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CHAPTER 6


 監禁生活も四日目だ。千代はそろそろ飽きてきた。だって、千代の一つの日課である地図の作成は散歩をしなくては始まらない。ネコちゃんたちの絵を描くのも飽きてきた。

 寝っ転がりのつそつしながら、千代は午前中だというのに眠くなってしまう。たぶん、芳吉の声がかからなかったら、寝ていた。


「お嬢さん、一之助さまがいらしてます」

「え?」

「旦那さまは今、お店に出ていらっしゃいますから」


 鏡を見ると、ちょっと髪がほつれているけど、見られない程じゃない。千代は飛び出した。が、返事には、なんだか元気がない。


「どうでした?」


 垣根越しに訊ねてみると、ずずと隙間から文を渡される。


「心を落ち着かせて聞いてほしい。深く呼吸して」

「はい」

「――お父上は、ある長屋によくいかれるそうだ。詳しくはその文に書いてある」

「ある長屋って?」

「とにかく、あまり口頭では言えないが…」

「お父さんは浮気してたの?」

「……」

「なんですって?」

「何も言ってない!わからないが、芳吉に文を頼んで。明日また来るよ」


 千代は夢中になって、母が垣根に話しかける娘を見つけたことを知らない。

逃げるように去った一之助は肯定したようなものだった。部屋に入って乱暴に文を開ける。一之助からもらった文をこんな風に開けたのは初めて。全て宝物のように大切にしていたからだ。

 文章の始まりにはまた「落ち着いて」と書いてあった。落ち着けないわ!

「その長屋には又三郎という、年の頃は五十くらいの病人とその娘が居たり。娘の年頃は二十歳前と思しき。色黒なりと中々の美形」

 ちょっと、私のこと美形って言ってくれたことなんて、あった?いつも可愛いとは言ってくれるけど。千代は娘の容姿がことのほか詳しいことに、むっとなった。

 次は近所の人からの聞き込みが入っている。又三郎は三年くらい前から体を壊している。惣右衛門が現れたのは一年ほど前だという。お母さんが気が付いたのは半年前だから、ほぼ合ってるわね。千代はその次を急いだ。

 一之助は善助という父の岡っ引きに手伝ってもらっている。たぶん親分の友達と手分けしているのだ。近所の「噂」に、疑いを持った耳で聞いてくれと書いてある。つまり、医者にかかる費用やら薬代を肩代わりした見返りに、というものだった。そんな汚いこと、お父さんが出来るはずない!千代の頭は否定した。そして一之助の文も「噂」に対して否定的な文章で締めくくられている。だが、気になるのは、その娘のおみよがどうやら父を毛嫌いしていないことなのだ。金銭のやりとりのある男女の仲にはないような、相手の気持ちを押しつぶしていない関係。父がいる時、とても楽しそうなのだという。

 千代は泣いた。友達の父親にはしょうがない助平がいるみたいだけど、うちのお父さんだけはそんなことないと思っていたのに。まだ、確証はないけれど、近所の人に気が付かれたら、同じなのだ。

 千代は母と湯屋に行く時も、父と目を合わせられなかった。


 瞼があかない。昨日の午後は泣きつくしたし、誰かに違うと言って欲しかったけど、知っているのは芳吉と一之助さまだけだった。

 鏡を見て、ぎょっとした。目は充血して、瞼は腫れ、妖怪かと思った。千代は小さく悲鳴を上げて、もう一度見直したがやっぱり同じだった。

 これも、お父さんが浮気疑惑を起こすから。千代は思い出してみると陰鬱な気持ちになるのだった。まだ決まったわけではないけど、千代にしたら裏切られた気分。母はお内儀なのだから、更に辛い筈だった。

 これは母に話すべき?でも、もうちょっと一之助さまが調べてくれてからでも良さそうだった。早とちりは駄目。千代は自分に言い聞かせると、文を熟考した。

一之助からは、いくら仲が良かった友達でも十粒しか入っていない銀一匁の薬を一年に渡って買って飲ませられるか、という質問があった。これは大いに頷ける。父の友達に又三郎なんて聞いたことないし、暫らく会っていない友達とはいえ、赤の他人だ。

 もし、父が純粋な気持ちから昔の友情を懐かしんで援助しているのなら、それに越したことはない。でも父は正統な後継者である叔父を追い出したこともあるのだ。それが千代に重く圧し掛かる。

 どういうことなの?お父さんはどうして、正直にお母さんや私に言ってくれないの?母は問い詰めるのを躊躇っている。それは自分の恐怖より大きいとは思えないが、父を信頼しているからなのに。

 秘密をつくるなとはいえない。家族だからといって、全てを詮索するつもりもない。だけれど、心配される隙をつくったのは父なのだ。

 千代は気持ちを吹き飛ばすように、一之助に返事を書いた。明けの六つ。なかなか起きてこない千代を、そろそろ母が起こしにくるだろう。素早く墨をするが、あまり濃く出来なかったが、薄すぎるということはない。

 千代の推測を書き終わる頃に、やはり母が声をかけた。母はもう千代に打ち明けた夜のことは忘れてしまったみたい。自分の勘違いに越したことはないと思っているのかしら。障子を開けた母は千代が支度をしているのを見ると、早くしなさいと言った。


「お父さんはもうお店に出ていますからね」

「はい」


 たぶん、父は千代が不貞腐れていると思っている。だから何も言わず店に出たのだろう。


「お母さんは今日出かけてきますから」

「はい。――どこに行くの?」

「……久しぶりに芝居に行こうと思います。お父さんには言ってあるから」


 母にいい子の挨拶をした後、千代は気合を入れて朝ごはんを食べた。母は女中の静を伴なって、家を出るみたい。父が母に、楽しんでおいで、と声をかけていた。途端に薄く化粧をした母ははにかんだような笑みを浮かべる。見ているこちらが恥ずかしいと、筆頭番頭の彦兵衛は千代に舌を出す。千代も笑った。どこにでもいるおしどり夫婦なのに。

 そこへ芳吉が千代の袖を引いた。一之助が来ているのだ。部屋に足早に戻って、墨が乾いているのを確認して、紙を折る。裏へ向かおうとした矢先だった。


「千代、いるかえ」


 父が呼びとめた。さっと芳吉の袖に文を入れると、彼は素知らぬふりをして父の傍を会釈して通り過ぎる。千代は父の元に五歳の時と変わらない笑みを浮かべて近寄った。


「なあに?」

「栄次郎さんが来てるよ」

「栄ちゃんが?」

「栄次郎さんと呼びなさいって言っただろう」


 瀬戸屋に次男坊だった。そんなこと言ったって。


「だって、昔っから知ってるのよ。“子曰く”も教えてもらった」

「せっかく訪ねてくれたんだ。女の子らしくしなさい」


 寺子屋へ通っている時、千代は女大学よりも“子曰く”をやりたかったのだが、先生は教えてくれなかった。栄次郎はそんな千代にこっそり教えてくれて、難しい漢字も読めるように根気強く付き合ってくれた。“子曰く”は途中で飽きたけど、漢字は本を読む際に役に立つから感謝している。

 そんな相手に女らしくもないだろう。栄次郎だって昔の千代のほうがいいに決まっている。千代は父を睨んだが、父も負けずと睨み返した。お父さんは私の友達との思い出まで変えようとするの?

「千代」


「嫌」

「いつまでも子供みたいなことを言うんじゃない」


 たぶん父には千代の頑なさが分からないのかもしれない。栄ちゃんと呼び続けたい千代がただの駄々っ子に見えるかもしれない。栄次郎さんと呼べば、彼はキョトンとする。それが千代には耐えられないのだ。


「千代」


 なんだか今日だけは、むっつりと黙って父の言うことを聞けなかった。もしかしたら軟禁生活と父の疑惑のせいで、かなりの負担がかかっていたせいかもしれない。千代は思った以上に自分が融通の利かない子供なのだと、口が自分の支配を逃れて声を発しているのを聞いて、思い知らされた。でも、止められない。なにが突き動かしているのか、自分でもわからなかった。


「なによ、お父さんだって、私より年下の女の子と会ってるくせに!私が栄ちゃんと栄次郎さんを呼んで、一之助さまを好きになってはいけないの?」


 運が悪かったのは、栄次郎が騒ぎを聞いて駆けつけてきたことよりも、母が忘れ物を取りに帰ってきていたことだ。


「里香…」


 父が母の名前を呼ぶのを聞いたのは初めてだった。母はくるりと後ろを向いて、家から出て行こうとした。父が千代を通り越して、叫んだ。


「誤解だ」


 そのまま母の腕を取る。千代の背中に、栄次郎が手をかけた。父は既に千代を通り越して母の元にいる。栄次郎は尋常でない状況を察知したのだ。


「離して」


 振り向かせた夫を睨む。目は赤くなっていたが、上目遣いには気迫がこもっていた。


「見習いの子供に嗅ぎつけられるなんて、あなたも落ちたものだわ。もっと上手くやると思ったのに…離してよ!」

「俺じゃなく、娘を手籠にした男を信じるのか」


 父の気の抜けた声がする。千代は栄次郎に手を引かれて、その場から遠ざかっていた。その途中で顔の青くなった芳吉が、申し訳なさそうに千代を見ている。だけど、芳吉が母に手紙を取られたと、とっさに推測はできない。

 母の父を罵る言葉を聞きながら、千代は泣いて、手ぬぐいで乱暴に頬を拭かれるままにした。



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