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CHAPTER 5


 信じられないことに、昨日は手を付けられないほど怒っていた妻は、一晩たっただけで娘を許す気になっていた。

 惣右衛門も起こってしまったことをぐちぐちと言うつもりはなかったが、どうしたって怒りは収まらない。千代にというより、弟にだった。それに千代の相手だという同心の倅にもだ。張り倒してやりたかった。

 元々、自分たちの結婚を振り返ってみれば、千代のことも言えないのである。血かもしれないと、諦められた。

 今日は仕入れもないし、主人とはいえ少し店を外してもいいだろう。番頭に言付けると、日差しの強い正午の道に足を踏み出した。人の影は濃く、汗が出るような日和だ。供のものもお天道様が見張っている刻限までは必要ないだろう。


 久しぶりに、と足を伸ばした先は、神田花房町だった。歩いているうちに、怒りも収まってきて、千代ももう二十歳なのに今まで親の言うことばかりを聞いてきたから、あの不良の弟の言うことも鵜呑みにしてしまったのだと反省すら浮かんでくる。手土産を持って向かう先は、大店の旦那としては不釣り合いなところだ。きょろきょろとあたりを見回して、知り合いがいないかと確認した。真面目の上に余計なものまで付きそうな惣右衛門が、浮気なんてしないという思い込みにも期待していた。おみよは、今日は店に出てる日だっただろか?まあ、いいだろう。


 家には障子を際限なく破る猫たちや四六時中吠えている犬がいて、さえずっているつもりの雀は焼いて食ってやろうかと思う度うるさいし、金魚や亀は生臭い。それにもうすぐ鈴虫の季節だった。虫が嫌いな惣右衛門は、今年こそ千代に鈴虫を飼うことを止めさせたい。

 千代は動くものが大好きなのだ。千代が幼いころ猫を一緒に拾ってきた自分が恨めしい。まさか、こんなことになるとは思わなかった。役者にはまるよりはましだと自分に言い聞かせたが、今となってはどっちがましだとも言えない。なにしろ役者なら家中に糞をまき散らさないだろうし、障子を破ったり、散歩に連れて行けと鳴きわめかないだろうから。

 それに、千代はあろうことかミツバチを飼い始めた。勘弁してくれと惣右衛門が泣いて頼んだために、弟の根岸の家で飼うことにしたらしい。近所の農家の人々に協力してもらっているのだが、我が娘ながら飼育方法を調べ上げ、王蜂を貰ってくる行動力には脱帽した。

 そうこうしているうちに、花房町のある横町の木戸をくぐり、一つの前で止まる。


「こんにちは」


 中からくぐもった声が聞こえ、惣右衛門は笑みを浮かべた。少年時代に戻ったような高揚感がする。昔の惣弥は今の惣右衛門よりもずっと強く、偉大であった。将軍であり、悪と戦う任侠だったのだ。

 


「少し、遅くねえか」


 惣右衛門の話しを聞いた又三郎は、随分と痩せた手を組んで言った。万年床のような布団は、おみよもこまめに干しているのだろうが、あまり清潔ではなさそうだった。


「うん。そうなんだけど、どうしても自分の娘が二十歳だとは思えないんだよ」

「そうだなあ」


 又三郎とは古い友達なのだが、長いこと会ってなくて、久々に再会したと思ったら、彼は病気で死にそうだった。慌てて医者に見せたものの、薬を飲めば直る病だという。薬を買う金が無くて死にそうなのだと。急いで薬を買って飲ませた。それから何かと理由を付けては家を抜け出して面倒をみているのだが、最近は起き上がって世間話をしたり、家の掃除も出来るという。その割には汚かった。惣右衛門は話しながらも手を動かして、置きっぱなしの着物や茶碗を片付けずにはいられなかった。おみよが帰ってきたら、そっと溜め息をついて片付けをはじめるに違いない。

 又三郎は友達の様子を見て、苦笑したようだ。


「なあ、惣弥。俺は本当にありがてえと思う。薬代も払ってもらって、娘の勤め先まで紹介してもらって…それに、こうして話し相手にもなってくれる」

「なんだよ、急に」


 むず痒かった。以前の又三郎はこんな風に素直に礼を言える性質ではなかった。年を取って変わったのか、最近の又三郎は素直に感謝の言葉を口にする。それも、挨拶をするようにさらりとだ。その都度、言いようのない感慨が生まれる。はたして、そう思っているのは自分だけか?意外と本人は変わったことに気が付いていないのかもしれない。


「俺はお前に頼りっぱなしだ」


 なさけねえが、と又三郎は節くれ立った手を見つめた。かつて、御家人の次男として生まれて、竹刀を振るった手だった。その手はかつて、惣弥をいじめっこから守ってくれた。なんでも切り開けると思っていたが、そうもいかないらしい。


「迷惑をかけた。本当に、本当に。でも、最後にもう一つわがままをかけたい」

「止めてくれよ。最後なんて、死ぬみたいじゃあないか」

「千代ちゃんの話しを聞いて、思った。なあ、惣弥、最後の頼みだ。おみよを貰ってくれねえか」

「は?」


 又三郎がまた苦笑する。やっと、これだけ返せた。


「妻がいる」

「知ってるよ。別に、奥さんと別れてくれって言ってるんじゃない。ただ妾にでも据えてほしいんだ」


 惣右衛門の顔を見た又三郎は、ぽつりと言い訳をした。


「あいつは、お前のことが好きなんだよ」


***


 水茶屋の仕事が終わると、おみよは家にかけるように帰った。家では父親が慣れない飯炊きをしようと、悪戦苦闘しようとしているに違いない。ありがたいのだが、後片付けのほうが大変なのでおみよは早く帰って自分がやろうとした。

 昼間の暑さを残しながらも段々と静けさに覆われていくであろう町並みを横目に、おみよは足を急がせた。

 しかし、家からはいいにおいがする。どうやらもう準備を始めたようだ。遅かったか。障子を開けると、そこには父ではなく、恩人であるはずの惣右衛門が食事の支度をしていたのだ。おみよは悲鳴を上げた。


「す、すみません。私がやりますから!」


 もうすぐ終わるからいいよ、と惣右衛門は言った。だが、おみよは父を叱りつけたい気持ちでいっぱいだった。いくら昔の友達だからって…


「いいんだよ。それに、おみよちゃんは疲れてるだろう。さあ、座って」


 盆にのった卵焼は普段なら食べられないものだ。惣右衛門が買ってきてくれたものだろう。おみよは今更ながら、自分がみそぼらしい格好をしていることが恥ずかしかった。


「ありがとうございます、本当に」

「いいんだよ。あとは親子でゆっくりとして」

「惣右衛門さんは?」

「もう帰らないと、叱られるからね」


 タスキをおみよに返した惣右衛門は、父と同い年だとは思えない若々しい笑みを浮かべた。今日はすぐに帰ってしまうらしい。いつも大した長居をしたことなどなかったが、おみよはもう少しいてくれてもいいのに、と思う。もちろん、そうなったらどうしようとも考える。だって、惣右衛門がいるなら少し身綺麗にしなくてはいけないからだ。

 惣右衛門を木戸で見送ると、なんだか気が抜けてしまった。部屋で待っている父には悪いが、とても戻れる状態ではない。それでも戻らなくてはならないのは、部屋の片付けをしなければならないからだ。

 おみよは今年で十九になる。惣右衛門の娘が二十で、彼女の一つ下だった。ということはおみよが生まれる前に、惣右衛門は父親になり、その前には一人の女性と出逢っているということなのだ。

 戻ろう。おみよは踵を返した。父が腹を空かせていたら悪い。

 部屋では父が盆を並べていた。朝出てきた時より片付いているのは惣右衛門が掃除してくれたのだろう。なんだか、なさけない。


 おみよが八つの時、母が死んだ。父はそれで宿町に嫌気がさしていたのか、住み慣れた江戸におみよをつれて戻ってきた。

 元々顔以外取り柄のないと言われていた父は、確かになにか特技があるわけでもない。母の邪魔になるからと、料理屋の隅でじっとしていた男だった。用心棒くらいにはなるでしょうと、母は満足していたが、父の千鳥足を見てしまっては押し込みがきても楽観はできない。

 最初の頃はよかった。父は髷を町人風に直し、元手のかからない塩売りをして、おみよを育てた。おみよもすぐに貧乏には慣れて、父を手伝うために味噌屋に奉公に出た。

 だが、真面目に働いていればいつかはましな暮らしが出来ると期待していた矢先、父が倒れた。おみよは父親の体を気にして、奉公先ではめいいっぱい働けなくなった。それでもいいと主人や内儀は言ってくれたが、自分の台所が危なくなった途端、おみよは暇を出された。

 父親の薬代のアテがなくなり、それどころか収入が途絶えたのだ。誰か金を借してくれそうな人を探しても、同じ貧乏長屋の住人の顔しか思い浮かばない。同じく貧乏な人から借りられるわけがなかった。

 おみよは父に誰か金を借してくれそうな人はいないか訊ねた。いない。江戸に住んでいたという癖に、知り合い一人いないとは。腹をくくった。おみよはまだ十八だ。もう十八かも。少し色黒なのだが、顔立ちは悪くないほうだと思う。父に似ていたからだ。初めて役に立ちそう。体を売ろうと思った。

 その決心に気が付いた父はある日、そっと惣右衛門の名前を言った。娘が体を売るのとどちらがましか考えたようだ。

 おみよは急いで加斗屋に向かった。大店らしい漆喰の蔵が癪だった。さらに、娘が一人飛び出してきて、犬のチンが彼女の周りを飛び跳ねているのである。いかにも幸せそうな顔は惣右衛門の娘だろう。

 小僧を捕まえて、主人を呼んできてほしいと頼んだ。不審そうな顔に、おみよは父に言われた通りに「伊勢又三郎の娘だと言ってくれ」と念を押した。流石に表で待つ勇気がなかったから店の裏で待っていると、少しも間を置かずに主人らしき男が走ってきた。もしかして、父はこの男の弱みでも握っているのか?


「又三郎の娘ってのは、本当ですか?」


 主人の惣右衛門の問いかけに頷いた。すると惣右衛門は、しげしげとおみよの顔を眺めて、感嘆と言った。


「確かに又さんにそっくりだ」


 おみよは惣右衛門を長屋に連れていく間に、彼の質問に一言で返すしか出来なかった。父にこの種の友達がいたというのも驚きだが、惣右衛門が臭くてデブな親父ではないことに驚いたのだ。父と同い年の筈なのに、父より若く見え、身なりが好いのに加えて、顔まで好かった。彼の娘が輝くのも分かる気がする。

 長屋で再会した惣右衛門はわっと泣き出した。父の痩せた姿に、諸行無常を感じているのかもしれない。


「なんで、もっと早く教えてくれなかったんだ」

「俺ァ、お前に追い出されたんだよ」


 父は苦笑しつつも、涙を流した。金を借してくれるといったことよりも、再会が嬉しかったようだ。

 惣右衛門はそれから何かと理由を付けて面倒を見にきてくれたし、薬代も払ってくれた。友達だとは聞いていたが、父の体を拭いてやったり、便所の世話までしてくれるのをみると、仲の良い友達だったのだな、と推測することができた。まあ、薬を買ってくれるくらいだから、そうとう仲が良かったのだろう。金の切れ目が縁の切れ目とも言うし、とおみよは二人の親父の麗しい友情を見てぼんやりと思う。


 が、困ったことに、惣右衛門が家に来るたびに、おみよはなんだか落ち着かなくなった。最初は金持ちが長屋にいる不釣り合いさかとも考えたが、違うみたい。惣右衛門の優しげな目元がおみよを見ると、動悸が激しくなり、喉から何かがせりあがってくるような、なんとも形容しがたい症状に見舞われるのだった。

 好きなのだと気が付いたのは、惣右衛門と娘が二人して犬の散歩をさせているのを、声もかけられずにただ見ていた時だった。どうしようもない、嫉妬とも喪失感とも言えない感情が、涙となって出てきた時だった。



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