百二十九、小平津の夜
「張譲……我らはどこに向かっているのでしょう」
状況に流されるままだった子供が、口を開いた。
皇帝劉弁、ではなく弟の方の劉協だった。
そうだ。
震えるだけでなく、まず今何が起こってどうなるかを確認すべきだ。
張譲が、もしこのように連れられるままであったらそうする。
劉協は聡い。
だからこそ、兄の劉弁を選んでよかった、と張譲は思った。
外戚という邪魔者がいない弟の劉協ならば、権力を握るのに頼るのはまず宦官であろう。
それでも劉弁が新皇帝に選ばれたのは、霊帝の長子であるとともに愚昧だからだ。
父の霊帝の性質をそっくりそのまま受け継いだように、劉弁は愚かで、小心で、怠惰だった。
そして、そういった人物こそ宦官が担ぎ上げ、傀儡とするのにふさわしい。
余計な知恵や賢しさはいらないのだ。
「我らは段珪殿の故地である兗州済陰へ向かっております」
同行している宦官の段珪は張譲の派閥の中でも実力者であり、一族の者を多く官職につけている。
故郷の済陰郡ではその権勢は絶大のはずだ。
「そこを新たな都にする、と?」
「いえ。あくまで都は洛陽でございます。済陰は古来より皇族が王として統治した場所ゆえに、皇族への信奉が強く、必ず協力する者がおります。悪逆なる者を討つにはそういう力が必要でございます」
微笑みを浮かべてそう語る張譲は、本当にそう思っているかのように思わせるのに充分な笑顔だった。
声音、声量、抑揚などを駆使して、話術で幾多の勝利をおさめた彼にとって、いかに賢しいとはいえ子供の劉協を言いくるめることは難しいことではなかった。
問題は、兄の皇帝劉弁がガタガタと震えるばかりで、うずくまっているばかりなことだ。
せめておとなしく馬車の席に座っていてくれないか、と張譲は苛立ちを覚えた。
劉協が兄の背を撫でてなだめているのが、苛立ちに拍車をかける。
馬車がガタリと揺れ、悲鳴がいくつか響いた。
「む」
追手か、と張譲は焦りを覚えた。
しかし、追ってこられるはずがない。
それに、悲鳴は前から聞こえた。
野盗か?
だが野盗程度なら蹴散らせるくらいの護衛はいる。
ぎゃっという声がくぐもって聞こえて、馬車が止まった。
御者がやられたか。
止まった馬車の戸が力任せにぎりぎりと開かれた。
その隙間から何者かの顔が覗いた。
「ここか」
とその人物は呟いた。
張譲の額に本人も自覚しない冷や汗が流れた。
河東から小平津へ直行した董卓軍は、小平津関を通過した。
この小平津関は、洛陽を囲む八つの関所の一つである。
これは後漢の時代に至るまでに整備された洛陽を守護する関門である。
長安から洛陽に至る街道にある新旧の函谷関もその一つだ。
また、この八関の他にも洛陽西方守護の潼関や東方守護の虎牢関など、いくつもの関が漢帝国の首都である洛陽を守っている。
この八関が有機的に連携し、より一層防御効果を高めるように取り計らったのは大将軍何進である。
その当時、冀州など全国で跋扈していた黄巾賊が洛陽まで攻めて来ないように防備を固めるのが目的だった。
本来なら外から四千もの大軍を率いてきた董卓などは通り抜けることなどできぬのだが、そこは大将軍からの召集命令が効果を発揮した。
たとえ実際には袁紹が発したものだとしても、大将軍府の印が押してある以上、これは正式な書状である。
門番が通さぬわけはなかった。
関所を抜けた董卓軍はこちらへ向かってくる馬車の列を見つけた。
「義父上!あれですか!?」
結局付いてきた白泰は董卓へそう聞いた。
「うむ。李傕!ひときわ立派な馬車を探しだせ!見つけるまでは馬車への攻撃を禁じる」
「かしこまりました!」
李傕は手勢百騎あまりを率いて急行した。
軽騎兵のみで構成された李傕隊は馬車列が対応する前に、その護衛たちを蹴散らした。
鈍重な歩兵を長安に置いてきたために、董卓軍は重さを削ぎ落とし、機動力特化の軍団と化していた。
その速さに対抗できる軍は、少なくとも洛陽にはいなかった。
韓遂や馬騰らが戦力を充分整えたならあるいは坑しえる、かもしれない。
ほんのわずかの襲撃で、李傕は目的のものを探しだした。
「見つけたか」
「は。金ぴかの飾りと竜の彫り物がありましたので、これか、と」
竜は皇帝のしるしだ。
皇帝にしか使うことのできないものだ。
つまり、その馬車には皇帝が乗っている。
中華世界の最高権力者、天より遣わされた天子、徳をもって世界を司る者。
それが何の因果か、すぐ側にいる。
白泰はもとより、董卓自身もいくばくかの緊張を覚えた。
それはここ数年、いや数十年感じたことのないものだ。
例えるならば、それは激烈に信仰する神との遭遇とでも言うのだろうか。
先帝とは御簾ごしに、宦官の口を借りてだが叱責を受けたことがある。
董卓の天子との接触はそれが全てだ。
「俺が開けよう」
董卓は李傕の見つけた馬車に近付き、戸に手をかけた。
天子の乗る馬車に手をかけるなど、普段ならあり得ない不敬だ。
その瞬間、雷撃が身を焼いても不思議ではない。
大げさかもしれないが、漢に住まう人間はそういう認識だ。
天子とは触れざる者、仰ぎ奉る者、天上より見下ろす者だ。
不敬をなせば罰が下るし、不遜な振る舞いをすれば罪となる。
その“常識”に抗って、董卓は戸を力任せに開いた。
中には三人いた。
老齢の、つるりとした顔の男。
顔を伏せて震えている若い男。
こちらをじっと見ている少年。
「皇帝陛下の御前である。罰が下される前に去れ」
宦官が重々しく言った。
「皇帝陛下ならば従おう。しかし宦官に従う謂われは俺にない」
静かに、そして強く董卓は言った。
宦官は言葉に詰まる。
この状況で、彼がすがるべき皇帝の威光が董卓に通じなかったことで次の一手が見出だせない。
「張譲」
董卓はその宦官の名を呼んだ。
張譲と直接会ったことは無かったが、この状況を予測した時に、こういうことをするのが彼だと董卓は知っていた。
その予測は当たっていたようで、張譲の顔色がさあっと変わった。
自分の派閥の者以外に、こうすることを言わなかった。
だから董卓に名を知られているはずが無かったのに。
とでも思っているのだろう。
「下郎!私を誰と心得る!?」
「誰でもよい。そもそも俺は宦官が嫌いだ」
「ッ!?」
「ゆえに宮廷を襲うまでに至った者らの気持ちはわからぬではない」
「それは、漢帝国への逆心ぞ」
「逆心を抱いたは貴様だ」
「なにを」
「政を壟断し、帝国を混乱せしめ、各地に乱を招いたは貴様らだ。あまつさえ主上をさらい、おのが目的のために利用せんとする。これが逆心でなければなんだというのだ」
「お前になんの権限があって私を断ずるというのだ!」
「漢帝国前将軍、并州牧董卓の名において中常侍張譲を捕縛する。取り調べの後、しかるべき刑に処す」
董卓はぬっと手を伸ばし張譲の喉を掴んだ。
そして、その野心に対しあまりにも軽い体を馬車から引きずり出すと、外へ放り投げた。
「李傕、罪を吐くまで話を聞いてやれ」
「やり方は?」
「任せる」
そのやり取りが、自身に対する恐るべき処置のことを話していると気付いて張譲は土気色になるまで顔色を変えた。
つい昨日まで漢帝国で最も高い場所にいた人物が、罪人として落とされた衝撃が張譲を襲っていた。
この後、張譲は聴取の最中に亡くなった。
あるいは入水自殺とも言われる。




