百二十一、文約の迷い
「天牢獣顎の計」
と王国は言った。
「俺は一応反対だ」
「私もだ。このような場所、危険極まりない」
韓遂と宋建は、その案にとりあえず反対する。
王国のたてた策はこうだ。
反乱軍の本隊は右扶風の丘陵地の低い場所に布陣する。
これは孫子で言うところの天牢にして、天羅という大変守りにくく、見つかりやすく、包囲されやすい場所だ。
こんなところに布陣するのは兵法を知らぬ素人のやることだと馬鹿にされる。
漢軍はこれを好機と攻めてくるだろう。
しかし、丘陵地の丘の上に兵を伏せておくことで迂闊に攻めてきた敵を奇襲し、挟撃することができる。
獣の口の中に誘い込み、顎を閉じるように。
これによって、相手の戦力を壊滅させることができる、と王国は請け負った。
ともあれ、有利な状況で敵を減らすことができるのならばそれに越したことはない。
そう判断した韓遂は、伏兵の場所を一ヶ所増やすという条件で賛成に回った。
宋建は韓遂に従うことにしているので、全員がその策の実行に同意したことになる。
「文約殿?」
王国が去った後の軍議の場で、宋建は浮かぬ顔の韓遂に話しかけた。
韓遂は事実上の反乱軍の盟主である。
だが反乱軍の指揮権は王国にある。
なぜか、というと王国が持ってきたものが原因だ。
平民であったという王国の実家の遺産。
そこには数百年前に滅びた新帝国の財宝が隠されていた。
それを元手にして軍資金、兵糧、兵士を集めて私兵団を組織して王国は反乱軍に身を投じた。
湟中義従などで軍略、武芸、指揮を学んだ彼は一軍の将としてではなく、盟主として反乱軍の主導権を握ったのだ。
「奇策がすぎる、と俺は思うのだ」
「相手を倒せるなら奇策を使うのは良いのではないか?」
韓遂の懸念を宋建は不思議だと思う。
勝てば良いのでは、と思うのだ。
「奇策と正攻を組み合わせることで真に有効な策となる、と孫子も言っている。しかし、裏を返せば奇策のみを用いるは効果が薄いということになる」
「ふうむ。まっすぐ敵に攻めかかると見せて、相手の横腹を突く方が効果が高いが、ただ横から攻めただけでは容易く防がれる、みたいなことかね?」
「その通りだ」
「その工夫が王殿に足りぬ、と?」
「俺はそう見た」
「なれば、またやればよいではないか」
邪魔をする者は味方であろうと討ち取れ、と宋建は言外に言った。
既に韓遂は一度やっている。
二度も三度も同じだ、とでも言うように。
「それは奥の手だ。それにそれをやる、と思われている味方を動かす方が楽なのでな」
「味方に背中を狙われていると油断などせぬからな」
「それに王国殿の兵はやはり強い。陽動に使おうと逆撃し勝ってしまいそうなほどには」
「利用できる内は利用する、と」
「……これは本当に俺の考えなのか、少し不安になる」
「どういうことかね?」
「状況的には涼州をほぼ抑えた我々は、誘われたように右扶風に向かっている。しかし、本当なら涼州に誘い込んで討つ方が勝てる可能性が高い」
「ふむ」
「なにも涼州で満足しているわけではないが、軍を興すには時期が早い」
「確かに、王国殿が合流せねば早くても秋にならなければ涼州の外まで動けなかったと私も思う」
「呼ばれている、のかもしれぬ」
「それで不安そうな顔をしていたのかね?」
「勝利には天の時、地の利、人の和が重要だが、我らはその全てを逸していると思ってな」
「……そのために、埋伏の場所を一つ増やしたのかね」
「……勝つためではない」
数日の間、韓遂の顔から不安が消えることは無かった。
王国の奇策は不発に終わった。
布陣をする前に埋伏した兵も、不利な地に置いた本隊も、漢軍は攻めなかった。
斥候が来た気配はあったが、漢軍の本隊は陳倉城から動くことは無かった。
策が看破されたはずは無い。
伏兵を見破ったならそこから攻めるだろうし、伏兵に気付かなかったなら不利な場所にいる反乱軍の本隊を攻めるはずだ。
見に来ることすらない、というのはどういうわけだ。
韓遂は漢軍の内紛すら疑った。
反乱軍が関中に侵入してきたのだぞ?
涼州を落とされたのとはわけが違う。
かつての都である重要拠点の長安、漢帝国の食料庫、そこに敵が攻めてきたら全力で撃退する。
それが漢軍の方針のはずだ。
韓遂の最初の反乱の時も、幾度かあった羌族の侵入の時もそうだった。
王国は「皇甫嵩なにするものぞ。半ば隠居したような者にまともに指揮をとることは無理だったのだ」と高笑いしていた。
韓遂の疑念は最大限に深まった。
皇甫嵩は機略縦横の将だと理解している。
それは黄巾の乱の時の彼の用兵から明らかだ。
不測の事態を起こさぬことを彼は重視しているはずと韓遂は判断していた。
皇甫嵩と董卓の間に亀裂があるのでは、というのが宋建の推測だった。
漢帝国に忠誠を誓う皇甫嵩と己が野心のために動く董卓では、いずれ不和が生じるかもしれない、とは韓遂も予測はしていた。
だが、それにはまだ早い。
赴任してすぐのこの段階では、対立が起こるには早すぎる。
また、早すぎる、か。
と韓遂は思った。
この戦は全てこれだ。
何もかも時期が早すぎる。
何かに、誰かに急かされているような気がするほどに。
韓遂は一度、王国に撤退を打診した。
「我らは何もしておらぬ。勝ちも負けもしておらぬのに、撤退とはどういうことなのだ?」
と王国は不思議そうに聞いてきた。
鼻で笑われたり、案を一蹴されたり、軍議から追い出されるわけでないのは良かったが、王国の韓遂に対する信用は少し損なわれたかもしれない。
「では、ここから陳倉へ真っ直ぐ攻めかかる、と?」
宋建が話を継いだ。
「無論だ。物見によると敵はほぼ全軍を陳倉に集めておる。これはつまり、美陽の再現であろうな」
美陽とは反乱軍と漢軍の最初の決戦の場所だ。
長安近くの小城に誘い込み、全軍で反乱軍を倒そうとした当時の車騎将軍張温だったが、明け方に奇襲し、包囲という優位性で韓遂らはほぼ勝った。
だが客星の出現で羌族が浮き足立ち、逃走。
背後を董卓軍に突かれ、大敗を喫した戦いである。
どうやら皇甫嵩は同じ事を、ちゃんとした城である陳倉でやろうと言うのだろう。
「城に籠られると厄介では?」
籠城した敵を打ち破るには、守り手の三倍の兵数が必要になるという。
漢軍のおおよその兵数は皇甫嵩軍一万、左将軍一万、董卓軍一万、それに徴兵した兵がおおよそ一万。
四万の兵が籠る城を落とすには十二万が必要ということになる。
今の反乱軍にはそれだけの兵はいない。
「城に籠るのならば、我らで別動隊を作り、長安を襲わせればよい。我らと戦うか、長安を守るか、いずれにしても籠城は解ける」
また奇策か、と韓遂は声に出さずに言った。
隣にいる宋建だけが気付く。
「なるほど。では攻城兵器の類いは不要と?」
「うむ。敵の城壁を崩すのではなく、心を崩す。それが智者の戦いというものよ」
満足げに頷く王国に、宋建もそれ以上言葉をかけることは無かった。
この時の漢帝国の内情を知っていたならば、籠城という時間のかかる策は取るはずがない、と韓遂も王国も判断しただろう。
そして、皇甫嵩が陳倉の外に出て戦うという予想もできていたかもしれない。
だが反乱軍はそういう判断はせず、決戦の地へ吸い込まれるように到着した。
そこは陳倉城。
四十年後に蜀漢と魏の戦い、第二次北伐の舞台となる場所でもある。
そして今は王国、韓遂、宋建率いる反乱軍と皇甫嵩、董卓の漢軍が激突する場所である。




