百二十四、四方の天を画つ
丁原は字を建陽と言う。
貧しい家の生まれで学問は得意では無かったが、武勇については生まれの不利を跳ね返すように修練に励み、騎射の才を開かせた。
その武名は故郷を飛び出し、諸州に轟いた。
生まれなど何の足かせとなろうか。
彼は県吏から身を立て、武官を経て四十代半ばで并州の刺史となった。
そんな彼がまず手掛けたことは、兵を募ることだった。
連年の鮮卑の侵攻こそ鳴りを潜めていたが、隣の涼州は反乱軍と漢軍が激突を繰り返しており、黄巾の残党も各地で蠢いている。
徴兵される正規軍ではなく、己自身の兵力こそ今求められるものだ。
この并州には古くから匈奴族が住んでいる。
かつては漢帝国を属国にしたほどの勢力を誇ったが、幾度かの討伐と匈奴の分裂によって落ちぶれていた。
とはいえ、個々の戦士としての力量は並みの漢人を凌駕しており、これを兵力とできたならかなりの精強な軍ができるだろう。
丁原はそう考えた。
そして、并州各地から募兵し、兵を選抜し、強力な軍を組織した。
その中に、呂布がいた。
彼を見た時、丁原は震えた。
一見、物静かな青年に見えるが、その内に何かとんでもない化物を押さえつけているかのように感じたからだ。
しかし、いくら心が震えたとはいえ呂布は登用したばかりで実績はない。
本当は軍の指揮官に据えたかったが、それはできなかった。
そのため、丁原付きの文官という名目で近くにおくことにした。
その呂布の軍才が発揮されたのは、すぐ後だった。
全鮮卑を統率した檀石槐亡き後、鮮卑族の侵攻は収まりつつあった。
だが、侵攻が止んだわけではない。
檀石槐の跡を継いだ子の和連は、行いの粗雑さにより鮮卑族からの忠誠を失っていたが、父譲りの豪胆さと強欲さは失われていなかった。
まとまった人数が集まると、しばしば和連は漢の北辺を襲撃した。
その時も、そうだった。
并州はその北辺をよく守られており、異民族の襲撃をよく防いでいた。
だが、檀石槐が漢帝国の入口である雁門関を突破して以来、そこから度々鮮卑族が攻めてきていた。
和連も、その突破口から侵入し、雁門あたりの諸郡を襲った。
雁門郡からの救援要請は、并州の州治所である太原郡の晋陽にすぐに届いた。
太原郡は雁門郡のすぐ南にある。
そのため、丁原はすぐに軽騎兵による討伐隊を編成、自身も鎧をまとい出陣した。
もちろん、側に仕えていた呂布も共に出陣した。
雁門で吹く風は、故郷の五原郡九原のそれとよく似ているように呂布は思った。
目の前には略奪を終え、悠々と駆ける鮮卑の騎兵がいる。
丁原はその油断しきった鮮卑を追撃し、雁門の守備兵らと挟撃するつもりだろう。
説明されたわけではないが、呂布にはわかった。
呂布の内には“化物”がいる。
父である呂陸に鍛えられ、刻み込まれたそれを、父は“神”と言っていた。
それを解き放てば、呂布は人中に名を轟かすことができる、とも言っていた。
『お前はもう俺を解き放つしかない』
己の内なる声を呂布は聞いた。
その声に抗うことなどできない。
それは己自身であるからだ。
丁原の策を無視するような形で呂布は前に出た。
もちろん、すぐに鮮卑騎兵に見つかる。
同時に潜んでいた丁原の兵も見つかる。
「うぬ!?奉先!何をしておる!」
と丁原が留めるも時すでに遅し、鮮卑騎兵は戦意を取り戻していた。
呂布はそんな鮮卑の敵意を受けても何も感じなかった。
まるでそよ風だ。
ただ天を仰ぐ。
青い空。
目を焼くほどに眩い太陽。
呂布は咆哮を発した。
叫びでも、大声でもない。
まるで獅子が獲物を威嚇するように、いや己の偉大さを示すように。
雷鳴のようにそれは轟いた。
咆哮を受けて、鮮卑騎兵の動きは止まった。
丁原の兵も、その人ならぬ咆哮を聞いて足を止めてしまった。
ただ一人、呂布のみが歩みを進める。
片手には長戟。
呂布は徐々に足を早め、駆けていく。
「我がくびきから解き放たれよ」
『解き放つのは俺ではない』
『お前だ』
内なる声はそう言う。
『俺はお前だ。お前が俺を解き放つのだ』
「私は」
『さあ、我が名を呼べ。お前の名である我が名を』
「我が名は」
『歴史に名を残す、最強の武神の名を!』
その内面で繰り広げられている会話は、彼のみのものだ。
外からはただ彼が駆けているようにしか見えない。
だから、彼の内面の統一、羌族の秘技で言うところの“神降ろし”が果たされた時のそれは単なる名乗りにしか聞こえなかった。
だが、その名乗りは彼と、その周囲を大きく動かすことになる。
内なる声、内なる己、本当の自分を解き放った時、彼はこう言った。
「我が名は呂布!呂奉先なりッ!」
呂布の戟がひらめき、目の前まで接近していた鮮卑騎兵を貫いた。
己が死んだことを信じられないような顔で鮮卑騎兵が落馬し、動かなくなると呂布はその馬にまたがった。
馬は嫌がることはなかった。
むしろ、何年も乗っている愛馬のような懐きぐあいだった。
馬に乗った呂布は、次の鮮卑騎兵に接近し、すれ違う一瞬で戟で貫いた。
「ええい、臆病者どもめ。わしが相手をせん!」
一人の鮮卑騎兵がばっと呂布の方を向いた。
彼の名は戟暘谷。
檀石槐の部下として、多くの戦いで活躍した武人である。
主君亡き後、その息子の和連に仕えた。
そして、今回の襲撃の実質的指揮官となり、ここ并州までやってきたのだった。
彼ほどの人物でも、呂布の咆哮で足を止めた。
何かとんでもない獣と相対している気分になった。
だが、それを強い自制心で抑えると戟暘谷は己の槍の柄を強く握る。
そして迎えうたん、とした時。
戟暘谷は宙に浮いていた。
胸には呂布の戟が突き刺さっており、正確に心の臓を突いていた。
何がなんだかわからぬうちに、鮮卑の戦士は絶命し率いていた騎兵らも同じ末路をたどった。
そう、戟暘谷のあまりにも鮮やかな撃破は、鮮卑騎兵らの闘志をすっかり喪失させていたのだ。
逃げることすらできずに、鮮卑人は漢の地で次々と命を散らしていった。
生き延びた騎兵の報告を受けた和連は并州への侵攻を諦め、その矛先を涼州へ向けたが、そのことが彼の死を早めることになった。
ともあれ、人外の活躍をした呂布に丁原は歩み寄った。
作戦を無視したことや、戦いのことを話すつもりが近づくにつれ、些細なことのように思われた。
「奉先……」
「主君、欲しいものがあるのです」
明瞭な声に思わず丁原は呂布の顔を見た。
物静かだった青年の顔はもう無くなり、精気に満ち目に光が集まっているような印象を覚えた。
「何が欲しいのだ?」
「武器です。ほら、この戟は私の扱いに耐えきれない」
見ると呂布の使っていた戟はまるで何年も酷使したかのように曲がり、折れ、欠けていた。
戦いの前に新品を支給したはずなのに、だ。
「どのような武器を?」
もう武器を与えることは確定したように丁原は聞いた。
「戟です。長さはもっと長く、穂先に三日月型の刃を加えて……」
呂布の説明する武器は丁原の知るいかなる武器とも違っていたが、なぜかそれを鍛冶屋に頼もうと思っている。
「いいだろう。それでその戟はなんという名なのだ?」
武器の名を聞くのもおかしな話だ、と丁原は言いながら思った。
「四方の天をも画つ。私の求めるのはそれです。そう言うなれば“方天画戟”」
この青年の望みをなんでも叶えようと丁原は思った。
私はそのために生まれたのだ、とも丁原は思ったのだった。




