百四十一、徐栄の戦い
長安遷都が正式に決まり、その大規模な移動の準備が行われる中、反董卓連合軍は集結を待たずに個々の将の判断で攻めてきていた。
連合軍の盟主は袁紹であるが、(車騎将軍を自称するものの)彼自身の官職は勃海太守であり、勃海郡の外での指揮権は無い。
そのため、連合軍は名ばかりでまったく連携がとれていなかった。
実質的に、董卓を倒すという目的をもった者たちが勝手に動いているだけである。
董卓としてはまとまった大軍が一気に攻めてこないだけで助かっている。
例えば、予州従事の李延率いる千人が攻めてきたのを一蹴し、その李延を処刑した。
この李延は袁紹の配下であり、おそらく董卓軍の出方を見るために捨て駒にされたのだろう。
その愚を知らしめるために、ことさらむごい刑罰が李延には科された。
煮殺したのだ。
それも油で。
油で煮殺す、という処刑方法は殷の紂王の頃からあると言われる。
主に不穏分子を処刑するために行われたという。
また司隷校尉の趙謙は董卓の部下の車師を捕らえ処刑してしまった。
この車師は西域出身の部将であり、董卓軍の最初の頃からいた羌騎兵の一人であった。
そのため、車師が亡くなったことを知った董卓は嘆き、そして怒りを露にした。
趙謙を罷免し、新たに司隷校尉に宣璠という董卓に忠実な人物を任命し、趙謙を逮捕させた。
そのうえで、財産を没収し、彼を庶民におとしてしまったのだった。
このように董卓の勢力圏では連合軍は効果的な活動ができなかった。
だが、ついに強力な指揮官に率いられた軍が到着した。
彼の名は孫堅。
かつて董卓と共に涼州、そして関中で暴れまわった将であった。
孫堅は橋瑁からの檄文に呼応し挙兵したあと、気に入らなかった荊州刺史の王叡を殺害した。
この王叡も反董卓連合に参加しようとしていたが、兵を集めて不仲だった武陵太守の曹寅を倒そうとしたが、曹寅は高官の檄文を偽造し、王叡の罪を糾弾した。
孫堅はそれに乗じて王叡を害したという経緯だ。
さらに孫堅は董卓派の南陽太守張咨を害した。
このように反董卓連合の中ですら協調はなく、兵を集め、力を得た諸将が勢力を拡大していたのだった。
その後、孫堅は袁家の嫡筋である袁術の配下となった。
長沙太守という権威で兵を集め、荊州内の敵対者を倒し物資を獲得し、袁家配下という大義名分を得て、彼は反董卓連合軍の中でも実力者に躍り出ることになった。
袁術によって、破虜将軍代行、予州刺史に任じられることで更なる権威と軍を率いる正当性を手に入れた孫堅は連合軍の拠点となっていた酸棗へと到着した。
この時、酸棗に布陣していた諸将の士気は低かった。
大軍を擁し、莫大な物資を得て将は緩み、毎日のように酒宴を開くような有り様だった。
この状況に危機感を抱いたのが曹操であった。
彼は陳留太守の張邈、済北相の鮑信と相談し、諸将に「大軍を持ち、天下に号令する好機であるというのに君らは何を怖れているのか。君らがいかないのならば、この曹孟徳が董卓を討ち滅ぼさん」と演説した。
張邈は配下の衛茲と共に兵を貸し与え、鮑信は自ら曹操の軍に加わった。
おおよそ一万五千となった曹操軍は勢いのまま酸棗より出陣した。
曹操は河内郡にある成皋を攻略しようとしていた。
これは洛陽に近く堅固な城であるため、董卓軍と決戦するのならば押さえておきたい要害であった。
この成皋に向かう曹操軍であったが、その手前にある滎陽にある汴水という河を渡ったところで進軍は止まることになってしまった。
さて、この時の酸棗での動き、曹操の突出は董卓の知るところであった。
王方率いる斥候部隊によって酸棗の情報は筒抜けとなっていた。
董卓はその対応に徐栄を向かわせることとした。
徐栄は董卓軍の中では新参だが、それでも十年以上は在籍しており、武人としては牛輔以上の信頼を董卓より寄せられていた。
そのため、董卓の出世と共に中郎将に任じられている。
引き締まった体躯、年相応の風貌。
しかし、その目は猛禽のように鋭い。
「一万いただければ」
「足りるか?」
自信ありげな徐栄に董卓は疑問を呈した。
敵は士気が上がり、一気に攻めてくる様子。
それに対して少ない人数で守るというのはいささか調子に乗りすぎなのではないか?
という疑問だ。
これに対し徐栄は静かに答えた。
「十年戦に駆り立てられた我らに対し、曹操、鮑信は黄巾賊を相手にしたのみ。戦の経験などというものはなく、兵を操るすべを持ちませぬ。ゆえに我らが勝ちまする」
「小気味良い大言よ。よかろう、一万でどこまでやれるか、とくと見させてもらうぞ」
輜重隊を伴わず、軽騎兵のみで編成された一万。
これが徐栄の軍であった。
董卓は足りるか、と聞いたが単純な数でいえば確かに劣る。
しかし、その質においては徐栄のほうが圧倒的に上であった。
曹操軍は各地で募兵した歩兵が中心であり、騎兵中心の徐栄との戦力差は数の優劣などものともしないほどに開いているのであった。
そのころ、酸棗では激烈な演説をした曹操の後を追って出陣する将は無く、みなどこか後ろめたそうにうろうろしているばかりであった。
孫堅はその様子を見て独断で兵を進めることを決めた。
連合軍の盟主は袁紹であるが、血筋的に上の袁術の配下である孫堅はその指揮下にない、という解釈である。
そのうえで曹操の進撃をも陽動とし、別の地点からの攻撃を仕掛けることにした。
予州潁川郡を経由し、南から河南尹へ入り洛陽を目指す経路だ。
独断専行できる立場と権威を持つ孫堅は動かぬ酸棗諸将を尻目にさっさと出陣した。
経由した潁川郡では潁川太守の李旻と予州出身の武将の張安と合流し、さらに軍威を増して進軍していくことになった。
期せずして二正面作戦となり、しかも一方の孫堅軍を董卓軍が認識しないまま、事態は推移していく。
先に戦闘となったのは曹操軍と、であった。
先も述べた通り、汴水を渡った曹操軍は徐栄軍と会敵した。
「これはこれは、もう少し深く入ってくるかと思ったが、ちょうど渡河したところか」
先の王匡との戦いでも渡河は重要な戦いの要素となった。
河を渡ったあとは隊列も乱れ、流れが早ければ兵や物資が流され混乱している可能性もある。
まして、勢いだけで統率された連合軍も頭が冷えたころだろう。
突然現れた敵に恐れを抱くのに充分なほどに。
騎馬での高速接近、短弓での防御突破、そこからの突撃は董卓軍の、いやその母体である羌騎兵の得意技である。
その攻撃がうますぎるほどうまく決まった。
乱れた陣列に浴びせられた矢の雨は、たとえ殺傷力が低い短弓のものであっても恐怖を呼び起こす。
矢を避けようと兵らは逃げ惑い、陣列はさらに乱れていく。
そこに徐栄は切り込んだ。
戦闘において、指揮官が戦死するような時は往々にして大敗を喫した場合であることが多い。
そしてこの戦闘において張邈から預けられた部将の衛茲、鮑信の弟の鮑忠が戦死した。
曹操自身も従兄弟の曹洪に馬を譲られ、命を永らえることができた。
それほどの大敗だったが、徐栄は追撃することなく、すぐに退いた。
曹操らの抵抗にこれ以上攻撃するとこちらも大きな被害となる、と判断したと言われるが、彼の武将としての勘が何かを囁いたのであろう。
その勘はこのことを示していたのかもしれなかった。
そう孫堅率いる部隊が南から洛陽を目指していたことを。




