百四十二、点火
孫堅軍と李旻の潁川部隊は河南尹の梁城に到達した。
ここから洛陽に至るまではもうしばらく進軍する必要がある。
だが、彼らを待ち受けていたのは徐栄率いる一万の騎兵であった。
「馬鹿な」
と呟くしかなかった。
もちろん、先行した曹操軍が壊滅したことは知らなかったし、徐栄がそれをやったことも知らなかった。
だが、ここに董卓軍が現れるはずは無かったのだ。
間者を警戒して酸棗では行軍の詳細を明かすことはしなかったし、わざわざ遠回りをして潁川を経由したのも敵の目を欺くためだ。
だが、その全ては無駄になった。
徐栄がここに急行できたのは王方の知らせがあったからだ。
王方は董卓軍の諜報を司っている部将であるが、その情報収集は漢帝国の内側に潜む鮮卑人によるものである。
董卓と先代の鮮卑の大人檀石槐は古い友人であり、王方が董卓に仕えているのもその縁あってのことだ。
檀石槐は十数年前から、鮮卑人を少しずつ漢土に送り込んでいた。
漢帝国の内情の調査と、来る大侵攻の際に城門を開け、内通する役目を担っている。
しかし、跡を継いだ和連はこれを使いこなすどころか鮮卑人の結束すら崩してしまったため、彼らは無為の日々を送っていた。
王方はそんな彼らを使い、董卓に利する情報を集めていたのだ。
その一団はもちろん予州潁川郡にもおり、不可解な進軍を行う者がいるとの知らせを王方にもたらした。
この時の王方は洛陽への帰還の途中であり、もし董卓にこれを伝え新たに軍を編成していては間に合わないと判断し、同じく帰還途中であった徐栄に知らせたのだった。
「無茶なことを言う」
と徐栄はその時笑った。
曹操への追撃をしなかったことで、徐栄軍の被害は皆無であり、ここから急行すれば間に合い、戦うことができる、と理解できてしまった。
そうしなければ要らぬ被害を洛陽にもたらすことになる。
ひいては董卓にとって痛撃となろう。
ならばいくしかあるまい。
「徐中郎将」
決断を迫るように王方が声をかけた。
ただし、徐栄の腹は決まっている。
「急ぎ、洛陽に向かい知らせを届けてくれ。私は予州から来る者らを迎撃しよう」
「了解です。ではご武運を」
「うむ」
王方は洛陽に向かい、そして徐栄は南下し梁城付近で孫堅と遭遇したのだった。
徒歩で二日はかかる道を、徐栄軍は一日で走破した。
予州潁川を進む謎の敵。
その数は二万近くに達しているようだ。
それが徐栄の得ていた情報である。
実際に相手と出会い、目算で見るとその情報が間違っていないことを徐栄は感謝した。
相手が孫堅であることもそのあたりで気付いた。
五年ほど前になろうか。
美陽で韓遂らと戦った時、徐栄もそこにいた。
孫堅とも出会っていた。
あの頃より軍の規模、兵の数も増えているように見える。
だが、半分以上は募兵で、食い扶持を求めて兵になった者が多いだろう。
早くから専業の戦闘集団を組織していた董卓軍とは実力に雲泥の差があるはずだ。
突然現れた徐栄らに動揺していた孫堅軍に、徐栄は一気に襲いかかった。
曹操軍に仕掛けたのと同じ、騎兵で接近、短弓で矢の雨を降らせ、突撃だ。
これは事前に対処していなくては防ぐことのできぬ必勝の攻撃だ。
騎馬を得意とする異民族はこの方法で幾多の漢民族の集団を痛め付け、略奪していったのだ。
それをここまでできる集団は、この洛陽の付近には一つしかない。
「董卓軍!いつ気取られたッ!」
孫堅が相手の正体に気付いた時には、すでに遅かった。
孫堅の兵はほとんどが荊州からかき集めた兵だ。
北の騎馬民族と戦ったことのある者などいない。
「董の旗を翻せ!我らが中華最強だと知らしめよ!」
徐栄はそう叫びながら、隊の先頭を駆けた。
ああ、私のこれまではこの一戦のためにあったのだ、と徐栄は思った。
幽州玄菟郡、故郷は中華の東の果て。
その土地は荒涼としていて、収穫も少なく、若者は農地を耕すよりも武を志すものが多かった。
若き徐栄もその一人だった。
その頃のことはよく覚えていない。
戦いに明け暮れ、終わりのない抗争が繰り返され、寝ても覚めても戦のことしか考えていなかった。
その状況から徐栄が解放されたのは、戦巧者として知られるようになった頃だ。
きっかけは友人である公孫度の出仕だった。
玄菟郡の南にある襄平の出身であり、文官肌の青年だった。
勘と経験で戦い続けた徐栄に兵法を教え、本能と知略を揃えた将へと変えたのだった。
その公孫度は霊帝の登用の詔によって、郎中となった。
やがて出世し、尚書令、ついで冀州刺史となったが讒言にあって失職している。
董卓に仕える徐栄は、若き日の恩を返すように、その公孫度を遼東太守に推挙した。
それはともかく、徐栄の若き頃の戦いの日々が、この梁城にて鮮やかな戦いとして完成する。
冴え渡る徐栄の攻撃に、自身も戦の天才と自負していた孫堅はまともに対抗できずに敗れた。
孫堅は敗走し、身代わりを努めた祖茂がギリギリで生き延びたものの、孫堅軍そのものは壊滅した。
また、潁川太守である李旻とその将である張安は捕縛された。
董卓がその二つの戦いの結果を知ったのは徐栄が凱旋してきてからであった。
董卓は徐栄を門まで出迎えた。
「徐栄!無事か!」
徐栄は馬から降り頭を下げた。
「独断し、専行しました。勝手に動き申し訳ございませぬ」
「将は時に君主の命なくとも動く必要がある。此度のお前と王方の拙速、最高の動きであった」
董卓は称賛した。
実際、曹操とそれに乗じた孫堅の進軍は洛陽にまで届きうる攻撃だった。
王方の諜報網と徐栄の神速なくば、孫堅がやってきていた。
捕虜となった李旻と張安は持っていた情報を洗いざらい吐かされた後、油で煮殺された。
二人はぐらぐらと煮える油の前で話し合い「互いに生まれた日は違うが死ぬ日は同じだな」と笑いあった、という。
反董卓連合軍のやる気のある将を撃退し、残る将の士気が低いことを知り、董卓は予定通りことを進めることにした。
すなわち、長安遷都である。
まだ雪の残る二月。
皇帝をはじめ、朝廷の公卿、諸官らは洛陽から旅立った。
みな、何度も洛陽の方を振り返り、ありし日の情景を思い返しては涙して進むのだった。
その遅々とした歩みの後ろには移住する民たちが軽い荷物をもって続いていく。
ある程度の数が進んでいくのを董卓は見た。
「古きもの、朽ちたもの、腐れたもの、爛れたもの、洛陽はその全てだ」
背後の洛陽の都は静まり返っていた。
移住に反対した者、残ろうとした者らは董卓らに斬られ、屍をさらしている。
恩人も、仕えた者も、何もかも切り捨てた。
「古きものをそのまま残しておけば、腐れた土地から蛆がわき、悪蝿なし、漢帝国を蝕む疫病をもたらす」
そう言いながら、董卓は若かりし日々、この洛陽の通りを歩いた日々を思い出していた。
袁隗に仕え、鮑犖と歩き、霊帝に罵られ、劉甲と語らった洛陽。
彼ら彼女らはすでにこの世には無く、この洛陽が無くなればそのまま忘れ去られてしまうのかもしれない。
それでも董卓はやると決めた。
松明を手に取り、油をまいた民家を照らす。
「漢帝国の未来がため、古き爛れを清めるため、今!洛陽を燃やし尽くすッ!」
董卓は松明の炎を民家に焚べた。




