百三十、野心の結実
「董卓でございます。お二方を洛陽にお戻しいたします」
大儀である、と返すべき天子はさきほどまでの混乱のためにますます心を閉ざし、震えるばかりだった。
ふう、と少年の方が息を吐き、口を開いた。
「その方の忠心、大儀である……と主上は申しております」
「は……」
「私は陳留王劉協。陛下がこのとおりゆえ、貴殿の相手は私がさせていただくが、よろしいか?」
弟の方が話が通じる、と判断した董卓は皇帝弁から視線を外して劉協の方を向いた。
遥か昔、まだ若い頃の霊帝劉宏を見たことがあった。
あの頃はまだ彼は肥満しておらず、御簾の向こうからでも活発な雰囲気があった。
目の前の劉協は、その劉宏の息子だ。
母親の血が濃いのか、整った容貌をしている。
将来は美男子となるだろう。
父親のように怠惰な生活をしなければ。
「は。こちらは何も不満はございませぬ」
「それで董将軍の目的は?」
「目的……と申しましても、主上と殿下が拐かされたと聞いて居てもたってもいられず、手勢を率いて参った次第で」
嘘である。
董卓はその予測で、追い詰められた宦官の誰かが皇帝を拐うかもしれぬ、と判断した。
そして、どこが一番遭遇する可能性があるのか考え、小平津を目指しただけだ。
まさか、拐ったのが宦官の領袖である張譲で、皇帝とさらに弟の劉協も連れてきていたことは不測の事態であった。
ふと、そこで董卓は面と向かって話をしている劉協の手がかすかに震えていることに気づいた。
兄で、皇帝の劉弁ほどではないが。
「私が恐ろしいですか?」
劉協は、はっとした。
自分が震えていたことに気付いたようだ。
「そ、それは」
宦官に拐われた自分たちを助けた者、と言えば聞こえはいいが、また別の誘拐者に捕まっただけとも言う。
しかも、宦官の張譲なら逃げ出すこともできるかもしれないが、次の相手は武闘派だ。
少しでも機嫌を損ねると命すら危うい。
「これでも漢帝国の臣でありまする。皇族への害意は微塵もありませぬ」
「そう、ですか……」
皇子でも恐れるのだな、と董卓は思った。
皇帝もまだ震えている。
感情があるのだ、と董卓は思い至った。
ぞわぞわと董卓の背におぞけが走った。
頭の中で、幾多の概念が組合わさっていく感覚。
もし、董卓がずっと中央にいて皇帝の近くにいたら、この邂逅でも特に変化は無かっただろう。
しかし。
しかしだ。
董卓は、普通の漢民族と同じように皇帝を、天子を神と同一視していた。
だが、感情をあらわにして、恐怖に震える皇帝兄弟を見て、董卓は気付いてしまった。
神ではない。
天の子ではない。
彼らは人だ。
俺たちと同じ、人間なのだ。
恐れ、哀しみ、惑う。
喜び、笑い、決断する。
「董将軍……いかがした?」
おそるおそるという様子で、劉協が声をかけてきた。
董卓が長い間、沈思黙考していたためだ。
「私がこれから話すこと、気に入らなければこの首を落としてくださいませ」
「何を……」
ほぼ初対面の、年長の軍人にそう言われてさすがに劉協は困惑した。
「殿下が、次の帝に即位なさいませ」
兄に聞こえないように、弟だけに聞こえるように、董卓は言った。
劉協の体がびくりと痙攣のような動きを見せる。
「それは」
「この言葉一つ一つに、私は首を賭けております」
「私に……兄を討て、とでも……?」
「そこまでは申しませぬ。兄君には退位してもらうのみで充分」
「だが、皇太后様がいる」
皇帝の後ろ楯には皇太后がいる。
「皇太后様の権力は、皇帝の母であること、宦官が味方であること、大将軍が兄であることが裏付けになっております。しかし、今それは無くなっております」
「……確かに」
皇帝の母であることは、皇帝が退位することで無くなってしまう。
宦官は袁紹らに皆殺しにされ、大将軍何進はその宦官に暗殺された。
ここに震えている兄が皇帝でいるのは、他になる者がいないからに過ぎない。
劉協の胸中に、何かが沸き上がり……。
「帝位とは苦渋の座でございます」
「董将軍……私の心を見抜いたか」
「焚き付けたのは私です。しかし、野心を持って帝位を継ぐのは誰にとっても不幸なのです」
「ならばなぜ、誰もが帝位を望むのか?」
皇位継承を巡って、暗闘、あるいは目に見える抗争が起きたことは一度ではない。
劉弁と劉協の間にもそういう雰囲気があった。
だが、劉弁の外戚が強かったことで抗争は起きなかった。
劉協の後ろ楯となる有力者もいなかった。
「自分が国を、世界を統べることができるように思えるから、でしょう」
「天子とはそういう者ではないのか?」
「兄君をごらん下さい。国を、世界を統べていたのは彼でしょうか」
答えは否だ。
漢帝国を操っていたのは宦官であり、外戚だった。
「ではなぜだ!?なぜ私を」
「殿下……お静かに」
大きな声を出した弟にすら、劉弁はおののき震える。
ずっと震えたままの、兄を見る劉協の目がわずかに色を変えた。
「私は」
「私は漢帝国を救いたいのです」
劉協の言葉を遮るように董卓は言った。
「どういうことだ?」
「漢帝国の威信は地に落ち、洛陽は荒れ果て、人心は離れております。それを正し、建て直すには暗愚な帝は不要。賢き帝が主導して朝廷を引っ張っていくよりない」
「私にそれをしろ、と?」
「しかり」
「だが、私には何の力もない。父である先帝は無く、母は害され、付き従う宦官もいない」
「臣がおります」
董卓は力強く言った。
「董将軍……」
「私が殿下を帝位につかせ、漢帝国を復興させます」
それはまさしく野心が結実する時であった。
新皇帝の腹心として腐敗し倒れかかった王朝を建て直す。
その結果は宦官も外戚も超えた真の権力者の誕生であろう。
董卓が抱えた野心はこの時のためにあったと思えるほどだ。
それと同時に、この聡い少年を不憫に思う気持ちも董卓にはあった。
暗愚な帝を据え続けて漢帝国は衰退していった。
幼い帝、愚かな帝が何を導けるというのか。
ならばこの未来ある若者に任せてみようと董卓は思うのだ。
いつの間にか、劉協の震えは止まっていた。
「任せる」
「御意」
帝位が喜びに満ちたものである、と思われているのはその創始者のせいであろう。
秦の始皇帝、漢の高祖、光武帝。
彼らは皇帝の座を己が手で掴んだゆえに、その座に栄光があるのだ。
しかし、その後継者はよほどの才覚がなければすんなりと帝位を継げることはない。
玉座は血にまみれている。
劉協はその血の上に座ることを覚悟した。
「洛陽が見えてきた」
劉協がポツリと呟く。
出ていく前はここが彼の見える全てだった。
世界そのものだった。
連れ去られる時はどうなるかわからない不安で胸が押し潰されそうだった。
なのに、自分よりもっと動転している兄をなだめるうちに、こちらが怖がる時期を逸してしまったのだ。
そのことを腹立たしく思っていたことに、劉協はいまさら気付いた。
そして今、新たな決意とともに帰還した洛陽は、出る前とはまったく違って見えるのだった。
それは十数年ぶりに洛陽を見た董卓も同じだった。




