をたてるのを董卓は感じた。
息子や娘も幼い頃はこのようであった、とふと思い返す。
陽城にあった黄巾残党の拠点、“太陰殿”は董卓の古い記憶を刺激するものだった。
誘われるように入ってみれば、幼子を“神”と称して利用する薄汚い輩の巣窟であった。
規模としてみれば董卓の故郷にあったものよりは大分小さい。
だが共に“神降ろし”で宿った“神”を奉り、宗教的な面を全面に出しながら、反政権の力を蓄えている、という構図はまったく同じだ。
少なくとも董卓にはそう思えた。
ゆえに、武装した者はことごとく殺させた。
「殿、中にいた者はあらかた殺しました。そちらは怪我などなされませんでしたか?」
兵を率いて、建物の制圧に回っていた楊定が合流した。
「怪我もなにも、俺の相手になるような者は絶無よ」
「なるほど確かに、ここの者らはかつての黄巾賊とは違い、その教えとやらのために命を睹す気はなかったようでしたな」
「確かにな」
黄巾の乱の時に董卓が戦った黄巾賊は、どれもこれも命尽きるまで戦うような相手であった。
蒼天既に死す、黄天当に立つべし、と死の間際まで叫ぶような。
そんな鬼気迫る様子は、ここの者らには無かった。
いや、逆に言えばそのような狂信的な者はあの乱でみな命を落としたのかもしれぬ。
「それにしても、ひどいものでございました。子供らが一室に閉じ込められて、おそらく飯も与えられなかったのでしょう」
「整修、少し静かにしておれ」
董卓に抱き抱えられた子供を見て、楊定は声をひそめた。
「やや!この子は」
「生き残りであろう。奴ら、子らをさらって何をしていたのだか」
「いやはや、我らも兵のみならず、敵の城の者を殺し尽くすことはございますが、子供だけを集めてあのような目に合わせるというのは」
「そうだな。俺たちも上等とは言えぬが、奴らは下の下だ」
「ええ、ええ、そうですとも。ところで、その子はいかがします?」
「ふむ……連れて帰る」
「ほう?」
「娘や孫と同じような年頃ゆえな。情がわいたのやもな」
「はあ」
戦場で幼子が泣いていても、それを捨て置くのが董卓だ。
それを拾い、抱き上げて、あまつさえ連れて帰る。
そのようなことは今まで無かったように楊定は思った。
董卓という傑物が仁愛に目覚めたか、惰弱となったか。
いっそ、その娘を己好みに育てあげるほどの色情ならまだ面白いのだが、とまで思った。
そもそも、この戦も妙だった。
孫堅を脅かすために潁川を侵略する。
それは良い。
しかし、そのために襲うのが戦略的価値の低いここ陽城だ。
何かある、と勘ぐらないほうが難しい。
その娘を手に入れるために襲った、という方がよほどそれらしい。
と楊定がおかしなことを考えているのを知ってか知らずか、董卓は建物から出てきた。
あの時は夜明けであった、と情景を思い出す。
今は、昼過ぎの冬にしては眩しい陽光が照らしている。
董卓は目を細めて、そこが隴西の臨洮ではないと確かめた。
この娘を助けたのはなぜか。
それはあの時の、無力な若者であったシーエイが失ってしまった彼女を取り戻したかったからだ。
彼女と再会した時は、お互い敵同士で、そして最後には殺しあった。
この手で殺したのだ。
その感触はいまでも覚えている。
あれから三十年近くか、蚩尤殿の夜から数えれば四十年は立つだろう。
それからずっと董卓は失ったままで、空いた隙間には野心を詰め込んで生きてきた。
その野心、野望も概ね叶いつつあり、また隙間を感じていたようにも思う。
この娘が、隙間を埋める何かであるかはわからぬことだ。
そうであればよい、と董卓は思った。
陽城を陥落させた董卓は、しかしそこを支配圏には加えなかった。
戦略的な要地ではないし、飛び地を得ても攻めるのにも守るのにも不利であることには違いない。
滅ぼすことによって、敵対勢力がここを復興させるために余力を割けばよい。
そして最も大きな目的である河南尹南部に割拠する孫堅への脅しは、意味が無くなってしまった。
胡軫、呂布らが陽人に孫堅に敗れたためである。
潁川の動向などはもはや意味がなく、洛陽をどうするかという点が重視される事態になってしまったのだった。
洛陽の畢圭苑で報告を聞いた董卓は全軍の長安への移動を指示した。
全軍と言ったが、それは董卓指揮下の兵と胡軫、呂布配下の兵である。
牛輔、段煨の軍は弘農郡の拠点に配置したままだ。
迂闊に攻めてきた反董卓連合軍はこの両軍に攻撃されることになる。
洛陽という補給拠点を失ったうえで、だ。
「ぬかりはない」
「長安はいいとこ?」
董卓の独り言に、反応したわけでもあるまいが恒我が声をかけてきた。
「良いところだ。なにより風が気持ち良い」
「風が良いとお昼寝が気持ちよい」
「うむ。確かに」
陽城から連れてきた張恒我は、董卓の側女という扱いになった。
側女にしては幼すぎるが、董卓だからという理由で誰も何も言わなかった。
この恒我もまた長安への旅路へ同行し、思ったよりも緩やかな旅になったのだった。




