百四十三、洛陽炎上
洛陽は燃えた。
漢帝国中興の祖である光武帝が都に定めてから、百五十年あまり。
その都たる洛陽は燃えていた。
『続漢書』にはこうある。
董卓の手勢は洛陽の城外百里四方を焼き払い、また彼自身も兵士を連れて南北の宮殿および宗廟、国庫、民家を焼き払った、と。
これはつまりただの古き都を滅ぼした、というだけではない。
百里四方は約四十キロメートル四方だ。
それだけの範囲を焼き払った。
すなわち、その範囲の中の物資はすべて焼失し、この後にここに来るだろう軍隊の補給が不可能になったということなのだ。
堅壁清野、という言葉がある。
野原をまっ清にして堅い壁で守る。
物資のきれた軍隊は、敵の領土の奥深くで堅く守られた敵を倒すことができない。
また敵領の中に入っているため、自領に撤退するのもまた困難となる。
後の時代の言葉で言うと焦土戦術である。
これで侵攻してくるであろう反董卓連合軍は足止めされ、大軍であれば大軍であるほど射る矢も、食べるものすら無くなり、困窮し、撤退せざるを得なくなる。
それが董卓の狙いであった。
だからといって、家や田畑を燃やされる民草にとってそれは納得できるものではないだろう。
また、董卓は霊帝の陵墓へと赴いた。
そして、その墓をあばき納められていた財物を奪ったという。
歴代皇帝の陵墓も同じように暴かれ、中の宝物はことごとく奪われた。
燃え盛る洛陽の宮殿は大混乱に陥っていた。
主要な官吏は長安へ出発していたが、上意下達には時間がかかる。
彼女たちに洛陽炎上の報と長安遷都の決定が伝わったのは、宮殿が火に包まれてからだった。
「私たちも逃げましょう」
と同僚の官女が手荷物だけで走りながら言った。
彼女は井戸を指差し「けれど楊葉が」と答えた。
「落ちたの?」
走る官女はそう聞き、彼女は首を横に振った。
井戸に沈んだ楊葉は自ら身を投げたようだった。
「なら、あんたも逃げなさないな。ここにいたってなんにもならない。また宮仕えしたいなら長安まで行かなきゃならないよ 」
「長安……」
「そうさ。天子さまがそこに動かれて、古い宮殿に住むことになるって女官長が言ってた」
ああ!とその走っていた官女が叫んだ。
そこには武装した兵士がいて、その官女に武器を突きつけていた。
彼女は咄嗟に身を隠し、様子をうかがった。
混乱した状況で兵士が官女を見つけたら、ほぼ確実に襲われる。
興奮した男にとって、官女だろうが姫君だろうがなにも関係ない。
劣情のままに襲いかかる。
それが本能だからだ。
しかし、彼女の予想とは違い、その兵士は官女に向けた槍を無感情に突いた。
「ひぃッ!?」
と官女は鈍く声を発し、崩れ落ちた。
兵士は膝を付き、横たわった亡骸をまさぐった。
それは純粋に何かを探しているように見える。
「ない、か」
手早く探し終えて兵士は立ち上がり、あたりを見渡した。
そして、ばっと身を翻しその場から去っていった。
その肩に竜の紋章が刺繍されていたのを彼女は見た。
「どうして……」
彼女は呟いた。
火は荒れ狂いながらあたりをなめ回し、全てを包み炭化させていった。
「どうして、殺されなければならないの?」
仲の良かった官女は井戸に身を投げ、逃げようといった官女は兵士に殺された。
炎に包まれて亡くなった者もいる。
昨日まで彼女たちは世界で最も安全な宮殿にいた。
それがどうだ。
何もかもがひっくりかえってしまった。
「こんなところにおったのか」
深い知性を感じさせる男の声がした。
彼女は振り替える。
「お義父さま……」
義父と呼ばれた男性は、すぐ側に転がる殺され物色された官女の亡骸を見て顔をしかめた。
「惨いな。奴を止められぬ三公の責ではあるが……」
「何かを探していたようでした」
「董卓の兵どもは野蛮だ。官女がくすねた宮殿の財物を持っているとでも思ったのだろう」
その兵士の竜の紋章のことは、彼女は言わなかった。
言ってもこの状況は変わらない、と思ったからだ。
「お義父さまも長安へ向かうのですか」
「無論だ。わしも選ばれてしまった……」
「選ばれた……?」
「わしを司徒などと……だが、これ以上朝廷をぐちゃぐちゃにされるのを食い止めるためには、いっとき尾を振る必要もあるだろうよ」
「わたくしは」
「お前もついてこい。わしの娘ならば官女として役に立つこともあろう」
「……はい」
この炎上を引き起こしたのは相国の董卓である、という。
ならば平穏をひっくり返したのも、その董卓であろう。
ならばわたくしは問うてみたい、と彼女は思った。
無益に人が死ぬことを起こした真意を。
そして、できるならば亡くなった友らの仇を討ちたい、とも。
「これ以上こうしておってはわしらの安全も危うい。行くぞ貂蝉、支度はできておる」
「はい義父上……いえ、王允様」
董卓によって司徒に任命された王允、そしてその養女である貂蝉は燃え盛る洛陽をあとにして、長安に向かうのだった。
ほとんどの官吏がいなくなり、官女や召し使いも姿を消し、ただ炎だけが蔓延るかつての宮殿の跡に数人の男がいた。
全員が装束の肩に竜の紋章の刺繍が施されている。
「伏徳、何か見つかったか」
隊長であり、父である伏完に問われて、兵士の装束の伏徳は首を横に振った。
「そうか。官女によって持ち出された玉璽は見つからなかったか」
秦の始皇帝が宝玉から削り出した伝国の玉璽は、秦から前漢、漢を簒奪した新王朝、そして後漢へと皇帝の証として代々伝えられてきたが、洛陽が炎上したことで失われていた。
官女の誰かが持ち出したという情報を元に伏完は、皇帝直属の兵を使い、燃え盛る洛陽を探させていたのだ。
だが、短い時間しかなく、捜索範囲も限定されるとあっては見つかるわけがない。
目についた官女を有無を言わさず殺害し、調べてもだ。
伏徳も父に従い、皇帝直属兵の一人として探索に参加したが見つからなかった。
肩に記された竜の紋章は皇帝の印である。
もし、誰かに見咎められても、この印を見せれば見逃してくれることもある。
「仕方あるまい。我らも脱出せねば火に巻かれてしまう。それに主上の守りを疎かにするわけにもいかぬ」
伏完は洛陽からの脱出を決定し、伏徳ら兵もそれに従った。
もし、もう少し彼らが注意深く探せば息を潜める貂蝉を見つけたかもしれない。
そして、その友人である官女の楊葉が何かを抱き締めたまま、井戸に沈んでいるのを見つけたかもしれない。
それが玉璽であるとわかったのかもしれない。
しかし、それを知る貂蝉はすでに脱出し、伏徳らも出ていくところであった。
この次に洛陽に入る者が見つけるまで、玉璽は水中で眠り続けることになる。
それから六年間、洛陽は漢帝国の首都ではなくなった。
首都は長安に移され、皇帝も、公卿も、百官も、洛陽からいなくなった。
爛熟の極みだった都は、そこにいた宦官も外戚も飲み込むように業火に消えた。




