CHAPTER 10
入れ違いになったらしい一之助からの手紙は、拗ねているようにも見える。千代は一家の一大事にも関わらず、顔がにやけるのを止められなかった。栄次郎と一緒にいる千代を見て、やきもちを焼いたらしいのだ。千代は体を捩った。もう、可愛いこと書かないでよ!
千代の謹慎もあと二日で解けるという日に、母の友人だという侍が、店に訪ねてきた。丁度仕事中で、父も居たのだが、そっけない態度で侍を家に通した。その父を見て、母はさらにむくれたよう。
「すいません。居てもたってもいられなくなり…お恥ずかしながら」
「いいえ、千代も私も退屈していたところです」
母は父にわざと聞かせているとしか思えない大きさで話した。千代には彼が誰か分からないから、ちろちろと伺うしかない。
「千代、来なさい」
「はい」
「これは、可愛らしい娘さんだ。どちら似かな?」
「よく、父親似だと言われます」
刺々しい台詞だ。千代はどぎまぎした。おしゃべりの千代も、両親の仲がただならない時に、この闖入者と軽々しく口を利けるほど、神経が太くない。
「千代、こちらの八柳さまはね、お母さんの昔の婚約者の弟君なの。ほら、この間話したでしょう」
千代は頷いた。でも、母はその人のことあまり印象に残っていないようだったのに。
「二日前にたまたまお会いして、千代の好きな本をお書きになっている戯曲者さんだと知ったの」
「え?」
母は千代の大切にしまってある本の題名を一つ二つ出して、にっこり笑った。うっそー。千代は口を両手で隠した。そう言えば昨日、その本を貸してくれと母にせがまれたばかりだった。
「千代ちゃんが読んでくれていると聞いて、嬉しくて、こんなに早く」
「いいえ、千代も喜びますわ」
「喜ぶどころじゃないわ!私、表紙が擦り切れるほど読んだんですもの。友達もみんな好きで、どうしよう、署名してもらえませんか?」
「いいよ」
八柳徳次郎は自分の著者名をちょろっと書くと、はにかんだ笑みを浮かべる。千代は本を抱きしめて、先ほどの緊張を忘れ、喜んだ。現金なものだ。母の小言も聞き流す。
「こんな凄い人と知り合いなんて、お母さんすっごーい」
「これ、千代」
そう言いながら、母はまんざらでもない顔をした。八柳さまは千代の下品な態度も気にならないようだった。読者だから?
女中の静が、お茶とお茶菓子をのせた盆を持って、障子を開けた。いつもより高級そうなお茶菓子とお茶は、お武家さまには少し失礼な気がする。そんなわけで、静は困った顔をしている。
「旦那さまが…」
母は固まった。高級なお茶菓子は、あんたの石高ではこんなもの買えないだろうと嘲っているようにも見えるからだ。しかし、八柳さまは途端に、嬉しそうな顔をして、丁寧にお礼を言った。
「いやはや、私のために…すみません」
心が広い方なのか、それとも天然なのか、おいしそうにお菓子を頬張る。母はひきつり気味の笑い声を上げた。
「お、お気に召されたようで」
八柳が帰った後、母は父の元に抗議しにいった。
「ちょっと、あなた?あれはどういうことです?」
父は先ほどの羊羹の残りの半分を丸齧りしながら、なんのことだととぼける。千代はその様子を見て、はらはらとした。
「よりによってあんな高級の、うちだってめったに出ないのに!」
「喜んでいただけただろう」
「失礼にも程があるわ!」
「帰る時、礼を言われた。気付いてないよ」
さらに羊羹を口に運ぼうとした父の手を、母は遮る。
「羊羹は一日一切れよ」
「俺は修行僧か?お小姓か?この家じゃ、薬膳料理ばっかりだ!食った気がしないよ」
「最近、太ったでしょう!私に隠れて食べている証拠よ」
父も千代も母によって食事を支配されていた。太らないようにとか、病気にならないようにと。そのおかげか、千代も小さいころから修行僧みたいな食事をしている。だけど生まれた時からなので、特に不満があるわけではなかった。それに、母のおかげでニキビもできなかった。
母が喚き散らし、自室へ消えると、父は「くそっ」と悪態をついて、残りの羊羹を貪った。父は阿片も賭けごともやらないけど、甘いものだけは食べることを止められないみたい。廃人にはならない薬物みたいなものよ。おえー。
「お父さん…」
千代は二本目に手を伸ばす父に話しかけたのだが、父は千代を見ると思いついたように言った。
「千代、あの見習いとは別れなさい。自分から言いにくいなら、誰かに言伝てもいい」
「そんな」
「いいね」
「栄ちゃんだって、私のことなんとも思ってないって言ってたのに」
「瀬戸屋さんは、息子は快諾したって言っていたけどな」
「きっと本心を隠したのよ。家のためって…」
「さあどうだか」
「もうっ」
千代も父に背を向けた。父は帳簿を確認し始め、千代を引きとめる気もなさそう。部屋に戻ると千代は泣きながら一之助に手紙を書いた。
***
手ぬぐいには汗がたっぷり沁み込んでいた。梅雨に入ったら入ったで雨が煩わしいが、日光の光で額や月代が照らされて暑い。熱い。
一之助は父の目を盗んで、千代の父親の浮気相手を探っていた。まさかあの千代の父親が浮気をするわけないだろうと楽観していたのだが、どうやらそう上手くもないらしい。裏長屋に入っていくのを見かけたというものを見つけたし、話を聞いてみるとやはり惣右衛門その人だった。
困ったな。千代にはありのままを書いたが、あのおっとりとした少女がどれほど傷ついただろう。一つ年上だったけど、世間知らずで優しい子なのだ。一之助にはまだ女遊びを甲斐性とするだけ経験値を踏んでいなかったし、一之助の父もその類の遊びをしているように思えない。母が死んでからは、仕事を終え帰ってきても、むっつりと黙っている。仕事をしている時は、母が生きていた時と同じようらしいが。その父に育てられた一之助が、妻以外に女を作れる男の心境を察しろというほうが無理だった。
隣を歩く善吉は、父の使っている岡っ引きだった。頼むから加斗屋を強請らないでくれと頼み込んだ一之助に、にやにやして承知してくれた“心優しい”岡っ引きである。その後散々からかわれたが、もう馴れた。事情を知っている善吉だから、今回金にもならない捜索を引きうけてくれた。一之助はたいして小遣いを渡せないのだ。
「坊ちゃん、そら大店の旦那ですよ。女の一人や二人いるでしょう」
「そうかなあ。そういうもんか?」
「だから坊ちゃんはモテるんです。その割には活用しちゃないようですけどね」
三十過ぎの中年親父善吉は一之助の兄みたいなものだ。極悪人面だけど、一之助はそのことを友達に指摘されて初めて気が付いたほど昔からの仲だ。
なんだかんだ言い合っているうちに、自宅に着いてしまった。非番の父が詰碁でも辛気臭い顔でやっているのかと思うと、気が滅入った。
「じゃあ、坊ちゃん。なにかあったら伝えますんで」
「寄ってかないの?」
善吉も寄り付かなくなってしまった。しかたがなしに、玄関を開けると、父が不機嫌そうな顔で一之助を睨みつけていた。
「ただいま戻りまして…」
「一之助、これを見なさい」
「なんです?」
いつもならどこほっつき歩いていたと小言を言われてお終いなのだが、今日は違うようだ。手紙らしい。一之助は玄関先でそれを開けた。
「お前を婿に欲しいらしい。跡取りだから弟のほうをやると言ったのだが、断られた」
「はあ」
どうやら先方の娘さんが焦がれて寝食もままならぬらしい。モテ過ぎる男というのも考えものだ。父はそれが不満なのだ。
「それもこれも、お前の容姿が好いせいだ。普通は下の子のほうが美人・美男と相場が決まってるのに、どうしてお前だけ例外なんだ。木花之咲夜比売も、妹だ」
そんなこと言われてもな。加えて父は古事記の例まで引っ張りだしてきたからたまらない。父の言い分は長男は不細工でも家を継げるので問題ないが、次男三男は養子に出さなくてはいけないから顔がよい方がいいという。そらあんたちの責任でしょうが。一之助は秘かに思った。確かに小さい頃から、近所の女の子に取り合いをされていたり、勉強や剣術の間に集中を妨げるような浮いた話が出来たのも一之助だけだったが、自分の責任かと言えば全てではない。
「ちょ、ちょっと、そんなの俺に言われても…」
守口家では両親も特に美男美女というわけではなかったのだが、一之助だけが美しく生まれた。弟が二人いたが、どちらも平凡な容姿の両親に似てぱっとしなかった。学業や剣術の成績はどんぐりの背比べなのだが。
一之助は溜め息を付く。父の怒声ももう馴れたものだ。
「それに、何度も言ってるでしょ。俺は千代と結婚しようと思います」
「商家の娘に同心の妻が務まるか」
父は不貞腐れたように、まだぶつぶつ言っていたが、一之助は放っておいた。最初から務まるはずがないということは分かっていたし、千代がしきたりや家事を覚えるのに時間を必要とすることも分かっていた。でも、自分や千代の弛まぬ努力と忍耐があれば、いつか乗り越えられるのではないか。その手間を愛さないで、果たして本物の夫婦になれるだろうか。不安はあるが、先は明るい気がした。
それに、父の小言は千代への不満ではなく、いつになっても千代を紹介しない一之助に向けられているように見える。父を攻略するのはそんなに難しくない。千代の両親は強敵だが。




