百三十六、位人臣を極める
大宛は現在のウズベキスタンあたりにあった国だ。
前漢の武帝は、この国に汗血馬なる一日に千里を駆け、血のような真っ赤な汗を流す名馬がいると聞き、その名馬を欲した。
当時、前漢は匈奴との戦いのために良質な馬を求めていたためだ。
西域を旅した張蹇よりその情報を聞いた武帝は妃の兄である李広利に命じ、大宛を攻撃させた。
李広利は弐師将軍に任じられ大軍を率いて外征に出た。
この弐師というのは大宛の都の名であるマルハマトのことであるという。
しかし、李広利は敦煌より先の中華世界の外のことを甘く見ていたようで、すぐに行軍もままならなくなり、食糧の奪い合いや脱走兵の続出などで軍の体裁を成せなくなったため、郁成という城を前にして撤退した。
報せを聞いた武帝は、李広利の酒泉郡の玉門関の通行を許さなかった。
そして翌年、再度大宛を攻めた。
今度は兵六万、牛馬やロバ、ラクダなど輜重隊も多く揃えた。
前回の失敗を繰り返さないためだ。
二回目の攻撃は成功し、李広利は大宛の王の母寡を打ち破り、その都である弐師を四十日に渡って包囲した。
李広利は母寡の首を掲げ、大宛と交渉し、ついに降服開城させことに成功。
そして大宛の善馬数十頭、並の馬二千頭あまりを連れて、李広利は凱旋した。
李広利は武帝に賞され、海西侯に任じた。
これが今から八十年ほど前の話である。
後漢の現在、大宛の都は弐師から貴山に移っている。
交易はいまだ続いているが、良馬の輸入は不定期である。
董卓は白然の伝手や涼州の知り合いなどを使い、大宛の汗血馬を探し求めた。
そして、今年に唯一運ばれた馬を入手することができたのだった。
その馬は、羌族の馬を長年扱い、数々の良馬を見てきた董卓をも唸らせる名馬であった。
「赤兎という名でございます」
と馬を連れてきた白然は言った。
「見事な体躯だ。それにこの色」
汗血馬という呼び名、そして赤兎という名が示すように、その馬は赤かった。
肌も、生えている毛も赤い。
陽光を反射して、燃えるように輝く。
これを他人にやらねばならぬのが、ただただ口惜しい。
しかし、呂布は約定を守った。
主君であった丁原を討ち、その軍兵を引き連れて董卓のもとに参じたのだ。
向こうが守ったのだから、こちらも果たさねばならない。
「呂布を呼べ」
呼ばれてやってきた呂布は、赤兎を見た瞬間に目を奪われた。
まるで呂布と赤兎が出会うのが運命であるかのように、一人と一頭はその魂まで繋がったようだった。
呂布は一跳びで赤兎に跨がり、そして赤兎もそれを嫌がらずに受け入れた。
その騎馬武者は一つの生き物のようにあたりを跳ね回った。
その馬上にいるのが己でないことを若干悔しがりつつ、英傑と呼ぶにふさわしい武人と西域の名馬を手に入れたことを董卓は喜んだ。
呂布は大層喜び、董卓に改めて忠誠を誓うのだった。
そしていまや首都付近の軍勢はほぼ董卓の支配下にあった。
董卓も雄将として名高く、その配下にある将たちもよく知られている。
さらに呂布という若き驍将までも董卓の配下となったことで、軍事的に董卓に立ち向かうことのできる者はいなくなった。
そのうえで董卓は再度、朝議を開いた。
その時の董卓の発言はこうだった。
「何太后が永楽太后(霊帝の母)を逼迫し、崩御させたのは、婦姑の礼に逆らうものであり、孝順の節も備えておらぬ。天子はずっと幼稚なままで、軟弱に過ぎて君主たりえない。むかし伊尹が太甲を放逐して霍光が昌邑王劉賀を廃位したことは、典籍に明らかであり、いずれも善事だと評価されておる。いまこそ太后を太甲と同等、皇帝を劉賀と同等に扱うべきだ。陳留王は仁慈孝悌であり、帝位に就かせるのがよいと私は思う」
この前と違い、董卓の発言に対する意見は無かった。
反対が無いことを察して、尚書は董卓の意を汲んだ辞令を読み上げる。
「霊帝はご先祖の長寿の形質を充分には受け継がれず、早くも臣子をお棄てになられた。帝が皇位を継承したとき、帝国の臣民はこぞって希望を寄せた。しかし帝は天性の軽薄者であり、威儀は定まらず、喪中にありながらだらしなく、背徳はすでに明らかであり、これは帝位を辱めて宗廟を汚すものである。皇太后の教導も母としての威厳を欠いており、政治は乱れすさんだ。永楽太后はにわかに崩御され、衆論はこれに疑念を抱いている。陳留王殿下は高い徳を持ち、所作はおおらか、服喪中は哀しみを極め、言葉は邪悪なものごとに及ばず、ご幼少より聡明な性質には周の成王のごとき美風が備わっている。その善き評判は天下の知るところであり、大いなる事業を継承して万世の皇統をなし、宗廟を継承するにふさわしい御方である。よって皇帝を廃位して弘農王とする。皇太后は政権を返還せよ」
その長い台詞を一言一句間違わずに尚書が話し終わると、朝議の場には沈黙が漂った。
反対すれば血の雨が降る。
みな、それを察している。
沈黙に耐えかねたように一人の男が立ち上がった。
尚書であり、前司徒の丁宮であった。
そして彼は口を開いた。
「天は漢室に災禍を下され、衰退混乱はあまねく広がりました。むかし祭仲が鄭の忽を廃して突を立てましたが、『春秋』はその臨機応変を大きく評価しております。ただいま大臣たちは社稷のため最善策を講じており、まこと天人の合致するところであります。万歳の斉唱をお許しくださいますよう」
盛大におもねった言葉であった。
際仲は春秋時代の鄭国の政治家である。
鄭国の発展を支えた人物であるが、際仲の忠言を突っぱねた忽を廃し、宋国の大夫の血をひく公子の突を鄭公に据えた。
つまり、丁宮は家臣による主君の交替を是としたのだ。
董旻の工作により、前司徒である丁宮は董卓陣営についていた。
だが、この朝議の後、丁宮は歴史から姿を消した。
董卓陣営か、あるいは他の陣営から暗殺されたか、それとも恥知らずな己の発言を悔いて隠居したかはわからない。
肯定的な意見が出たことで、否定的な意見はますます出にくくなった。
命をかけて発言するような人物はこの場にはいなかった。
その結果、皇帝劉弁は廃立され弘農王に落とされた。
劉弁の母であり、何進の妹である何太后を永安宮に幽閉。
そして、陳留王劉協が皇帝に即位した。
この劉協こそが、後漢の最後の皇帝である献帝として知られる人物である。
皇帝擁立を果たした董卓は、漢帝国の最高位の重臣としての地位を確立した。
手始めに、軍事を司る三公の一つ大尉に就任。
仮節鉞を与えられた。
上級の将軍であり、将兵の処断権を与えるものである。
これは独断で軍事行動をすることを黙認された、という意味でもある。
さらに虎噴兵を貸与された。
皇帝の近衛兵までも自由に使えるということだ。
ついでに郿侯に任じられた。
ここまでですでに臣下として最上位であり、めちゃくちゃな権限を得ているのだが。
さらに董卓は相国となった。
漢帝国の創業の功臣の蕭何と曹参のみが就いた役職だ。
漢帝国において皇帝の次に権力を持つこの役職についたことで、董卓はまさに位人臣を極めたのだった。




