百二十五、霊帝崩御
董卓を并州牧に任じる動きがあったのは、中平五年(188)の末であった。
同年に起きた涼州大乱、陳倉の戦いの論功行賞を董卓が拒否したためである。
少府に任じるという詔勅を董卓は拒否した。
それにはいくつか理由があったが、結局董卓は次のような上奏をした。
「涼州は混乱して鯨のごとき巨悪はいまだ滅びず、命を捨てる秋。兵士は御恩を思っては恩返しを願い、おのおのが臣の馬車を遮り、声音は懇々と真心がこもっておりますので、いまだ帰途に就くことができませぬ。しばし前将軍として誠意を尽くして軍務に尽力したいと思います」
共に討伐に当たった皇甫嵩側では、甥の皇甫酈がおそれ多くも天子の詔勅に従わぬなど言語道断、と董卓誅殺を謀った。
しかし、皇甫嵩はそれを止めた。
確かに陳倉の戦いは皇甫嵩の策と指揮で勝った。
董卓の献策は退けたのだ。
だが、それは董卓の能力が低いからではない。
配下に涼州出身者や異民族を多く抱え、自身も抜群の将軍である董卓は、皇甫嵩の策はなくとも勝つことはできただろう。
それでも皇甫嵩が強行したのは、短期決戦とそれによる漢軍の示威上昇を図ったためだ。
これ以上、董卓に西涼での影響力を高めさせるわけにはいかなかった。
彼は今は漢軍に属しているが、もし反乱軍に身を投じればたちまちその首魁となり、異民族を糾合して長安を落とすことは皇甫嵩には容易に推測できた。
それゆえに、董卓を殺すことはできない。
ほぼ独立軍である董卓軍は、董卓への忠誠で成り立っている。
また潜在的な董卓への協力者は多いはずだ。
それなくして、今や漢帝国は西涼の経営、統治ができなくなっていた。
涼州で董卓の名を知らぬ者はいない。
漢人はもとより、反乱軍の者も、羌族など異民族も、民草とて傑物としてその名を知っているのだ。
朝廷が彼を取り込もうとしつつ、軍権を切りはなそうとしているのもそのためだ。
中央に取り込み、敵に回ることなく影響力を保持させ続けるのか最善手であった。
年が明けて中平六年(189)、雪解けも待たずに董卓へ并州牧任官の詔勅がきた。
前年に新設された牧への赴任である。
今までの単なる州の監督でしかない刺史ではなく、軍権を保持した牧への就任は破格の待遇と言っていい。
それはまるごと一つの州を国と見なして支配していい、と言うことでもある。
しかし、董卓はこれも受けなかった。
正確に言えば、現在保有する兵員をそのまま并州に連れていく、という条件が満たされなければ拒否する、という答えだったようだ。
だが、その条件は認められなかった。
前将軍としての兵、右扶風駐屯の間に集めた兵、元々持っていた私兵、これらを合わせれば数万の大軍である。
これを個人が所有することはさすがに認められるわけはなかった。
二度に渡る詔勅の拒否は、さすがに朝廷も処罰の対象にせざるを得ない。
だが、董卓が処罰されることは無かった。
中央で、それどころでないことが起こったためだ。
四月。
涼州では雪が解け、春の気配がやってくる頃。
漢帝国の首都、洛陽。
後漢第十二代皇帝、劉宏が三十代という若さで崩御した。
十代で即位してから二十年あまり、美食と酒、美女にまみれた生活は確実に劉宏の寿命を削っていた。
数年前から食事の後に眠るように意識を失うようになっていた。
そして、今年のはじめ、寒い日の朝にどおっと倒れた。
それから、半分寝ているような生活を続け、春の暖かな風が吹く頃、意識を失った。
その後は、ついに意識を取り戻すことなく逝ったのだった。
諡号は霊帝とされた。
跡を継ぐべき子は二人あり、兄は劉弁、弟は劉協。
兄の弁の母親は何皇后、弟の協の母親は王美人だ。
何皇后の兄は大将軍何進、しかも何皇后には宦官の多くが助力している。
対して、協の母親の王美人は何皇后の不興を買って毒で亡くなった。
後ろ楯の面、長幼の序の面どちらでも劉弁が即位するに相応しい。
とはいえ、劉弁はまだ十三。
母親である何皇太后が親政を執ることになった。
そして、大将軍何進がその補佐をする体制となった。
何進は、しかし焦っていた。
外戚であり、黄巾の乱をはじめとした反乱に対する功績高い何進は、この新たな体制の中で影響力を保てなかった。
その理由の一つは、皇后より皇帝の母である皇太后の方が権力が上だ、ということが挙げられる。
皇帝に対する影響力がその権力の源泉である。
そして、政治的には素人である何皇太后が頼ったのは宦官であった。
言葉巧みに不安でいっぱいの何皇太后にすりよった宦官は、その信頼を得ることに成功し、引き続き絶大な権力を保つことができたのだった。
さらに何進と何皇太后の弟である何苗も、皇太后側、すなわち宦官の側についたのだった。
この何苗は当時、車騎将軍に就任しており動かせる軍勢は大将軍の何進に匹敵していた。
政治の権力、兵力で劣っていた何進はその状況を打開しようとした。
何進が打った手は、洛陽付近にいた武官に兵を集めさせ、また地方の有力武将を召集することであった。
前者には大将軍府掾の王匡、東郡太守の橋瑁、騎都尉の鮑信、西園八校尉の一人曹操らがおり、後者は丁原、そして董卓である。
董卓は大将軍から届いた書状を見ていた。
書状を届けたのは袁家の蔣義渠だった。
董卓とは古くからの知り合いだ。
「しかし、いつ見ても年のわからぬ顔だな」
「はは。もう四十年近くになりますか」
蔣義渠は董卓より年上のはずであり、そうであれば六十代でもおかしくないのだが、その見た目は四十代でも通じるほど若い。
「俺などもう孫がいるのだぞ?」
「月日がたつのは早いものです」
「……これを書いたのは大将軍では、ないな?」
何気ない会話から重要なことを混ぜ込み、本音を引き出すのは董卓の得意なことだった。
蔣義渠も頭の回転が早い男だが、その不意打ちにも似た会話に戸惑ってしまった。
「……なぜ、そうお思いに?」
そう問い返すのが精一杯だ。
「何進殿の字は特徴があるのだ」
「そんなバカな!?」
「朝廷の書式と、わずかに違っておるのだ。そしてこの書状にはそれがない」
「まさか……大将軍の筆跡を完璧に真似たはず」
「違いなどない。その言を引き出したかったのだ」
と董卓はニヤリと笑った。
はめられたことに気付いた蔣義渠は悔しげに笑う。
「性格が悪くなりましたか?」
「いや、だいたいこんなものだ」
「まあ、いいです。この書状は袁本初殿が記されたものです」
「袁家の……庶子であったか?」
「はい。袁紹、字を本初です」
「ん、待てよ。何進殿の属官にいたな?」
「ええ。袁本初殿は何進殿に仕えておりまして、大将軍府の施策に関わっております」
「優秀なのだな」
「まあ、袁隗様も目をかけてらっしゃいますゆえ」
「なるほど」
袁隗は、袁紹にとって叔父にあたり、董卓も世話になった人物であった。
人物を見る目は確かであり、董卓も蔣義渠も彼に見出だされた、と言っていい。
その袁隗が認めるならよほどの人物だろう。
「召集に、応じますか?」
「袁家の小わっぱに呼ばれるのは癪だが、大将軍殿の危機に応ずるのも忠臣の務めよな」
「では?」
「董卓軍を率いて上洛し、大将軍殿の助けとならん」
董卓の答えに満足そうに蔣義渠は頷いた。
そして、返答を伝えるため急いで洛陽に帰っていった




