百二十六、野心煌々
おそらくこれは夢だろう。
そう思うことは何度かあった。
それは空想の世界であったり、果てしなき苦悶の道のりであったりした。
最もよく現れるのは、もうどうやっても会えぬ者と再会する夢だ。
己が手で殺した彼女や、緩やかな風の中に逝った彼女のことはたまに夢に見る。
「父上」
声を聞いたように思うのだが、それがどういう声だったが思い出すことはできない。
覚えていないのか、忘れたいのか、自分でもわからない。
息子の声だ。
ちちうえ、と呼ばれていたのにそこに思い至らなかったのは、それが夢だからか、思い出したくないからか。
「父上」
顔ももう思いだせないのだ。
思い出したくない。
「父上」
そこで董卓は目を覚ました。
午後の陽が差し込んで、部屋が暖まっている。
その暖かさがうたた寝を呼んだようだ。
「父上がこんなに起きないのは珍しいですね」
「祥か」
次女の董祥が目の前にいた。
「お疲れですか?」
「どうした?」
「輔くんに差し入れ、のついでに父上の様子を見に来ましたよ」
董祥の夫は董卓の部下の牛輔だ。
輔くん?
「そうか……」
「心配なさらずとも、私が抑えときますから」
「抑える、とはなんだ?」
「輔くんがいらぬ野心を持たぬように」
「いらぬ……野心」
「承の代わりに父上の跡を継ごうなど思わせもしません」
「……要らぬ気遣いをするな」
「……」
「苦労をかける」
「何も苦労などありません。ごはんが食べられて、安心して眠れるだけで幸せですから」
「そういうところは母親に似たな」
「母上からは父親似だと言われましたけどね」
思わず董卓は笑ってしまった。
この娘と話していると、鬱屈したものが晴れるような心持ちになった。
「くくく。お前が牛輔の子を生めば問題はなかろうに」
「うわあ。父上、それは気遣いに欠ける言葉ですよ」
「そうなのか?」
「そうなのですよ」
ひとしきり笑ったあと、董祥は帰っていった。
「娘にまで心配されるか?この董卓が」
独り言は誰にも聞かれず消えていく。
「息子を亡くしたくらいで……」
董卓の長子である董承は、母親である鮑犖の後を追うように病を得て亡くなってしまった。
期待の男子を亡くしたことで董卓は気落ちし、家族を二人失った董家は雰囲気が暗くなってしまっていたのだ。
考えなければいけないことは多々ある。
それは董卓の、董家の跡継ぎだ。
董卓自身、まだ壮健な気ではいるがそれでも年を取ったことは実感する。
いつ、どうなってもいいように、これからのことを考えねばならない。
董祥が危惧していたのもそのことで、家督争いなどが起こってしまえば精強な董卓軍とて壊滅する。
いや精強であるがゆえに、強い者同士が戦うことで被害は増してしまうだろう。
跡継ぎ候補としては、甥の董璜、娘婿の白泰、同じく娘婿の牛輔、の三人の一族衆の誰か、だろう。
それぞれ一長一短ある。
董璜は董卓の兄の子なので、血筋としては申し分ない。
だが、癖の強い董卓軍を率いるには才気の面では不足があるように董卓は思う。
別動隊の指揮官くらいならば無理なくこなせる才覚はあるはずだ。
白泰は長女の董啓の婿である。
商人だ。
なので部下の軍人たちの支持は得られない。
しかし、彼の商人としての才は円滑な補給を可能とする。
目立つことはないが、軍を強くするためには無くてはならない存在となる。
後継者としては微妙かもしれない。
董祥の婿の牛輔は武人だ。
すでに董卓軍の中で頭角をあらわしている。
董祥が危惧していたように、もし跡継ぎ問題が大きくなったら牛輔を推す声は強いものとなるだろう。
だが、董卓は牛輔の性格を危うんでいた。
武に偏重し過ぎている。
部下に対し厳しい。
まあ、それは軍律の遵守さと見てもよい。
そして、強気さの中にある臆病さ。
ここ一番という時にそれが出ねばよいのだが。
あるいは配下の将の中から選ぶか。
張済は軍を預けるにたるが董卓と同世代だ。
その甥の張繡も有能だが、軍に加わって日が浅い。
徐栄も良い。
だが彼は幽州出身であるため、涼州出身者の多い董卓軍ではなかなか難しいものがある。
同輩なら良いが上司となると厳しい。
選ぶなら李傕、郭汜、樊稠の三人の内の誰かだろうな。
武功、従軍履歴、出身と董卓軍を率いるのに条件は揃っている。
もし、武勇と人望を兼ね備えた人の中にいても、はっきりとその存在を知ることができるような若き将がいれば悩むことなく董卓軍を任せられるのだが。
独り思考を巡らせる董卓の元に、弟の董旻が訪れた。
「兄上は上洛するおつもりでしょう?」
董旻も、大将軍府からの書状の中身を知っている。
宦官勢力に追い落とされた大将軍の何進が、董卓や丁原といった地方の有力武将の力を借りて復活するという策を、袁紹がたてた。
それにのる、ということを董卓は袁紹からの使者に伝えていた。
「そうだ」
「私を洛陽に先に向かわせてください」
「ん?どういうことだ」
「大将軍殿の部曲(私兵)の呉匡という人物と接触しております。先に洛陽に入り、大将軍に仕えておきます。そして兄上を厚待遇で迎える準備をします」
「悪くない、が時間は長く取れぬぞ?」
董卓が軍をまとめ上洛するまで長くて半年。
その間に、涼州人が大将軍府の中で影響力を及ぼせるまでになるのか?
「ははは。やれることはやりまする。それに」
「それに?」
「いかに厳しい人物であろうと兄上ほどではありますまい」
「は?」
「それでは明朝たちまする」
「ちょっと待て」
「我が隊の指揮は阿横に、いや董璜に任せておりまするゆえ心配無用」
「俺はそんなに厳しいのか?」
「ははは。うまくやりまする」
董卓の厳しさのことはそれ以上言わず、董旻は去っていった。
「そんなに厳しいか?」
息子の早世。
浮上した後継者問題。
中央の政争に巻き込まれる、あるいはそれを利用しての台頭。
様々な問題を抱えながら董卓は、決意し、決断した。
一度は拒否した并州牧の任を正式に受諾した。
ちなみに二度の詔勅を拒否したことで処罰の対象になったが、霊帝の死と新帝の即位に対するゴタゴタの中で不問になった。
そして董卓を中央に誘うために再度、并州牧への詔勅が出されたのだ。
その条件として、董卓が保有する兵力を手放すことがあった。
董卓はそれを拒否していたが、今回はそれを行った。
董卓の私兵として三千ほどを残し、数万の兵員を皇甫嵩に預けることになった。
それは大軍で上洛すると宦官だけではなく、何進や袁紹からの警戒を招いてしまう。
それでは大将軍に取り入って中央での台頭を目論む董卓には不利になってしまうだろう。
「やるしかあるまい」
「義父上?」
同道していた牛輔が董卓の独り言を聞いたようで、聞き返してきた。
「いや、ずいぶんとすっきりしたと思ってな」
「ええ。この間まで三万はいましたが三千ですからね」
兵が減ったことは不利だけではない。
軽量ゆえの俊敏かつ機動的な動きができるようになる。
先行した董旻には悪いが、予定より早目に上洛できそうだ。
牛輔は特に疑問を持たなかったようで行軍に専念した。
董卓は思う。
長く中央を離れて西涼で力を蓄えたのはこの時のためではなかったか、と。
天意、というものを信じてもよいかもしれない。
大将軍の側近となり、宦官を排除し、そしてどこまでいけるか。
己が心の中心にいまだ燃え盛る野心を董卓ははっきりと自覚していた。




