百四十五、董白
董卓は亡き妻、鮑犖の生まれ故郷である郿に城を築いた。
実を言えば妻の実家である鮑家は没落していた。
跡を継ぐべき鮑鴻は獄死していたのだ。
董卓にとって義兄である彼は、盗賊討伐の折りに物資を横領した罪で投獄されている。
この時代、物資横領は公衆の面前で斬刑に処され、死体を市場にさらされる棄市の刑になると言われているが、鮑鴻は獄死している。
この罪が正式に決まる前に牢獄で亡くなったか、なんらかの事情があったのかはわからない。
右扶風の長官になり、霊帝直属の西園八校尉の一人に任じられた才覚の持ち主も獄で虚しく生を終えたのだった。
幸か不幸か、董卓の妻であった鮑犖はその事件以前に亡くなっていたため、董卓にまで類が及ぶことはなかった。
そういったわけで、このあたりには何もない。
そこに高さが七丈の城壁を持つ城が築かれた。
この高さは長安の城壁の高さと同じだと言う。
郿の地に築かれたために郿城、あるいは郿塢城と呼ばれた。
董卓自身は、この城の長久を願って万歳塢と名付けた。
この城には董卓の血縁者が入城し、なに不自由なく暮らせるように取り計らわれた。
董卓の八十を越えた母親や家族たちは城内に立派な屋敷を与えられ、幾人もの召し使いを侍らせる生活を送ることになった。
皇帝や百官が長安で生活を安定させる以前に、董家は郿塢城に入ることができた。
その中には、長女の董啓と白泰の娘、董卓にとっては孫娘にあたる董白の姿もあった。
董白は本来なら、父親である白泰の姓を継ぎ白某と名乗るはずであった。
しかし、白家の了承を得て董白は董家に入り、白の名を与えられた。
この董白は簪もさしていなかったが、祖父董卓によって渭陽君に封ぜられ領地が与えられることになった。
君号は、本来ならば皇族や王族、功臣に与えられた君主の称号である。
例外的に皇后の母親や皇帝の異父姉妹に与えられることもあったが、董白の場合は異例中の異例だった。
董卓は皇族ではない。
董卓自身は相国であり、漢帝国の人臣の頂上にいるが、その孫娘は君主の称号にふさわしいはずもない。
それでも董白は渭陽君に封ぜられた。
それを伝える使者は董卓の甥である董璜が務めた。
董家の栄華はここで最盛を迎えた。
ここが最盛であった。
式典のあと、董白は気疲れしていた。
「ふぅ」
とはく息も重い気がする。
「疲れたの?」
「疲れるに決まってるじゃない」
疲れたの?と聞いてきたのは年も近い叔母の董清だ。
董清は董卓の三女で、董卓が河東太守であったころに生まれた。
黄巾の乱の数年前である。
その数年後に董白も生まれており、二人は叔母姪の関係ながら同じ年頃であるため、まるで姉妹のように育った。
実際、董清の長姉であり董白の母親の董啓も次女の董祥も年が離れており、董白の方と遊んでいるほうが自然であった。
「そうだよね。いきなり渭陽君様だもんね」
「いようくんさま……」
「ご馳走を食べられたのは良かったけれど」
「わたし……ぜんぜん食べられなかった」
「あー、だよね。衣裳、重そうだったし」
「それに練習したこと失敗しないように必死だったし」
「顔ひきつってたしね」
董清と董白の言うとおり、渭陽君に封じる儀式は大人でも大変なことであった。
君主としての地位と、さらには渭陽という領地も得るのである。
その土地にはもちろん住人がいて、役所があり、官吏がおり、租税が納められている。
お飾りであることは重々承知のうえだ、
それでも、一つの領地を治める領主、君主であるということに董白は気圧されていた。
権力を笠に着て、わがまま放題できるのなら良かった。
何も考えず、好きなことをして、好きなようにできるのなら。
けれども祖父の董卓も、父の白泰も徹底的に現実主義者だった。
そんな彼らが悪評を被るようなことをするのを許すはずもなかった。
逆に良家の子女としての教育を徹底的に詰め込まれた。
このことが示すのは一つだ。
董白の夫となる人物が、董家の後継者となる。
董白の叔母の董祥の夫、牛輔は董卓の軍事的な後継者。
涼州出身の胡軫が政治的な後継者となる。
血統、政治、軍事と権力を分けたのは、董卓の自身を脅かす存在の台頭を抑えるためだが、董白の考えるに祖父のような人物はこの先現れることはないだろう。
逆に言えば、董卓のできたことが他の者にできるとも思えぬので権力を、言い換えれば仕事を分散したのは良い手ではないか、とも思う。
「意に沿わぬ人に嫁ぐとなったらどうする?」
「それは仕方のないことよ。あまりにもお祖父様はえらくなりすぎたもの」
「そう……そうね」
董清の姉の董啓と董祥は半ば政略結婚であるとはいえ、幼なじみだったり、董卓の友人の男子であったりして、まったく見ず知らずの他人ではなかった。
そのため、姉夫婦の家族仲は悪くない。
しかし、それは董卓が都尉や校尉といった身分の時代の話で、太守や牧を超えて三公や相国となってしまえば、その一族の婚姻相手はよく考える必要がある。
簪をつけていない、つまり成人していない董白や董清も、そのことを考えていなくてはならない。
だから董白はもう自分には母や叔母のような幸せは訪れないと覚悟してしまっていた。
そんな董白を見て、董清は哀しく思った。
そして、董卓の娘である自分も同じような運命が待っている。
自分のことは不思議と哀しくなかったのはなんでなのだろう。
「どうせ嫁ぐなら皇帝陛下ね」
「なんで?」
「だって一番偉いじゃない?」
「やめときなよ。皇后や美人がどんな運命をたどるか、知ってるでしょ?」
「あー、何皇太后とか王美人とか……?」
何皇太后は、あの大将軍何進の妹で霊帝の妻であった。
霊帝の跡を継いだ少帝の母として権勢を振るったが、袁紹らの宦官討伐の際に捕縛され、ついで洛陽入りした董卓によって永安宮に幽閉され、後に亡くなっている。
王美人は、現在の皇帝の母親で霊帝の寵愛を受けていたが、それを妬んだ何皇后によって毒殺された。
このように皇帝の妻という存在は、権勢を得ることもできるが、寵妃同士の争いや政争によって没落したり、追放されたり、命を落としたりする。
得るものと失うものを天秤にかけたら、失うものの方が大きいと董清は思う。
「そう。せっかくこんないい家に住めて、美味しいものも食べられて、名誉もあってさ。それ以上を望んだら……」
「でも、私、それ以上がほしいの。董卓の孫に生まれた私が、董家の姓をもらったのだから」
「白……」
「普通の幸せは望まない。だから一番上からの景色を見たいの」
董白の視線の先はどこにも向けられていない。
それは遥かな未来を見ているように思えた。
「あなたが一番、董卓に似ている。私はそう思う」
「もしも」
董白はもう董清のことも見ていないようだった。
そして、何かを、溢れるものを抑えきれぬように声を発す。
「もしも、天意というものがあるのなら。私を押し上げて見せて」
祈るようなそれは、かつて祖父の董卓が若き頃に発した言葉であることを、董白も、娘の董清も知ることはなかった。




