百三十一、洛陽に帰還せし者
董卓が皇帝弁と陳留王協を連れて洛陽にやってきた頃には、宮廷の宦官大虐殺は一応収束していた。
とはいえ、宦官らの亡骸は山積みされて埋葬もされておらず、宮中の混乱はいまだ続いていた。
皇帝の帰還を出迎えたのは、大尉の崔烈だった。
この崔烈は売官で大尉の位を買った人物である。
その行為は同輩だけでなく、息子にも批判されたようだ。
官位を金で買った者を蔑む“銅臭”という言葉ができたのは、この崔烈のせいである、ともいう。
ともあれ、崔烈は皇帝らの帰還を喜び、そして連れてきた董卓のことが気に入らなかった。
洛陽は混乱していた。
皇帝らの不在を知ったのも遅かった。
捜索隊を組織する間もなかった。
血まみれの宮廷を探し、不在を確認するので精一杯だった。
なのに。
なのに、だ。
涼州牧だか并州牧だか知らないが、辺境の将軍が宦官から皇帝を救出して帰還するなど、軍事を統括する大尉の面目が丸つぶれであった。
ようやく見知った者の顔を見た皇帝弁が泣いて喜ぶのを見た崔烈は、董卓にこう言った。
「帝は兵を退けとの詔勅だ!」
兵から解放されて泣くほど嬉しい、という感情を兵がいるのは嫌だという意思だと曲解して、それを皇帝の意志、すなわち詔勅だと言いきる。
政治闘争に全力を傾けてきた崔烈だからできる手法だ。
皇帝の詔勅、という言葉はおおよその者を萎縮させ、その意に従わせる効果がある。
崔烈にとって不幸だったのは、董卓という人物がおおよその者ではなかったことだった。
董卓は激怒した顔を造った。
そして天地も震えんばかりの声で言った。
「貴公らは国家の大臣でありながら王室を是正することもできず、挙げ句の果てに、国家そのものである皇帝陛下を流浪させてしまった。兵を退けとは何事か!」
詔勅の効果が出なかったことで、崔烈の頭脳は停止した。
あまりにも想定外だったことと、大音声の効果で、だ。
崔烈が何も反論しなかったことで、董卓は彼から目を離し、そのまま董卓軍を進軍させた。
周囲にいた公卿らは止めることもできずに、ただ通過を許した。
味方してくれる者がいなくなった皇帝弁は、再び震えだした。
陳留王協は、そんな兄であり皇帝である弁をちらりと見て、それきり興味を失ったように目を離した。
「董将軍。よいのか?」
「何が、でしょうか?」
「今のは大尉の崔烈だ。彼を虚仮にしたことで朝廷を敵に回すことになるぞ」
それは心配するというよりは、どうするのか好奇心で聞いたような声音だった。
董卓が支えると宣言したことで、劉協は自信がついたようだ。
自信は、彼の才覚をさらに広げることになるだろう、と董卓はほほえましく思う。
「所詮は本物の戦場に立ったこともない名ばかりの大尉。私の相手にはなりませぬ」
「本物の戦場……」
「朝廷も私が変えまする」
そして一行は洛陽に入城する。
市街の前で待っている人物がいた。
董卓の弟の董旻であった。
「旻」
「お待ちしておりました兄上」
董卓に先行して洛陽に入っていた董旻だったが、兄のため暗躍していた。
董卓軍の取りまとめとして、そして猛将という役割も持っていた彼は新たに謀将としての才も開いていた。
「この軍勢は?」
董旻が率いていたのは五万ほどの大軍である。
長安で手放した前将軍の軍よりも倍ほどに多い。
「兄上の軍でございます」
董旻は洛陽に入ると知り合いの呉匡という者に接触し、大将軍の何進配下に潜り込んだ。
本来ならそこで董卓の待遇を良くする工作をするはずであったが、何進が宦官に暗殺されてしまったために方針を変更せざるを得なかった。
董旻は呉匡に、何進を害したのは宦官と通じた何苗であると吹き込んだのだ。
本当なら、何進と兄弟である何苗のことなど疑うはずもない。
だが、何進と何苗は異父兄弟であった。
何進の父、何真が後妻を娶った時に後妻の連れ子であった苗にも何姓を与えたのだ。
何家はそれほど大きな家ではなかったので、それで良かったのだ。
それから本当の兄弟のように過ごしていた。
何進の妹が皇后となり、何進と何苗は外戚となった。
やがて何進は大将軍となり、何苗も車騎将軍に任じられた。
自分達の栄達が皇后である妹のおかげであることを何苗は良くわかっていた。
その皇后の世話をする宦官もまた彼らの権力の源泉であることも、わかっている。
それが兄弟の間で方針の違いとなり言い争いになることはあった。
黄巾の乱鎮圧などある程度の功績はある何進は自身の力でなんとかできると思っていたし、何苗は自分たちの力などなく宦官こそが権力の源泉だと思っていた。
とはいえ、それは言い争い程度であり、けっして相手を殺したいほどではなかった。
だが何進が暗殺された瞬間、呉匡は誰が敵で味方かわからなくなった。
そこに董旻は何苗こそ害すべきと囁いた。
そして呉匡は朱爵門で何苗を襲撃し、その命をとった。
何進と何苗が率いていた総勢五万の軍勢は指揮官を失ってしまった。
董旻はこれを掌握し、董卓の上洛時に指揮下におけるように間に合わせたのだった。
「苦労をかけたな」
「いえ。兄上の方こそ。まさか主上を救出するとは」
皇帝の救出など五万の軍勢を集めるより難しいことだ。
それを成せるのはやはり兄の董卓は英傑なのだと董旻は認識するよりない。
「これで洛陽近辺で大軍を運用できるのは我らだけ、というわけだな?」
「いえ、まだもう一人おりまする」
董旻が調べた限り、万単位の軍勢を動かせる人物はもう一人いた。
「ほう?……なるほど執金吾か」
「は、まさしく」
執金吾というのは、洛陽近辺から集められた士を統率し北軍とし、都の巡察、警備を行う役職である。
その原型は秦帝国には成立しており、前漢の武帝のころに執金吾と改められた。
秩禄は中二千石。
現在任官しているのは丁原である。
「丁原配下に一人豪傑がいると聞いたことがある」
「兄上もご存知でしたか。確か呂布と言ったかと」
「呂布……もしそれが名声に違わぬ者なら……欲しいな」
「兄上が何かを欲すのは珍しいですな」
「そうか?」
董旻の知る限り、董卓は欲しいものはなんでも手に入れたように思う。
故に手に入らぬものを欲しがるということが無かった。
「ええ」
「まあ、よい。丁原が歯向かうなら潰すのみ。旻、これからもっと忙しくなるぞ」
「それはまあ覚悟の上です」
「まずは宮廷を掃除するか。袁家の小僧が住めぬほど汚してしまったゆえな」
「ええ。掃除する宦官をごみにしてしまうのですから、常人とは考え方が違うのでしょうな」
「まったくだ」
董卓軍は何進と何苗の軍勢を引き連れて、先頭に皇帝と陳留王の乗った馬車をたてて洛陽の市街を行進した。
それは、新たな洛陽の支配者を印象付け、そして新たな時代がやってきたことを否応なしに民に知らしめた。
洛陽近辺の上品な騎士たちが、涼州からやってきた半ば蛮族のような騎兵らに率いられる姿は、洛陽が異民族に制圧されたような印象を与えるのだった。
董卓はその先頭にいた。
先帝の霊帝に叱責され、左遷されてから二十年あまり、董卓はついに洛陽に帰ってきたのだった。




