百十六、涼州の混乱いまだ止まず
反乱軍の内乱の知らせは董卓を通じて、洛陽に届いた。
反乱軍は消滅したとは言えぬものの、勢力は落ちたと判断された。
そして、涼州が落ち着いたことで朝廷は再度涼州を帝国の領土として活用することを決定。
新たに宋梟という人物を涼州刺史に任命し、赴任させた。
この人物は中常侍の宋典の甥である。
宦官の中でも特に十常侍と言われた権力者の一人である宋典は、一族の者を次々に地方の役人に任命しており、宋梟の赴任もその一つであった。
しかし、この宋梟はその縁戚とは裏腹に品行方正な人物であった。
いや品行方正が過ぎていた人物、と言ってもいい。
ここ数年、大乱が続く涼州に来て彼はこう言った。
「涼州は学問をする者が無く、その教えが広まっていないように思える。だから反乱や暴行がしばしば起こっているのだろう。『孝経』を多く写本させて、涼州の民にこれを習わせれば、民も義を知り、知を得て乱は収まるに違いない」
新たな刺史の発言を受けて、蓋勲はげんなりした。
この蓋勲は漢陽長史であり、乱の最中の阿陽城での防戦、州治所である冀県の防衛と人徳による敵の撤退などの功績で(論功行賞こそ遅れているものの)州の重鎮となっていた。
それはともかく、つい先日までここ漢陽は戦場であった。
そして、反乱軍は滅びてはおらず、いまだ蠢動している。
そんな時に、民に学問書を配れ、というのだから危機感が無い。
蓋勲は刺史に無礼で無いよう言葉を選びながら発言した。
「古来、様々な国が滅び、傾いてきたものですが、その国々は学問が無く愚かな者ばかりだったのでしょうか?そのようなことはありますまい。そして、この涼州はいまだ戦時です。そんな時に兵を養うことをせず、学問書を配ったとて効果は薄いでしょう。朝廷にも笑われましょう」
選んだつもりだったが後半になるにつれ、遠慮が無くなってきたと蓋勲は反省した。
しかし、蓋勲の言葉は宋梟には響かなかったようで、刺史はこう発言した。
「ならば上奏し朝廷の許可を得ようではないか」
宋梟の中では、孝経を配ることは素晴らしいことで誰にも反対されることはない。
配布は既定路線になっているようであった。
蓋勲はあきらめて、宋梟のするままにした。
さて、宋梟の上奏してきた孝経配布の要請に、朝廷はどう反応したかと言うと。
呆れ返った。
大将軍何進も普段仲のよろしくない宋典に思わず「よいか?」と聞くほどだった。
これは配布を認めてもよいか、ではなく罷免してもよいか、という確認だ。
宋典も「仕方ありませんな」と答えた。
宋典は宋一族が繁栄するために一族に地方官の役職を斡旋しているのであって、毒にも薬にもならぬ無駄なことをさせるためではない。
朝廷からの返答は許可ではなく、宋梟の罷免と召還命令であった。
次に任命されてやってきたのは楊雍という人物であった。
彼の赴任と同時に、涼州防衛の論功行賞が成され、蓋勲は漢陽の郡太守に任命された。
この蓋勲の太守任命は、その土地の人物を太守や刺史には任命しないという慣習から逸脱している。
これは基準が変わったのではない。
その土地を守らざるを得ない人物、その土地に既得権益を持つ人物でなければ治めることもできなくなっていたのだ。
漢帝国の威光が衰えていることの証でもある。
そして、この楊雍が刺史であった秋。
漢陽郡では飢饉が起こっていた。
この年の春まで涼州全土は戦時下であり、特に漢陽郡では漢軍六万、反乱軍も同数という兵が駐屯していた。
そのため、種まきもままならず、兵に田畑も踏み荒らされることが多かった。
夏になると収穫の不足が見てわかるほど決定的になっていた。春の時点での刺史は宋梟であり、彼はすぐに罷免され対策はできなかった。
その責任を楊雍に負わせるのもおかしな話だが、この刺史は特に何もしなかったようだ。
冬になり、食糧不足が深刻化すると蓋勲は自身の家の食糧庫をまず開き、そして諸郡、近隣の州などから食糧を集め配った。
それによって千人あまりが助かった、という。
楊雍は何もしなかったことを問責され罷免され、蓋勲も責任を取り(資産が尽きたこともあるだろうが)太守を辞任した。
次に任命されたのは耿鄙という人物である。
彼が赴任したのは年が明けてからである。
年号は中平四年(187)となっている。
彼は現地の情勢に明るいという理由で、とある人物を登用していた。
その人物の名は程球と言う。
一昨年に張温の幕僚として下向した彼は、昨年の漢陽での戦いで大敗した後、姿をくらませていた。
どうやら中央には戻らず、涼州に隠れ潜み、そしてなに食わぬ顔で新たな涼州刺史に取り入ったようだ。
彼の顔を知る人物はみな中央に戻っていたため、その正体とやらかしたことを知る者は涼州にはいなかった。
そして、ここでも彼はやらかした。
飢饉を起こしたばかりで疲弊している涼州に重い労役を課した。
数年に渡る戦いで涼州諸郡の城壁や砦は普請が必要となっており、それはいずれはやらなければならないことであった。
しかし、すぐにそれを課したことで民衆と付近の異民族の不満が蓄積されていく。
しかも、その普請にかかる費用の一部を横領していたらしい。
それもまた、民衆の反意を得るのに充分な理由であった。
その乱の気配を見逃さなかったのが、韓遂である。
彼は手勢を引き連れ、羌族や氐族の兵を集め挙兵した。
韓遂に対し、耿鄙は自身で兵を指揮し討伐に当たろうと考えた。
程球にやらせたことは耿鄙の発案であり、それに反意をもって乱を起こしたということは耿鄙への反乱である。
ならばこれを鎮圧し、韓遂を討ち取ることで自身が涼州刺史に相応しいことを証明するよりない。
さらに今は半ば乱世であり、武を示すことが即ち出世への足掛かりとなるであろう、とも考えていた。
しかし、蓋勲に代わって漢陽太守となった傅燮は耿鄙の出兵を諌めた。
傅燮、字を南容と言い硬骨の士であった。
背が高く、そしてその長身を細く見せないだけの筋肉がついている。
黄巾の乱では護軍司馬として皇甫嵩の元で戦っていた。
そして、上司に似て不正を許さぬ性質であったようで、宦官と対立していたようだ。
十常侍の趙忠が彼に大きな役職を与えて取り込もうとした時も「論功行賞によらず侯になるわけにはいかぬ」と言い、それを断った。
これによって趙忠の恨みを買い、左遷させられたのが現在の漢陽太守の任である。
彼は刺史が人心を失っていたことを知っていたため、出兵を止めようと言葉を尽くしたがついに果たせず、耿鄙は涼州諸郡より六万を集めて出陣してしまった。
涼州刺史軍は漢陽を出て隴西郡に入った。
そして、隴西の郡治所である狄道へ向かって進軍を続ける。
この狄道を拠点に隴西郡を平定し、韓遂の本拠である金城郡へと攻めこむ算段であった。
しかし。
漢陽太守傅燮の危惧していたように、刺史の耿鄙、そして従軍していた程球への憎悪は涼州の民に積もりに積もっており、反乱軍の方に親近感を覚える者の方が増えていた。
それは刺史の軍の中にも多くいて、韓遂に呼応して、逆心した。
あるいはその寝返りに韓遂が呼応した、と言ったほうが正確かもしれない。
要するに、耿鄙率いる涼州刺史軍の中から寝返りが起こったのである。
内側からの攻撃に備えも対応もできず、まず程球が真っ先に討たれた。
耿鄙は反撃を各将に命じるも、ほとんどのものがそれを聞かず、あるいは寝返りした者に同調して刺史に刃を向けた。
憎悪の連鎖はいかんともしがたく、涼州刺史耿鄙はここ狄道にて命を落とした。




