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董卓伝暴狼記  作者: サトウロン
114/168

114、包囲からの脱出

 董卓は魚釣りは得手では無かった。


 しかし、右扶風あたりの出身の兵の中には釣りや漁業の心得がある者もいて、董卓ら彼らを河へ向かわせ魚を取らせていた。

 董卓も太公望よろしく、釣りざおをたらしてみている。

 釣れる時もあれば、何も釣れぬ日もある。

 包囲が始まって半月もたてば食糧など無くなるので、その前から魚を獲り少しでも兵糧の減りを抑えようとしていたのだった。


 そういう風に、反乱軍には思わせたかった。

 実際、兵糧は厳しい。

 本来は、渡河したあとは渭水から船で補給する手筈だったのだがそれも難しい。

 河には敵方の見張りはいない。

 しかしそれは油断ではなく、漢軍には船が無いし、渡河できる地点は反乱軍で抑えているからだ。


 だが、それこそが好機であると董卓はほぼ毎日、川岸に来ていた。

 最初の包囲の際の董卓軍の突撃はすさまじく、反乱軍にもかなりの被害が出ていたようだ。

 そのため、それを恐れてか、反乱軍は積極的な攻勢を仕掛けてこない。


 董卓軍は河で魚を獲るふりをしていた。

 その実、何をしているかというと堰を作っていたのだ。

 河に大きな石を並べ、水の流れを塞き止める。

 あるいは緩やかにし、徒歩で渡れるようにしている。

 これが敵方に知られれば、力攻めにされ、堰は壊されてしまうだろう。

 敵が被害を出したくないのと同様、こちらも兵を減じるのは避けたい。

 なにせ、兵卒は関中の民である。

 漢帝国の食糧庫である関中も、麦を育てる民なくば荒れ地へと変わってしまう。

 そのため、なるべく兵を減じさせずに故郷に返すのは指揮官として当然の務めであった。


「そんなことを、昔は考えたこともなかったな」


 と董卓は呟く。

 大きな石を抱きかかえ、河へと並べる。

 その石の列は河の中程へと届いている。


「何か言ったか、大将」


 耳聡い張済が呟きをとらえて聞いてきた。


「いや……敵が追ってこれぬように堰を一度に壊せる仕組みをせねばならぬな」

「それについては抜かりは無いぜ。水の流れっていうのはとてつもなく強いものだ。軽くこちらで引いてやれば、あとは河自体が押し流してくれる」

「なるほど、河伯かわのかみに託すわけか」

「そのとおり」

「なれば、あとは時期を待つか」

「だな」


 二人は西の方を見た。

 よく晴れた涼州の青い乾いた空が見える。



 渭水の水源は隴西郡の首陽県にある鳥鼠ちょうそ同穴どうけつ山にある。

 鳥や鼠が同じ穴に住んでいるということから、その名がついた山だ。

 そこから流れ出た川の流れがやがて渭水となり、漢陽郡を抜けて関中に入り、長安にまで流れていく。

 山の麓では、春の陽気に積もった雪が溶けて川に注がれていく。

 あまりにも多くの雪解け水を含んだ川は、いつもより水量を多くして流れていくのだ。


 春の陽気が、戦も忘れさせるような日が訪れた。

 そして董卓はその夜、兵士を集めた。

 石を積み上げて作ったかまどにはまだ火が炊かれており、何かを煮る湯気や、木の燃える煙が高く天に昇っていく。

 まるで、ここにいる者らが今夜もこれから夕食をとり、寝てしまうかのように。


「では、これより撤退する」


 董卓が低く言うと、兵らは静かに頷いた。


 ついに堰は完成し、董卓軍は夜陰に乗じて撤退を開始することになったのだ。

 馬が騒がぬよう口に布を詰め、ゆっくりと河を歩いていく。

 統制の取れた軍は静かに静かに行軍する。

 騒げば斬る、と全軍に伝えてある。

 静かに渡れば命は助かるとあれば、それに従わぬ兵はいなかった。



 夜半、いつまでも途切れぬ炊煙を不審に思った辺章は、董卓の陣を見に行かせた。

 馬を駆けさせ戻ってきた斥候は、董卓軍の不在を報告した。


「ぬかった!」


 逃げられぬはずの窮地、背水の陣から逃げおおせる。

 それをやられた辺章は、軋む体を動かし馬に乗った。


 河の北岸にある董卓陣に駆け込むと、報告通りそこはもぬけの殻であった。

 焚き火やかまどの火は赤々と燃え、まるで今にもここに誰かが戻ってきそうな雰囲気を醸し出している。


「包囲は突破されておらぬのだな!?」


 包囲していた羌族の兵らは頷く。

 突撃されるほど近くにおらず、遠巻きに囲んでいたことは報告しなかった。

 辺章が激怒していたのがわかったからだ。

 いつも青白い顔は、血管が浮き出ており、端正な顔だちとあいまって鬼神もかくやという形相だった。


「ならば……河か!」


 強行突破でなければ河を渡るよりあるまい。

 辺章の思考はすぐにそこに行き着いた。

 だから、人が残っているような細工をして時間を稼ぐ必要があったのだ、とも。

 

 辺章は馬を駆りたてて、南にある渭水へ向かった。

 おそらくは河に橋をかけたか、新たに浅瀬を見つけたか。

 それとも別の方法を考えたか。

 ともかく、董卓は河を渡る方法を思い付いたのだ。

 辺章は己の怠慢に歯噛みをした。

 もっと早く手を打っておけば。

 監視を厳にしておけば、とやれなかったことばかりが頭をよぎっていく。

 そしてすぐに辺章は渭水にたどり着いた。

 夜闇にさらさらとせせらぎが聞こえる。

 そして、河の向こう岸には松明の灯りが列をなしていた。


 すでに董卓軍は河を渡った後だ。


「否!奴らに渡れるのならばこちらとて同じこと。河を渡って追撃を……!?」


 さらさら、というせせらぎに違和感を覚えた。

 ここは渭水だ。

 隴西から涌き出て、漢陽郡を抜けて右扶風を行き長安へ、さらに東へ流れる大河だ。

 上流に近い、とはいえこんな水音をするわけがない。


「辺章!ずいぶんと歓待してくれたな。おかげで魚料理も好みになったぞ!」


 と向こう岸から大音声で董卓が声をかけてきた。


「おのれ!戻ってきて一戦交えよ!」

「これ以上、じっとしているのもつまらぬゆえな。そうだ、辺章よ。貴殿に一つ馳走してやろう」

「馳走?」


 何を?という辺章の声は、何かが崩れる音がして消された。


「我が故地、隴西から流れる雪解けよ、存分に味わうがよい」


 その、董卓の言葉だけがやけにはっきりと聞こえたのだった。


 張済の仕掛けによって、堰はがらがらと河の流れに押され崩れさった。

 さらに、春の陽気に溶かされた雪解け水が瀑布のように一気に流れていった。

 夜の濁流に足を踏み入れるような蛮勇を持つ者、あるいは愚か者はなく、辺章らは悠然と去っていく董卓らをなす術なく見送ることしかできなかった。


 董卓は山の麓の雪が溶け、河の水量が増すのを待っていた。

 単に堰を崩しただけでは、辺章らが把握している浅瀬を渡って追撃される可能性があったからだ。

 そのため、浅瀬ごと消し去るような濁流を待ち、それが起こる陽気の日の夜に行動したのだった。


 董卓軍はそのまま東進し、隴山を越えて右扶風に帰還した。


 張温率いる漢軍六軍の内、五軍が敗走し、軍の形を保っていたのは董卓だけであった。

 また、金城へ向かった周慎、孫堅軍も敗走したことで涼州における戦役は漢軍の敗北と決まった。


 張温らは長安に戻り、董卓は右扶風に駐屯した。

 右扶風の相である鮑鴻と共に、反乱軍が右扶風を入口とした関中に入らないように守るためだ。


 涼州戦線で漢軍が破れ、涼州全域に漢帝国の支配力が弱まった。

 董卓はもはや涼州を奪還することを諦め、それ以上の侵攻を阻止する考えだ。


 反乱軍はそこで再起し、再び涼州を支配するのか。


 しかし、そうはならなかった。


 反乱軍の内部の反目が顕在化し、内乱となったからである。

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