百三十四、怒りを発し盧植を斬らん
盧植はこう言った。
「尚書をよく検分するに、商の太甲は即位したのち聡明でなかった。ゆえに伊尹はこれを桐宮に放逐いたしました。また、前漢の劉賀は即位二十七日にして一千余りの罪過を犯し、それゆえ霍光はこれを廃位したのでございます。今上陛下は御歳も長けて過失もなく、過去の事件と比較することはできませぬ」
これが黄巾の乱の英雄の言であるか、と董卓は怒りを覚えた。
董卓が憤怒に身を任せたことは十年以上無かっただろう。
今上陛下は過失もなく?
暗愚ゆえに祭り上げられ、そのために宦官に拉致された。
これを過失と言わずになんと言うのだ。
そもそも、宦官の傀儡でしかない皇帝の存在意義とはなんなのか。
董卓はより良い選択をしようとしているだけなのだ。
陳留王が皇帝になり、漢帝国が再び磐石となれば、それに貢献した董卓の権勢は高まる。
野心をもって行っていることではあるが、今現在よりははるかに良い国になることは間違いない。
それを盧植は止めたのだ。
暗愚な皇帝をそのまま戴き、国が衰退していくのを良しと言うのと同じである。
何の展望もなく現状維持をすることの、そしてただただ衰えていくことの、なんと愚かなことか。
斬るよりない。
停滞と衰退を望み、漢帝国の安寧と発展のために改革を行うことを否定するのならば。
董卓は腰の刀の柄に手をかけた。
その行為に、盧植はハッとした。
董卓の怒りを買ったことに気付いたようだった。
だが、盧植にはなぜ董卓が怒りを発した理由がわからなかった。
盧植は儒者である。
儒学の重要な書物の一つ“礼記”に注釈を入れるほどの儒学者だ。
儒学では長子が跡を継ぐことを重要視している。
長幼の序というものだ。
だから、皇帝に劉弁が就くことが正しく、兄がいる限り劉協が皇帝になることは間違っている。
実力がある者、賢き者が上に立つよりも父が、兄が、上に立つというのが儒学者には正しいのだ。
だから董卓が劉協を推すことを否定する。
それが董卓の怒りを買うことを理解できない。
かつて董卓は故郷が嫌いだった。
それは山々に囲まれ、閉鎖的な空気を感じていたからだ。
だからこそ、草原に出た時に解き放たれたような気持ちになったことを今でも覚えている。
ここも同じだ。
山という物理的に閉ざされているか、儒学という心理的に閉ざされているかは違うが、どちらも同じだ。
閉ざされている。
一つの考えに支配されて、新しい何かを選べぬのだ。
新しいものを思い付くこともできないのだろう。
盧植はその中では確かに才人であるのだろう。
ゆえに彼は古いのだ。
古きは斬らねばならぬ。
董卓は盧植を斬ろうと、刃を抜き放とうとして……。
その董卓の抜刀を止めたのは蔡邕であった。
この蔡邕は政治家であり、儒者である。
若い頃から名を知られ、辞章・算術・天文を好み、音律に精通したという。
霊帝の時代に宦官に追いやられ、并州朔方郡へ追放されてしまう。
大赦によって罪は無くなったが、宦官が牛耳る朝廷に嫌気がさし楊州へ逃亡していた。
その高名を聞いた董卓により、招聘されていた。
「董司空殿、朝議の場での流血は忌まれるものです。ましてや先日、宮中が血でまみれたばかり。避けた方がよいでしょう」
と蔡邕は董卓に声をかけた。
それは董卓の怒りを反らし、その手を刀の柄から離させることに成功した。
その言が最もだということと、自ら呼び寄せたということで董卓は蔡邕の意見を無視することはできなかった。
「俺はそんなつもりはない」
自分の中にまだあれほどの怒りを溜め込んでいたのか、と驚きながらも平静な顔をして董卓はそう言った。
朝議の場はヒリヒリとした雰囲気がとけ、落ち着きを取り戻した。
「それはよろしゅうございました。ときに董司空、帝位交替はあまりにも大きな問題、これは一度各人持ち帰り、おのおの考えてみるのがよいのではないでしょうか」
確かに緊張がとけたこの場では、董卓の意に沿わせるような議論はできなかった。
蔡邕にしても、これ以上董卓が憤怒を発したら斬られかねないという予測があった。
董卓は政治家ではない。
話術、弁舌をもって抵抗できる人物ではない。
それを朝臣一同が理解する必要があった。
今までのような攻め方では、いつ屍がここに転がるかわかりはしない。
「時間稼ぎ、というわけか。よろしい。俺もちと短気が過ぎた。次は実りある議論ができればよいな」
董卓は立ち上がり、朝議の場から退出した。
それを見送る中で二人の人物が行動を起こすと決意した。
一人は袁紹である。
何進の腹心として、そしてその何進の復讐も兼ねた宦官虐殺を実行したこの男は、それによって得るものは無かった。
張譲が逃がした皇帝を保護した董卓によって功績は独占されたようなものだからだ。
そして、その危険性も理解できた。
朝議の場に帯刀して入場し、あまつさえ盧植を殺そうとした。
普通はそんなことはできない。
やろうとも思わない。
袁紹の理解の外にある董卓という男は、除かねばならない。
そのためには、今洛陽にいることは危険だ。
数万の軍勢を持ち、三公の地位を手にした彼に抗すことは不可能だ。
ならば袁紹のできることは地方に下り、そこで軍を集め対抗すること、だ。
今は逃げるよりない。
袁紹はすぐに冀州へと逃亡した。
董卓ははじめはこれを咎め、追討せんとしたが後々、袁家を取り込まんとし、冀州の勃海太守に任じた。
しかし、袁紹の決意は固く、董卓の元に従うことはついぞ無かった。
行動を起こしたもう一人は丁原であった。
彼もまた董卓と同じように大将軍府からの命で軍を率いて上洛していた。
機運を図っていた董卓とは違い、彼は素直に参上した。
何進は彼に孟津の制圧を命じ、丁原はそれを遂行した。
孟津は洛陽の北にある黄河の渡し(津)であり、そこを制圧することで往来を制御することができる。
また、洛陽に程近い孟津に火や煙が生じる様子は大将軍側の本気を宦官に見せつける効果があった。
その後、丁原は執金吾に任命されている。
洛陽近辺の治安維持を任された丁原であったが、袁紹との連携がうまくいかずに宮廷の騒ぎの際は現場へいなかった。
そして、むざむざと皇帝を拐われ、それを董卓に救いだされた。
そのため、その日の朝議には出席していたものの、大した発言権も無く、国家を混乱させんとする董卓の言動に内心憤っていたのだ。
そして朝議が終わると、奸臣討つべしとばかりに兵を集めた。
「董司空は朝政を壟断し、今上陛下を廃し、陳留王を傀儡にせんと画策しておる。私は執金吾として、洛陽の守護を任されておる。今こそ兵を挙げ、主上をお救いする時ぞ」
自慢の配下である呂布を先駆大将とし、その後ろから高順、張遼といった若武者が騎馬を率いて続けば必ずや董卓を討てる。
そう目算をたてた丁原は、しかし、その日の夜に急死した。
腹心中の腹心であった呂布が、突如丁原を襲い、その命を奪ってしまったのだ。
呂布は丁原軍を率いて、董卓のもとを訪れ帰順した。
大将軍何進、車騎将軍何苗に引き続いて、董卓は執金吾の軍勢までも手中にすることができた。
もはや、洛陽近辺で董卓に、かなう規模の軍勢は存在していない。
これはすなわち、誰も董卓に逆らうことができなくなった、ということである。




