CHAPTER 9
日がてっぺんから少しに西に傾いた時に眠りに付いたのだが、目覚めると目の前が真っ暗だった。寝過ぎた。馴れない酒を飲んだせいかもしれない。だが、酒瓶にはまだたっぷりと酒が残っていた。
昼の間食のせいで腹はまったく空かない。手さぐりで下へ降りて行くと、微かな灯りがついていた。今はいくつだろうと思って、主人に声をかけた。
「よく眠ってたね。六つだよ」
主人は障子を開けて、中に招くような仕草をした。中には人の気配がする。そっと主人の後に覗いてみると、五人くらいが円を描いて座っていた。年や職は様々なようだ。女が一人と男が四人。主人と惣右衛門を含めると七人だ。なにかの儀式か?
「お友だちですか?私がお邪魔しては…」
「いえいえ、時々集まりますが、皆悩みを持つ人たちが集まって打ち明けて行くのです。あなたもどうですか?とても悩んでいそうですから」
主人ではなく男の中の一人が答えた。一番年がいっている男で、他の三人の男たちに比べると身形がいい。大家とか隠居した旦那なのだろう。
「いえ、その…」
なんとなく踏み入れてはいけない気がした、が、惣右衛門の肩を主人は押している。どうやら逃げられなさそう。
「お名前をお伺いしましょう。なに、本名でなくてもかまいません。ここにいる仲間たちにどう呼ばれたいかですよ」
いきなり仲間って。なんだそりゃ。無理矢理輪の中に座らされたが、あとの三人の男はまともではなかったし、女も行灯の薄明かりのせいか不気味に見える。隣り合った頬に傷のある男と目があって、惣右衛門は笑みを浮かべたが、内心恐怖でいっぱいである。
「あ、はは、あの……惣弥です」
「さあ、今日初めて加わった惣弥さんです。みなさん挨拶をしましょう、こんばんは」
「こんばんは」
三人と主人の声が重なって、惣右衛門は気が遠くなった。無意識に出てきた名前は幼少期のものだった。
「さて、この会の仕組みですが、人に自分のことを聞いてもらうことを第一の目的としています。一人ずつ自分の考えていることを話し、聞いている人たちは好意的な意見を述べましょう。惣弥さんは今日初めてですから、無理して話さないでもいいですよ。まずは仲間たちのことを聞いてみましょう」
勘弁してくれと口から出てしまいそうだった。皆を取りまとめている男は、じゃあ文吉さんからと、惣右衛門の目の前の男の名前を呼んだ。
文吉はアヘンの常習者だった。次の久兵衛は酒がないと手が震え、すぐにカッとなってしまうのだという。音瀬という女は自分の不注意で友人を亡くしてしまったと嘆いていた。恵吾は博打好きで女房を泣かせて出て行かれた。頬の傷は最後の喧嘩の時付けられたものだという。
「もう、半年やってません」
「それは凄い!みなさん、拍手しましょう」
惣右衛門は手を鳴らしたが、文吉の目の下の隈が酷いことが気になっていた。とてもじゃないが、ついていけない。寝起きの惣右衛門には辛すぎた。一回り話終わった後に、みんなで手に手を取り話題だという浄瑠璃を大声で歌うのだ。傍から見たら、不気味だった。
助かったことに惣右衛門は話さなくてもいい。早めにおさらばしたかったが、こうも暗いと家に帰る気は失せた。しかし、会の仲間たちはめいめい家に戻っていくようだ。あ、仲間って言っちゃった。進行役の男は近所の差配だという。
「旦那、どうする?このまま泊っていってもうちはかまわないよ」
そうしよう。昼間寝てしまったから今からは寝ることはできないだろうが、体を動かす気にはなれない。再び寝床に戻った惣右衛門は横になった。真っ暗では天井さえ見えない。暗がりで惣右衛門は今日の出来事を整理してみる。いろいろと濃い一日だった。里香や千代の顔が遠くに感じられる程。
千代の顔を思い浮かべると、辛かった。初なところがある彼女は、父親に女がいると知ってどれほど傷ついただろう。だが、誓っておみよとは関係が無かった。娘と同年代の“子供”に惹かれるなんて考えられない。世間にいるそういう人たちを惣右衛門は軽蔑していた。自分が大人たちと同じことをやっている頃に産声を上げた子だ。だが、当事者たちからすればお互いしか見えていなく、年月は勘定に入っていないのだろう。年上の男性に憧れる娘は自然だし、周りにいる同世代の少年たちが幼稚に見えるのかもしれかった。彼女たちの憧れる諸兄がかつて、自分たちが冷遇している少年たちであったことを知らないのだ。それに気が付いて初めて大人になるのかもしれない。
少なくとも、娘がいる惣右衛門には無理な話だった。娘は惣右衛門の目の前で育ち、手の中で生きてきたのだ。娘のスラリと伸びた足が、惣右衛門の肘下より短かった時代を知っている。肩車して道を歩いたことを覚えているのだ。あの羽のような軽さを。
その娘が、他の男を好きになり、惣右衛門の手から離れていき、今まさに父を非難しているのである。耐えられない。
楽しい思い出はたくさんあった。妻に怒られるのを承知で子猫を拾って帰る途中の道や、二人で買い食いをして「お父さんと千代の秘密ね」と指きりげんまんしたことを。
その時見せた笑顔を、千代はその相手にも向けているのだろう。成長した喜びを感じないわけではない。でも、それを悲しむ心もあった。今はそれが強いのだ。
惣右衛門が反対したところで、娘はその一之助やら、その他大勢の男たちの中の一人といつか結婚するのだろう。それが千代の好きな相手だったらいいが、好きなだけでは全て丸く収まらない。自分のことは棚にあげて、惣右衛門はどうにかして栄次郎を婿にできないか考えた。千代だって彼のことを嫌ってないはずだった。それには自分では説得力がない。惣右衛門と里香は恋愛結婚だったから。
里香のことを考えると胸が締め付けられるようだ。妻は夫のことを信じてくれないばかりか、激しい口調で責めた。里香のそのような姿を見たのは初めてだ。驚いて言い返せないうちに、里香は出て行った。どうしてなんだと叫び散らしたい。
酒も博打もしない。煙草だってヤニ臭く、歯が汚くなると聞けば止めた。女遊びだって結婚してからは一度もしたことがなかった。寄合の帰りに誘われることが無かったわけではない。女が寄りつかないわけでもない。
不惑の年を越えてからは、夫婦の間だってだいぶ御無沙汰だった。抱きたいという衝動が小さくなっても、一緒に寝たい日だってある。
それを遠慮するのは、妻を大事にしているという一言で済まされるものではなかった。もしかたら、というよりも、ずっと確かである。随分前から惣右衛門の中でくすぶり続け、何度消そうと思っても消えないものだった。
***
倹約家で無駄遣いが嫌いな母が、料亭に?千代は耳を疑った。母は興奮した様子で、店の者たちになにか欲しいものはないかと訊ねまわり、寛太に書き留めさせ、その紙切れを懐に入れた。その足で蔵から小判を鷲掴みにかかり、呼んでおいた駕籠に乗り込んだ。尋常ではなかった。母は千代を叱ることはあっても、感情を露わにして怒り狂ったことなどなかったから。小さな修羅が通り過ぎたように店は静まりかえり、もう終わりにする刻限に、やっと彦兵衛があれはなんだったのだと首を傾げた。
その後も里香はいちいち店に寄り、家に届けさせる手配をさせた。駕籠の人足たちに大いに弾み、料亭に着くと、母は信じられない速さで酒を飲み、食事をたいらげた。芸子たちを呼び寄せ、どんちゃん騒ぎをした後に、懐からじゃらじゃらとおあしを出し、釣りはいりませんと言い放つ。唄の上手かった芸者の袖にこれまたおあしを入れていた。
「どうしちゃったんですか、お内儀さん」
「わ、わかんない。お母さん…」
「千代、芳吉、今日はお金を使う日です。ほしいものがあったらいいなさい」
四十六になる女の購買欲は半端じゃなかった。大人買いというが、大人遣いだった。やっと家に帰ってこられたのは、夜の五つ過ぎ。千代は眠くなってきている。顔を洗い化粧を落とすと、ネコちゃんたちが寄って来た。
千代の布団は少し大きめでネコちゃんたちを全部収容できる。明日考えればいいや。
が、朝になっても、父は帰ってこないし、母は昨日のはしゃぎようが嘘のようにどんよりしていた。
父が帰ってきたのは、翌日の昼過ぎだ。千代は謝ろうとしたが、機会を無くしておろおろしているばかりだ。そのうちに、今日の店仕舞いをすると、母と口も利かずに家を出て行った。




