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CHAPTER 8


 今朝、娘がなにか書いているのは分かった。昨日、垣根越しに話しているのも見つけたし、芳吉が手引きしたということも知っていた。里香は芝居を見に行くふりをして、芳吉を分かっているから手紙を出せと脅した。女主人に逆らえるはずもない芳吉は観念したように手紙を渡し、項垂れた。千代が好きな南…だったような気もする町方同心のこ倅が、夫の周辺を探ったことは明らかだった。初めて人の手紙を読んでしまったという後悔と、娘の詰り声に震えるような高揚を覚え、里香は夫を罵倒し、半狂乱になって家を飛び出した。


 だが、里香はすぐにしまったと焦った。今日、どこにも行くところはないのだ。静を振ってきてしまったし、金を渡してきているとはいえ、静は不貞腐れ、里香は行くところもなく時間を潰すしかない。

 だが、久しぶりに一人で出歩く町は気持いいものだ。千代が外へ行きたがるのも分かるきがした。

 初夏の気持ちのいい日だ。歩けば少し汗ばむくらい。昼の四つを過ぎて、日比谷町の稲荷神社で一休みした。

 人々は働き、里香には目もくれなかった。その中で冷静に考えてみると、酷い言葉を使って夫を傷つけてしまった。否定していたのに。


「でも、あの時、なんて言えばよかったというの?」


 もし夫が離縁状を渡してきたらどうしようと考え、その次にそんな器量の狭い男ではないと思い直す。それに、嫉妬しない女房というのも味気ないとすら思う。

だが、結局は考えを巡らせたところで、里香は惣弥に嫌われたくないだけのだ。自分に興味がないと思いたくない。その一心にいろいろとおまけが付いて、考えているふりをさせているだけだ。

里香は帰って、謝ろうと思った。他人の手紙を読み、勘違いし、理不尽に責めてしまったことを。例え浮気していようと、彼が自分の口から話したのではないのだから、里香のほうが悪かった。でも、本当に浮気していたら、どうしよう?

 重い腰を上げて、岐路に着こうとすると、その途中で里香は侍に話しかけられた。身形はよく、里香がすれ違う時に横にずれると、里香を呼び止めた。


「もし、あなたは…」


 どこかで見たことがあるような気がした。どこの家かは思い出せない。半纏なら家紋も付いているだろうが、彼はなにも羽織っていない着流しだった。里香が侍の顔を見上げると、四十前後の男性が白い歯を見せて笑った。


「大内里香さんではありませんか?」

「え?」

「八柳徳次郎です。覚えていませんか?恭太郎の弟の」

「え…」


 嘘、と里香は袖で口元を覆った。覚えている、忘れられるはずもなかった。里香の記憶ではまだ元服前の少年だったのだが、目の前にいるのはすっかり落ち着いた男性だった。一目では分からないはずだ。


「あの…」

「すいません。どなたかの奥方になられたのですよね。失礼でしたか」

「いえ」


 鉄漿や青い眉を見たら誰でもわかる。が、控えめな潰し島田に気が付いていないのか、里香が商家の妻だとは思わなかったのだろうか。当たり障りのない会話を、と探して里香は彼の兄を訊ねた。


「恭太郎さまはお元気ですか?」

「あ、いえ…兄は去年亡くなりました」


 息を止めた。そうですか、と相槌は打てなかった。徳次郎は立ち話もなんですから、と里香を茶屋に誘った。赤い腰掛けに座り、団子を注文している最中に、彼は里香の顔をしげしげと見ていた。たぶん、ひどく老けたと思っているのだろう。最後に会ったのは、丁度娘盛りだった。よく徳次郎は里香だと気が付いたものだ。


「その、恭太郎さまはどうして?」

「病気で…五年前に妻を亡くしたもので、気が弱くなっていたのかもしれません」


 里香はまあ、相槌を打つ。ではお世継ぎは、と訊ねると、徳次郎は恐縮して答えた。


「子供は娘三人だけで、ずっと冷や飯食だった私が当主になりました」

「まあ、そうなんですか」

「と言っても、姪っ子の婿が決まれば私も隠居です」

「徳次郎さまはもうどこかの家に養子に行かれたのかと思っていましたわ」

「それが、愚図なものなので、どこにも決まらなかったのです。恥ずかしいことですが」


 弟はあれで頭がいいんだ、と恭太郎は照れくさそうに言っていたのだが、世の中そう上手くいかないのだろう。


「ご謙遜を…」

「本当なんですよ。困ったことに」


 冷や飯食となれば、妻は娶れないし、兄の小遣いで暮らしていかなければならないのだ。徳次郎は笑っている。が、里香の家より少し石高が高いだけだった八柳家が冷や飯食を置いておけるだろうか。


「それに、物語を書くことにはまってしまいまして」


 里香の疑問を汲みとってくれたようだ。


「凄い」

「いえ、折よく出版できたからよかったものの、姪に小遣いをやるのが精いっぱいで」


 本の題名を教えてくれと頼むと、徳次郎は照れながら、一言二言言い訳をして、教えてくれた。もしかして、千代が読んでいたやつかも。里香ははしゃいだ。


「娘が読んでいましたわ。勧められたのですけど、お恥ずかしながら娘ほど漢字が上手くないので、なかなか読めませんでしたの」

「娘…」


 ええ、と里香は弾んでいた。何と言っても娘の千代は男の子のように漢字も読めるし、本だって何冊も読む。そして夫に似て、人に好かれる可愛い顔をしているのだ。里香にとって千代は自慢だった。ちょっと裁縫ができないくらい目を潰れる。


「娘さんが」

「ええ、一人娘で、可愛くてしかたがないのです。ちょっと甘やかしてしまったけど、優しくていい子だと…親バカですね」

「そうでしたか、それはよかった」


 徳次郎は何度も頷いた。里香はその理由が分からず、彼を見返した。


「あの?」

「とても幸せそうで、こっちまでなんだか嬉しくなりましたよ。兄も、勝手だとお思いになるでしょうが、あなたのことを気にかけていました。すみません…」


 里香は少なからず衝撃を受けた。恭太郎が気にかけてくれていたなんて。


「いいえ」


 そうとだけ答えた。夫のことがあったから、素直に身に沁みて、里香も泣きそうだった。徳次郎は潤んだ瞳を里香に見せて、柔和な笑みをつくっている。


「私も…実は言うと、兄や父はなんて薄情なことをしたのだと、憤っていました」

「しかたありませんよ」

「でも」


 徳次郎は言い淀んだが、意を決したように前を向き、里香には横顔が見えた。こんな時なのに、里香の脳裏には惣弥の鼻筋が思い浮かんでしまう。職人の作品のような鼻なのだ。鼻筋から鼻先までが短く、先がやや上向いている。里香は惣弥の鼻が今まで見た中で、一番好きだ。何度眺めても飽きない。徳次郎はその里香を引き戻す言葉を持っていた。


「私は、あなたに憧れていました」


 過去のことだ。だから、彼は素直に話せるのだ。


「そんなこと、一度も言ってくださらなかったのに」


 里香は慌てて茶化した。自体はそんなに甘くなかったようで、うろたえた。


「すみませぬ。本当は、あなたの嫁ぎ先も知っていました。一度、家を出る覚悟であなたを探したことがありました。でも、もうあなたは他の人の妻になっていた」


 商家に嫁ぐなんて余程のことだと徳次郎は思ったらしい。きっと金に困ってのことだと、金に物を言わせた主人を切る覚悟で店の前で探っていたが、里香の夫を見る目を見て悟った。きっと惣弥の容貌も手伝ったのかもしれない。これがいかにもな人物だったら、里香の制止など聞かずに刀を振り回していたかもしれなかった。生憎、惣弥はその頃輝くような美男だったし、女の里香も霞みそうだった。


「それからは付き纏ったりしていないので、ご安心ください。街中ですれ違ったことはありますが、今日は本当にたまたまお目にかかりましたし、兄のことがあったので」


 里香は信じた。嘘を付いているようには思えなかったから。それに、徳次郎の言葉はじわじわと里香の中で熱を持っていた。それが苦しくてしかたがない。


「随分と話しこんでしまいました。すみません。お一人でしょう、ご自宅までお送りします」

「…ありがとうございます」


 かろうじてそれだけ口に出来た。籠に乗るかという申し出を断り、隣を歩く徳次郎を見上げた。恭太郎は言っては悪いがどこにでもいそうな男だった。強烈に覚えているような気もするが、過去のことなので日々ぼけていく。弟も同じで、何の変哲のない顔をしている。だが、里香には特別に見えた。追いかけてくれたなんて、可愛いではないか。


「もし、ご迷惑でなかったら、またお会いできないでしょうか」

「あの?」

「い、いえ!もちろん、ご心配でしたら、ご主人や誰か信用の出来る人とも一緒に。ただ、その」

「私はもう四十六ですよ。主人もまさか私が間違いを起こすなんて、考えもしないでしょう」


 里香は笑った。四捨五入すれば五十だ。誰がこんな婆を相手にするだろうか。徳次郎は里香のことを考え過ぎて、いらぬ心配までしてしまったようだ。


「そんなことありません。相も変わらずお綺麗です」


 里香を持ちあげた彼は、頬を赤銅色に染めている。まあ、悪い気はしない。里香は小躍りして、ざまあみろとはしたなく吐き捨てたい。誰にとは言えないけど。


「お口がお上手だこと。さすが作家さんですわねえ」

「い、いえ、本心です。決して…」


 そうなると、里香はだんだん惣弥に腹が立ってきた。なんなんだ、あいつは。さっきの従順な妻の顔は隠れて、生まれ持った高飛車な態度が出始める。確かに初恋の思い出にときめいて、徳次郎には婆の自分に膜が掛かって見えているのかもしれない。そうすれば小さな皺やシミや、白髪などは見えなくなるだろう。だが、それは惣弥も同じなのだ。女にもてるからって、調子に乗りやがって。おめえもジジイじゃねーか。あら、はしたない。


「徳次郎さんとお話していると、昔のことを思い出して、懐かしい。こちらこそ、またお会いしてくださいね」


 残念だったのは惣弥が家を出ているということだった。またションベン臭いガキのところに行っているのかと思うと、むしゃくしゃした。相手は四十の中年とはいえ年下の男に口説かれているのに。その姿を見せてやりたかった。

 番頭は里香に申し訳なさそうによってきて、惣弥が病で寝込んでいることにしてくれと言い残してどこかに出かけてしまったという。里香はますます腹を立てた。


「千代は?」

「お嬢さんは、部屋に戻ってますよ」

「そうですか。彦兵衛さんにお店のことは任せます。あと、芳吉をかります」


 自分でも驚くほど大声で千代を呼ぶと、ついでに芳吉も呼んだ。二人が血相を変えて里香の元に来るのに時間はかからなかった。


「千代、出かける準備をしなさい。芳吉も」

「お、お母さん?どこに出かけるの?」

「料亭です!」



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