百三十二、宮廷掃除
夕暮れと共に洛陽に入城した董卓は、翌日を宮廷の整備にあてた。
何百人も宦官が死んだのだ。
まともな感性を持つ人間なら、そんなところで寝起きなどできまい。
そこら中に血しぶきの痕があり、肉片が飛び散っており、亡くなった宦官の悲鳴が今も聞こえるような気持ちになる。
だが戦場暮らしの長い董卓軍の面々は、青ざめる新参の中央軍兵を置いてきぼりにして掃除に励んでいた。
「さすがは宮中だな」
と張済が呟いた。
「どうしました叔父上?」
甥の張繍が真っ赤になった布を、顔をしかめて見た。
宦官の遺した最後の痕跡が拭われていく。
「涼州には無い華美さ、優雅さ。そんなもので溢れている」
「はあ……。私には壊しやすそうだな、としか思えませぬが」
「宮廷に入る機会などもう無いかもしれぬ。そんなことを言わずによく見ておくがよいぞ」
涼州武者は武勇に長けるが、このような雅なものの理解は薄い。
張済は若い頃に、張家当主の張烈老人に教わったためになんとか理解はできる。
そのような浅い知識でも、この洛陽の宮廷というのがどれほどの財の上に立っているのか理解できる。
そして、今回のこと以前にどれほどの血が流れたのかも。
そんな部下の様子を見ながら、董卓は弟の董旻と話をしていた。
数ヶ月だが、この洛陽で工作をしていた董旻の持つ情報は非常に重要であり、共有する必要があった。
「現在の朝廷はどういう状況になっておる?」
「まともに機能はしておりませぬ」
「まあ、そうだろうな」
現在の朝廷は、形式的には皇帝を頂点にした金字塔型組織である。
皇帝の補佐として大将軍がおり、大尉、司空、司徒の三公、その下に九卿がいる。
だが実際は、その隙間に宦官が入り込んでいた。
皇帝の意志を代弁し、公卿らのつながりを調整することで権力を握り続けていたのが宦官だった。
しかし、皇帝は拉致されたことで精神的に衝撃を受け寝込んでいる。
大将軍の何進は暗殺された。
そして、宦官がほぼ全滅したことで三公と九卿らの調整能力が消滅したので有効な手を打てなくなっていた。
「しかし、宦官らの影響がここまであるとはな」
董卓は宦官のことは嫌いだった。
憎んですらいた。
だが、彼らを排斥することでここまで中央の組織が動かなくなることは想像していなかった。
袁紹らの暴走は、短慮であった。
しかし、そのおかげで董卓が今ここにいるという状況を招いた。
「大尉は崔烈です」
「うむ。昨夜、北茫に出迎えに来た男だな?」
「ええ。政治家としては優秀です。しかし売官で官位を買ったことで評価を落としております」
「確か、涼州を放棄することを提案していたと聞いたぞ」
「そうです」
崔烈は数年前の王国や韓遂の反乱の際に、反乱軍に占拠された涼州を帝国から切り離し、捨てましょうと提案した。
漢帝国の弱腰を見せるわけにはいかなかった何進らに反対され、その後に漢陽太守となり反乱軍に殺された傅燮に激しく批判された。
「追い落とせるか?」
「おそらく。息子の崔均が袁紹に同調しているらしく、そこを突ければ」
「よし。その線で行くか」
「次は司徒ですが、現在は誰も就いておりませぬ」
「ほう?」
「先月まで丁宮という者が就いておりましたが、彼が罷めてからは朝廷が混乱しているために任官が滞っておりました」
「俺が就くことは可能か」
董卓の今の役職は并州牧で、前将軍である。
前者は并州の責任者で、後者は武官だ。
陳留王の信頼を得たとはいえ、朝廷内では発言権はない。
それが一気に三公の位を得ることができれば、朝廷掌握に大きく近付く。
「可能でしょうが……」
「懸念があるか?」
「前任の丁宮はこちらに引き込めます。その上で兄上が別の三公の位を得られれば数の上では有利になれます」
「その丁宮を前司徒として扱い、俺が別の位を得ることで三公内で二対一の状況を作る、か」
「はい」
「ということは、俺は司空になればよい。司空は確か」
「劉弘でございます。南陽出身の皇族ですな」
「特に何かをしたということは……」
「ありませぬな。皇族ゆえに三公に就いたくらいの立ち位置でしょう」
「こいつを落とせるか」
「はい。手立てはありまする」
「よろしい。では九卿で何か重要な事は」
「今回の変事で少府の許相が斬られたくらいで、大きな動きはありませぬ。所詮は宦官の手のひらで踊っていた者らに過ぎませぬな」
「ふうむ。隔世の感があるな。俺の若い頃は九卿など雲の上の者らで深い思慮のもと動いていたと思っていたが」
まあ、皇帝ですら“人”であるのだから、九卿など俗人とほとんど変わりはないのだろう。
九卿や三公という顕職に就いているからと言って、その人物が聖人君子とは限らない。
宦官は確かに悪であった。
しかし、己の野心や欲望に忠実であったことは確かだ。
その方が人間らしい。
彼らが居なくなって、はじめて董卓はそう思った。
「とにもかくにも今の俺は洛陽近辺で最大の戦力を持っている将軍だ。そして皇帝と次期皇帝を手中にしている」
「その通りです」
「あとは三公の地位を得て名実ともに朝廷の全てを握る」
「はい」
董旻はろくに寝ていないはずの兄の顔を凝視した。
興奮しているのは確かだが、暴走ではない。
冷静に盛っている。
一体どんな人物ならこんな好機を掴めるというのか。
「とはいえ、我らだけでそれはできぬ。朝廷側に協力してくれる者はいるのか?」
「はい。主上の郎中令の李儒という男を中心に、涼州や三輔地方出身者がこちらに与しております」
それも今まで宦官によって圧迫されていた者たちだ。
けして高官が多いわけではないが、各省庁に満遍なく協力者がいる。
彼らは互いに連携をとり、董卓を権力の座につけることを約していた。
涼州の英雄である董卓が朝廷を掌握すれば、漢帝国は変わる。
自分たちの時代が来る、と彼らは確信していた。
よし、と董卓は立ち上がった。
「まずは李儒とやらに会う。今日中に司空へなるぞ」
「きょ、今日中ですか?」
董旻は慌てて、兄のあとを追った。
夕刻、司空府に下された皇帝の勅に劉弘は激しく動揺した。
「わ、わたしが罷免……?」
大過無く役目を全うしていたと劉弘自身は思っていた。
けっして罷免されるような失敗をしていないはずだ。
宦官にも、大将軍にもつかず皇族として間違いない行動をしていた、はずだ。
勅を運んできた郎中令の李儒は涼しい顔で劉弘を見ている。
こいつはどういう男であったか、と劉弘は李儒のことを思い起こした。
それは現実から逃避する行為であった。
自身が罷免されたという現実から目を背けたいのだ。
李儒、字を文優。
司隷左馮翊郃陽の出だ。
若い頃は何をしていたかわからない。
黄巾の乱の後に博士として知られ、朝廷に登用された。
いつの間にか、だ。
先帝の死後の混乱も乗り切り、新帝の郎中令となっていた。
いつの間にか。
郎中令は宦官がいなくなった現在、皇帝の意を聞くことのできる職の一つだ。
宦官のように権力を握るところまではいかないだろうが、皇帝の意を操作することはできる。
「長い間、雨が降らぬのは天候を司る司空の責だ、と?」
「しかり」
「馬鹿な。天文を操ることはできぬ」
「ならば上奏するのがよろしいか、と」
「わ、わたしが上奏したところで」
お前が握りつぶすのではないか、と言いかけて劉弘は止めた。
今まで目立つことが無かった李儒がこうも動きをあらわにしたのは、何か新たな動きがあるからではないか、と感付いたためだ。
「他に何かございますか?」
「わ、わたしの後任は誰になるのだ?」
「董卓様でございます」
それが答えだ。
新たな秩序、もしくは混沌を呼び込む人物。
劉弘は今までのように誰にも巻き込まれることがないように、故郷に帰ることを決めたのだった。




